ブエノスアイレスの日々⑦ フェルナンド・スアレス・パス
この記事は、フェルナンド・スアレス・パス氏とのレッスンについて記した内容のため、有料記事とさせていただきました。『ブエノスアイレスの日々』本編の流れは、そのままお楽しみいただけます。
N子さんは約束通り、マエストロ(フェルナンド・スアレス・パス)に連絡をとってくれた。そしてレッスンの日時まで決めてくれた。
ところが僕には困ったことがあった。
三年間の英国留学中、作曲の勉強ばかりしていて、ほとんどヴァイオリンを弾いていなかったのである。
もちろん留学中の夏休みには帰国して仕事では弾いていた。しかし、それは「弾いていた」うちには入らない。
ブエノスアイレスへ来てからは最初の先生のレッスンやアベジャネーダのタンゴオーケストラでも弾いていたが、まだ音大時代や東京で仕事をしていた頃のようには、指も腕も動かなかった。
僕はレッスンの日まで猛練習をした。せっかくマエストロのレッスンを受けられるのに、こんな下手くそでは一回で追い返されてしまう。そんな不安を抱えたまま、僕はN子さんとマエストロの自宅を訪ねた。
閑静な住宅街にある一軒家だった。
初めてマエストロに会った時、不思議な気がした。長年憧れ続けてきた人が、今、僕の目の前に立っている。紅茶を淹れてくれている。
N子さんもタンゴ界の大物を前に、少し緊張しているようだった。
やがてレッスンが始まった。これで下手だったら追い返される。レッスンというより、オーディションを受けるような緊張感だった。
「何かクラシックを弾いてみなさい。」
僕はドキッとした。タンゴではなく、いきなりクラシックを要求された。
実は僕は音大時代、レッスンやオーケストラや室内楽をサボりにサボり、クラシックから逃げてきた人間だった。暗譜で弾ける曲もほとんどない。
やむを得ず、ヴァイオリニストなら誰もが暗譜で弾ける『タイスの瞑想曲』を恐る恐る弾き始めた。
まだ前半しか弾いていないのに、
「No!」
マエストロの声が飛んだ。何がいけなかったのか、僕には分からない。
ここから先は
¥ 500
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
