四法印について②諸法無我
はじめに(ご注意)
ネットの大海の中を漂う泡沫の如きこの文章に出会って頂きありがとうございます。得難きご縁を繋いでくださったこと、衷心より御礼申し上げます。さて、この文章は浅学菲才の小僧の言です、チラシの裏の落書き程度に考えて頂き、もし興味を持たれたなら是非御自身で様々な見解を見て深めて頂ければと存じます。
ごゆるりと、ご笑覧くださいませ。(合掌)
諸法無我について
諸は全ての意
法は存在と考えて頂いて宜しいかと、先の諸行が全体的なものであったのに対して、個別的な意味合いとお考え下さい。無我、とは我が無い、自と他を明確に区別するような不変の確固たる自我といったものはあり得ないということです。
つまりあらゆる存在には確固たる自我はありません、ということです。
いや、何でやねん!と思われるかもしれません、私自我あるし、と思われるかもしれません。
「あなたは誰?」と聞かれれば、名前を答えるかもしれません、職業を答えるかもしれません、住所とか、誰の子供でとか、私たちは自分を表す方法をあれこれ持っています。
ただ、それは「相手が聞きたいであろう自分の情報」でしかなく、それに合わせて返答しているだけですよね。もし、名前があなたなら、結婚してもし名前が変わったらどうでしょう。ちなみに私は養子に入って苗字も変わり、名前もお坊さんの名前に戸籍を改めましたので、生まれた時の名前と今の名前は全く違います。こちらに来た当初は免許書の表書きで正しい(?)情報は生年月日と免許の種別だけという状況でございました。
アイデンティティという概念があります、ちょっと違うかもしれませんがこれに似たようなものであるとお考え下さい。
これは絶対不変のものではありません、その時の知識や経験などによって日々変化するものです。基本的には同じ方向性でありましょうが、全く変わらないということはありません。
我とは自分とは、何なんでしょうか。
取り敢えず、あなたは誰と聞かれて、名前を答えるというケースが一番多いと思いますので、まずは名前の認識から考えてみます。
『彌蘭陀王問経』(ミリンダ王の問い)に説かれる名前
『ミリンダ王の問い』と言われるお話がございます。漢訳には『彌蘭陀王問経』と訳され外典として扱われる、つまりはお釈迦さまの直接の教えではないけれど、仏教関連の書籍として参考資料的に扱われる実話です。
紀元前二世紀ころ、インド北部を支配していたギリシア人のミリンダ1世という王様がおりました、音写の別でメナンドロス王とも言います。彼は哲学を嗜み、識者を招いてはディベートをすることを好んだそうです。
ある日、仏教徒で有名なナーガセーナ長老(那先比丘)という人が居ると聞きつけて、論破したろ!と思われたのか、那先比丘を尋ねました。本文は那先比丘がミリンダ王と挨拶を交わし、腰を下ろす辺りから始まります。
ちょっと長いですが、ざっくりと前半部分愚僧の私訳を示します
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坐についたミリンダ王が、まず那先比丘に名前を尋ねます。それに応えてナーガセーナが口を開きます。
「私はナーガセーナと皆に呼ばれております、が、それはあくまでも呼称であり、通念であり、記号であり、名称にすぎませぬ。それに対応する固定の実体や人格なんぞはどこにもありゃせんのですがのう」いきなりのことで王は驚き聞き返します。
「ちょ、ちょっと待て、今固有の実体や人格が無いと言ったか?だがそれではおかしな事になるぞ、では貴方の信者達が世話している存在は何であるのか、またもしそうであるならば貴方が何をしても罪にも善にも成らないし、誰かがあなたを害したとしてもその罪を問うことも出来なくなってしまう。
いったい何を以てナーガセーナであるとするんだ。ナーガセーナとは何なんだ」
那先比丘はニコニコして答えます「記号に過ぎません」
王は重ねて尋ねます
王「髪がナーガセーナか?」「いいえ」「では爪か?」「違います」「では……
こうして「歯、皮膚、肉、骨、五臓六腑…」と順番に肉体を構成するすべてのパーツについて尋ねました。
比丘の答えは全部「いいえ」。
ミリンダ王は忍耐をもって重ねて問います。
「ではそれら全部がナーガセーナか」「いいえ」「五感なんかの感覚作用か」「いいえ」「認識作用か」「いいえ」「それら全てを集めればナーガセーナか」「いいえ、違います」「ではその五体の外にナーガセーナはあるのか」「いいえ違います」
「っざけんな!!!」ミリンダ王ここに来て「あれ、もしかして俺馬鹿にされてね?」と思い、怒り爆発致しました。
「もうねえよ!体のパーツは全部言った、全部だ。内にも外にもない?んなわきゃねえだろうが、ん?ってこたあ、てめえ適当ぬかしやがったな?覚悟は出来てんだろうなあ!!??」
ところが那先比丘は落ち着き計らって言います
「はっはっは、王よ、落ち着きなされ。」と、ミリンダ王の言葉の隙を縫って言葉を挟みます。
「私からも一つお尋ねいたします、王よ、この場所までは歩いてこられましたかな、車を使われましたかな?」
「わしは王だぞ?車に決まっている!」
「なるほど、王よ、では車と今仰った、先ほどお乗りになられたものは一体何でしょうか」那先比丘は穏やかに、しかし王を真っ直ぐに見て言葉を続けます。
