【短編小説】2020/07/25〜#一枚の写真から文芸賞
『2020/07/25〜』
「ほら間違いない。晴れでしょ、だから」
そう言って、女は写真を差し出した。
「夕方からは降ってただろ?それに、さすがに音がすれば僕だって気付いたさ」
「嘘。いい?私はそのためにここに泊まったの。その夜、ちゃんと花火は上がりました。だから、やっぱり勘違いしてるのよあなた」
それは違う。だって、その日の花火大会は中止だったから。
私の方が嘘をついているとでも?おかしな人ではなさそうだけど。(カフェで隣になった他人に、いきなり話しかけて、そのまま座り込むってこと以外は)
だいたい、同じ日に同じ場所にいたなんて。写真をきっかけに口説くつもりなら、話くらい合わせてくれてもいいのに。
女は目を閉じて首を横に振った。
「じゃあ……僕の記憶違い、かな。でもほら、あのホテルに泊まるって結構特別なことでしょ。写真の背景に見覚えがあったんでつい」
恋人と泊まるために、二年も前から予約しなければならなかったあのホテルからの風景が蘇り、思わず声をかけてしまったというわけだ。それだけ、他意はない。(偶然同じ日に泊まっていたと分かると、後から何か必然的なものを感じなくもなかったが)
事実確認が済んでしまうと後に続く言葉が見つからず、運ばれてきた珈琲の湯気をただじっと見た。
「そう、あなたの勘違い」
話が終わったならもう……ああ、そういうこと。男が元いたテーブルにはすでに別の客が案内されていた。
それにしても、カフェのBGMってどうしていつもこれなんだろう。
「スコット・ラファロ」
指でリズムをとりながら男は言った。
「ビル・エヴァンスでしょ」
「ベーシストの方」
あ、そう。
「ねぇ、そういえば。朝食ビュッフェのオムレツ、覚えてる?」
僕はまだ試されているらしい。
「いや、ちょうどその日から、ビュッフェ自体やらなくなったんだよ。しょうがないよな」
「そう、残念よね。目の前で作ってくれて、美味しいって評判だったから」
ふぅん、本当に偶然同じ日に
……出会わなかったけどね。
「この写真の人、君でしょ」
出し抜けに男が言った。
返す言葉は決まっている。
「いいえ、姉。つい最近死んだの」
この類の嘘ってたいてい相手は黙るから、会話を終えたい時に使える。姉なんかいないし、もちろんこの後ろ姿は私。
「二人で、最後に泊まったの」
「それは失礼。……ちょっと待って、写真の右側。やっぱり曇りだ」
この話の流れで、まだそこにこだわる?
「いい?ホテルに着くまでにあなたは夕立に降られた。花火の前にお酒を飲んで寝てしまった。それでいいじゃない」
「そう、例の対策か、その夕立のせいで中止になったのかと。本当はすごく楽しみにしてたんだよ」
楽しみにしていたのは恋人の方で、ある時点では元恋人になっていた。確か、三密なんて言い出したあたりで。その人が特別な日のために選んだホテルに、つまり、一人で泊まった。
ちょうどあのオレンジの屋根の建物の後ろの方。すぐ近くで見えるはずだった。だから当然聞こえるはずの音がしなければ中止なんだと決めつけていた。
「なぁんだ、あの時カーテンを開けていたら見えたのか。君が見たって言うんだもんな」
雨だったかもしれないし、花火は上がらなかったのかも。
この写真を撮った後すぐに、撮影者の彼から別れ話を切り出され、私は猫足のバスタブの中でうずくまって泣いていた。だから本当は見ていなくて、朝になってから「あの山の方に花火が見えた」と聞かされただけ。あの時の彼の表情を憶えていない。二人の時さえもあまりマスクを外したがらないような人だった。
彼は家庭を持っているのを隠していて、それを私はずっと見ないふりしてた。
「そもそも、なんでそんなに花火にこだわるのよ」
「花火そのものっていうかさ、悔しいじゃん。思い込みのせいで、みんなが見ていたのを、自分だけが見れなかったなんて。一人寂しく寝るのに一泊十五万円、台無しだよ」
言い終えると女は腹を抱えて笑っていた。
なんだ、結局、お金か。馬鹿馬鹿しい。
でもそうだ、この男は嘘をつかない。
ぬるくなった珈琲の残りを飲み干すと、溶け切らなかった砂糖が一瞬、口の中でざらついた。
「やっぱり、写真の人って君だよ。間違いない」
アクリル板越しに真顔で言われてまた笑ってしまった。
ドアを開けると、それぞれ別の方向に分かれた。
ちょうど雨の切れ目だったのか、僕が行く側のアスファルトだけがよく乾いていた。坂を下る途中、夕立の後の湿った風が首筋を撫でつける。
そうだ、女の名前くらい聞いておけばよかった。
水たまりの表情で、まだ降っているのが分かる。
下のバス停に着くまで、少しくらい濡れたっていい。
歩を進めるごとに、白い靴に泥染みが増えていく。
男は名前も連絡先も聞いてこなかった。
もしかして、と互いに振り向くのが少し遅かった。
『でも』
遠ざかって行ったのが自分なら、また追いかければいい。
今下りたばかりの坂をもう一度駆け上がる。
どこからか花火の音が聞こえたからだ。(了)
花澤薫さん『一枚の写真から文芸賞』応募用作品でした。
