第I部 神々の時代【ギリシア神話 第10回】ミダス王-黄金の手-
【はじめに】
「あと少しあれば。」
お金でも。
時間でも。
広い家でも。
私たちは、ときどきそう思います。
あと一歩届けば、もっと幸せになれる。
そんな願いは、誰の中にもあるでしょう。
では、その願いが完璧な形で叶ったとしたら。
人は、本当に幸せになれるのでしょうか。
ギリシア神話は、
その答えを一人の王の物語として語り継ぎました。
彼の名は、ミダス王です。

① 神への親切
ミミダス王は、豊かな国を治める王でした。
ある日、庭園で家来たちが一人の老人を見つけます。
酒の匂いを漂わせ、花畑でぐっすり眠っていた老人。
名は賢者シレノス。
酒と祭りの神ディオニュソスに仕える、
年老いた従者でした。
酒に酔って眠り込み、
王の庭までたどり着いたと伝えられています。
家来たちは困りました。
追い返すべきか。
それとも捕らえるべきか。
しかし王は首を横に振ります。
「客として迎えよう。」
王は賢者シレノスを宮殿へ招き、
食事や酒でもてなしました。
数日後、
シレノスは無事に神ディオニュソスのもとへ帰ります。
大切な従者が帰ってきたことを喜んだ
神ディオニュソスは、静かに王の前へ姿を現しました。
「礼をしよう。」
「望みを一つだけ叶えてやる。」


② 黄金の手
王は迷いませんでした。
「私が触れたものすべてを、
黄金にしてください。」
神ディオニュソスはしばらく王を見つめ、
やがて静かに頷きます。
翌朝。
試しに木の枝へ触れると、
茶色い枝は眩しい黄金へ変わりました。
石も。
花も。
椅子も。
噴水も。
朝日に照らされ、
宮殿は黄金の輝きに包まれます。
王は笑いました。
これでもう、欲しいものは何でも手に入る。
そう信じて疑いませんでした。

③ 黄金では、生きられない
昼になると宴が始まります。
焼きたてのパン。
甘い果物。
湯気の立つ料理。
王がパンを手に取った、その瞬間。
柔らかなパンは冷たい黄金へ変わりました。
葡萄酒も。
果物も。
皿の料理も。
口へ運ぶ前に、すべて黄金になります。
豪華な食卓の前で、王だけが何も食べられません。
黄金は増えていく。
けれど空腹は少しも満たされない。
王は初めて、自分の願いを恐れます。
しかし、その恐れはまだ始まったばかりでした。

④ 温もりの重さ
宮殿の奥から、小さな足音が響きます。
「お父さま!」
娘でした。
父の苦しそうな姿を見て、駆け寄ってきたのです。
「来てはいけない!」
王は叫びました。
しかし娘は止まりません。
幼い子どもには、
その理由など分からなかったのでしょう。
心配そうな瞳で父を見つめ、その腕へ飛び込みます。
その瞬間。
娘の身体から温もりが消えていきました。
指先が。
髪が。
頬の赤みが。
柔らかな服の揺れまでもが、
静かに黄金へ変わっていきます。
王は震える手で娘を抱き締めました。
もう返事はありません。
泣き声も。
笑顔も。
腕に残っていたのは、
美しく輝く黄金の像だけでした。

⑤ 王が最後に手にしたもの
その夜。
神ディオニュソスは再びミダス王の前へ現れました。
神は何も責めません。
何も教えません。
ただ王を見つめ、静かに一言だけ告げます。
「パクトロス河へ行きなさい。」
それ以上は何も言わず、背を向けました。
去り際、王の肩に触れかけた手を、
神は静かに引っ込めます。
慰めてよいのか、
それさえ神にも分からなかったのかもしれません。
王は夢中で川へ走りました。
王は目を閉じ、両手を水へ沈めます。
黄金の力は水とともに流れ去り
これまで彼が黄金に変えたものは
全て元に戻りました。
ミダス王が身を清めた名残りなのかパクトロス河は
その後砂金を産する河になった。

【賢王シノレス】
シレノスは父ではなく養父・教育係のような存在です。
ディオニュソスが幼い頃から育てたため、
酒神の従者というよりも師匠・家庭教師に近い役割を担っています。

【神々の系譜】

【酒の神ディオニュソス誕生の特徴】
ディオニュソスは、「二度生まれた神」として知られています。
1. 母セメレは、ゼウスの本来の神の姿(雷光)を見たことで命を落とします。
2. ゼウスは胎児だったディオニュソスを救い出し、
自らの太ももへ縫い込んで育てました。
3. 月日が満ちると、ディオニュソスはゼウスの太ももから再び誕生します。
このことから、ディオニュソスは「二度生まれた神」
と呼ばれるようになりました。
また、ブドウの木が冬に枯れたように見えて春に再び芽吹く姿や、酒が人を陶酔させて新たな生命力を与えるイメージとも結び付けられ、「死と再生」を象徴する神として信仰されるようになります。