「車輪ですかな?」「いいや、ちがう」「では手綱?」「いや」「では車軸、或いは車室、或いは輈(ながえ)でしょうかな、あるいは車台でしょうか?」「いや、どれも違う。」「ではそれら皆持ってきたら、それは車でしょうかな?」「いいや、そうとも言えない」「ではそれらの外側に車と言うものはあるのでしょうか?」「いや違う」
「王よ、私も全部言いましたぞ。王は車に乗ってこられたというが、車はどこにいってしまったのですかな。はて、王は嘘をつかれましたな」と笑いました。王は焦って言います
「違う違う、いや車って何て言うの、全部のパーツが組み合わさって、それぞれが関係し合いながら、それを引っ張る牛も含めてパーツ毎の仕事をする。それがかみ合った状態のことを車って言うわけやん。ほら、通念っていうか」
「王様それ!!」嬉々としてナーガセーナは言います「ナーガセーナも同じ事なんですわ。」
王は感嘆して少し帰依の心を起こしました。
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といったお話です。
もうね、一休さんかと(笑)
けれど、名称とはまさにこのようなものでございます。人の名前も勿論、車とか机といった名称、この名称というのが我々が認識する「ひとつのもの」つまりは「諸法」を指すわけです。
対して私とは、その瞬間の複合的な機能であるわけで、実は単純なものではないということでございます。
諸法それぞれの無我
引用
“ことば”こそが
”世界の在り方を分かち定めるものだから“
Ex)『最果てのパラディン』
ひとまず、同一性を持ちつつ変化し続けるものを同じものとして分かち定めてラベリングする。そうして我々は世界を見ているわけです。つまり先に申し上げた縁起によって生じる、あらゆるものが繋がって広がっているタペストリーの「ここは変化が小さくて同じに見えるよね」という部分を切り取って名前を付けていくわけです。
この様に申し上げると、いや、私たち人間は分かち定めるまでもなくそれぞれ個ですやん、と仰るかもしれません。でも例えば子どもの頃の自分と、今の自分は全く別人と言っていいほど違う存在でありませんでしたか。けれどそれは同じ存在「同一の私」として理解、認識をしております。よく考えますと不思議ではありませんか。また、先のナーガセーナ長老の話しにもありましたが、人間という存在は内臓や血管やいろんな臓器があって成立しているわけで、様々な相互関係に於いて成り立っています。
いやそれは同一のDNAによって生じるものであって不可分のものであると思われるかもしれません。では腸内細菌をはじめ諸々の必要とされる微生物らは別の生物であるとなりましょうが、これらはどうなりますでしょうか。
そんなことを考えますと、どうやら私たちが私と認識しているのは、やはりこの意識というものであるとなりましょうし、西洋哲学が「我思う故に我有り」からスタートしたのというのもやはりそこに帰結するのではないかと愚考する次第でございます。
この辺りを纏めますと、個々の意識、即ち私、というものは先のナーガセーナ長老のお話にあるような、「個々のパーツの働きがかみ合って生じる機能」の如きものであるとなるわけでございます。
この「私」というものもまた、因と縁によって変化し続けるわけでございます。「他のものは変化するけれど、私は変わらない」なんてことは当然あり得ません。意識としても私もまた知識を得たり、感情を覚えたりと、刹那ごとにごく微小なアップデートをし続けているような状態でありますので、全く同一の自我などあるわけもありません。
ただ、先にも少し触れましたが、刹那の内に全く違うものに変化するわけではなく、同一性を持って変化を続けている、いうなればフルモデルチェンジせずにマイナーチェンジを延々と繰り返す車みたいなもんで、マイナーチェンジで少しフロントグリルの形が変わったり、ヘッドライトの雰囲気が変わったりとしても、それはちょっと変わったけど同一の車種であると認識致します。けれど十年以上前のカタログと見比べてみると「全然違う車みたいやな」と思ってしまうでしょう。
同様に「私」という同一性を持ったまま、少し背が伸びたり、考え方が変わったり、知識が増えたり、此れを繰り返すので同一性を保っているわけです。
この同一性というのは「同じものとして分かち定められたもの」であり「直前とほぼ変わりないもの」という内容でありますので、そこに「固有の我」つまり「全く変わらずに貫かれる自分を自分たらしめる何か」といったものは存在しようがありません。
更には例えば以前伺ったことですが、やはり文化や習俗によって言語は変わるようで、日本語と対応の取れない単語があったり、日本語で分類されているものが同じ単語で表現されたり、勿論逆も然り、文化によっては日本語母語話者がびっくりするような細かな分類があるそうです。
つまり何が言いたいかと申しますと、文化によって言葉の切り取り線が違うなんてことはざらにあるわけです。よって「如何なる血族に連なるものか」とか「コミュニティの中でどのような役割のものか」とか「何を好み何を嫌うものか」とか、その文化によっての優先順位が変わりますので「あなたとは何か」に対する答えもまたは文化によって違ってきます。
「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」(ドンッ!!)
