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楽しみ、喜び、苦しみは絶対的なものなのか

目の前で起こる出来事について、人間は様々な感情を想起させる。
ただ、同じ経験であれば、他の人であっても同じ感情を抱くのだろうか。

人は、喜怒哀楽を感じながら人生を全うしていく。
日々の出来事の中で、私たちは自然と「楽しい」「嬉しい」「苦しい」といった感情を抱く。

ただ、ふと立ち止まって考えることがある。
自分が感じる喜びは、誰にとっても喜びなのだろうか。
自分が感じる苦しみは、誰にとっても苦しみなのだろうか。

たとえば、筋トレをしている人を思い浮かべてみる。
トレーニングを通じて、達成感や満足感、ある種の喜びを感じている人は多い。
一方で、同じことを自分がやったとしたら、感じるのは苦しみだけかもしれない。

同じ行為、同じ刺激であるにもかかわらず、
ある人にとっては喜びで、別の人にとっては苦しみになる。

この事実だけでも、
喜びや苦しみが、その出来事自体に内在しているわけではない
ということが見えてくる。

感情は「出来事」ではなく「接続」から生まれる

こう考えてみると、
感情とは出来事そのものから直接生まれるものではないのではないか、
という問いに行きつく。

出来事そのものが感情を決めるのではなく、
その出来事が、

  • 自分の過去の経験

  • 積み重ねてきた知識

  • 無意識の価値観や物語

とどのように接続されるかによって、
喜びや苦しみという感情が想起される。

つまり、

出来事 → 感情
ではなく、

出来事 ×(経験・記憶・知識)→ 感情

という構造になっているのではないか。

感情は絶対的なものではなく、
あくまでその人の内側にある世界との「相対」の中で立ち上がる現象だと考えることができる。

喜びと苦しみは何のためにあるのか

さらに問いを深めると、
そもそも、このように感情が想起されること自体に、
どのような意味があるのだろうか、という疑問が湧いてくる。

仏教では、輪廻から逃れるためには「悟り」が必要だとされている。
その考えを踏まえると、
私たちが日々感じている感情そのものが、
「業」であり、「苦」の一部なのではないか、という見方もできる。

喜びの感情であっても、
その喜びに固執することで、

  • 失うことへの恐れ

  • もっと欲しいという渇望

  • 比較による欠乏感

を同時に背負うことになる。

そう考えると、
喜びと苦しみは対立するものではなく、
同じ構造の中にある表裏一体の現象
なのかもしれない。

問いという武器

仏教哲学を体系的に学んでいるわけではない。
それでも、ひとつ強く感じることがある。

お釈迦さまは、誰かに教えられて悟ったわけではなく、
自分自身ただひとりで、問い続けることで悟りの境地に辿り着いたと言われている。

もしそれが事実だとするなら、
自分にできない理由はない。

必要なのは、特別な才能や環境ではなく、
問い続けるという姿勢なのではないか。

問いは、答えを得るための道具である以前に、
感情と自分自身を同一化しすぎないための装置でもある。

「なぜ、今これは苦しいと感じているのか」
「この感情は、どの経験と接続して生まれているのか」

そう問いを立てた瞬間、
感情は「私そのもの」から
「私の中で起きている現象」へと姿を変える。

そのわずかな距離こそが、
苦から自由になるための第一歩なのかもしれない。

たったひとつ、
問いという武器さえあれば。

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