なんてネットミームが流行りましたが
「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」
Ex)『HUNTER×HUNTER』
相反するようで、いずれも解り味の深い言葉であるなあと記憶に残っておりますが、それぞれがその状況に応じての言葉ですので、決して普遍的な正しさを持つものではありません。
何故ならば、好きも嫌いも都度、変化するのですから。
関係性の中の無我
このように個としてだけ見た、縁起の中にある自分、というだけでもこのように常住不変の自我は否定できるのですが
さらには、自分の事を100%理解できているかと言うと、殆どの方はそうではなく、岡目八目なんて言葉があるように、他者の方が見える部分と言うものもございます。そうなってきますと「Aさんが思うAさん」と「Bさんが思うAさん」「Cさんが思うAさん」は全部違います。相手との関係によって全部違うわけです。「本当の自分は」なんてことを言うことがありますが、ある意味に於いては「本当の自分」なんてものはありませんし、ある意味に於いては全部が本当の自分です。
いずれにしましても、生徒がいるから先生でいられるわけです。部下がいるから上司であるわけで、主体があるから客体があるわけです。小学校六年生の子は低学年の子相手には大人として振舞いますし、親の前では子どもとして振舞います。
また例えばH2O、つまりは水という物質があります。
これが例えば山の中を流れていますと小川とか沢とか呼びますし、途中で溜まっておりますと池とか泉とか水たまりとか呼びますし、落差を伴っておりますと滝と言ってみたり、公園なんかで下から吹き出せば噴水と呼び、湯舟に溜めればお風呂と呼びます。また温度が上がればお湯、下がれば水と呼ぶわけです。また、その境界線もあいまいなものです。
そうやって考えてみると、意外と自分とは、と自問したとき、名前とかという記号か、或いは何かとの関係性、つまり相対的な要素しかないことに気が付いて愕然としたり致します。そしてそもそも、それは自己そのものではなく、自己が所属するもの、張りぼての外側でしかありません。絶対的な自己などどこにもなく、ただ、自分の意識だけが「ここにあるぞ!」と声高に叫んでいるにすぎないわけです。その意識もまた変化し続けているのですから不変の我、絶対的自己などどこにもありません。
またそういった関係性に於いても、個々の存在は変化し続けているのですから、当然関係性も変化し、社会的な自己というのも変化し続けます。
いったいどこに「不変常住の自己」があり得るのでしょうか。
まとめ
ということで、至極当然なこととして個としての自己の中にも、社会的な自己の中にも「自分を自分たらしめる、不変の要素」などはどこにもありません。
留意しなければならないのは「だからあなたという存在なんて無いのである」ということではありません。いま現在存在しておりますし、だからこそ、こうして文章を読んでいらっしゃるわけです。道路を走るトラックという存在はちゃんとあり、自分という存在もちゃんとあるのですから車道に出るとぶつかります。諸法は存在しているのです、けれどその中に常住不変の中核になるようなものはありません、というだけのことです。
つまり此処までで申し上げていることは。変わらぬ存在がないということと、変わらぬ芯のようなものもまたないということです。
それなのに「私って〇〇じゃないですかー」的な、一時的、限定的な概念を「これこそが私」と強調していったり、自分の手を離れて勝手に生じていく感情やらを「これこそが自己存在である」と思い込んでしまい、振り回されてしまうことが問題になってくるわけです。
例えば「前日まで嫌で仕方なかったけど、やってみたら意外と楽しかった」などという経験は誰しも一つはあるのではないかなと思うわけでございます。また私の如き暗愚の者は、今まで苦手意識があったものの中に楽しみがあることを再認識する日々でございます。感情とは、斯様に信のおけるものではありませんし、何より私たちは、意外と自分自身の事を解っていなかったりもします。
以上のごとく語弊があるかもしれませんが、自分というものに「自己を成立させる不変常住のファクター」というものが無い、何物にも変化させられない自己などもない。
すごく頼りなく、寂しい気がするかもしれません。
然しながら
だからこそ自分を縛るものはなにもなく
可能性が無限にあると言えるわけです。
決まった自分なんてものがあっては、決まった形にしかなれません。ですから、これもまた呪いではありません、自己は自由であるという祝福と捉えることもできましょう。
