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気楽な雑談を楽しめる人間になりたかった


気楽なコミュニケーションを楽しめる人間になりたかった。

会話そのものに特別な意味はなく、その時間を漠然と楽しめる人間。

誰それさんがどうなったとか。

最近こんなことがあったとか。

そんな他愛もない話をしながら笑っている人たちを見ると、少し羨ましくなる。

自分もああいう人間になれたらよかったのかもしれないと思うことがある。

しかし、自分はどうもそういう人間ではない。

会話を聞けば、その情報が何を意味しているのかを考える。

なぜそうなったのか。

本質は何なのか。

その現象の裏にはどんな構造があるのか。

気づけばそんなことばかり考えている。

情報は雑談として処理されず、知識や示唆の材料として処理される。

だから会話を楽しむというより、会話を分析してしまう。

それは昔から多少あったのかもしれないが、最近はさらに強くなっている気がする。

哲学的な問いを考えること。

物事の本質を探ること。

人の認知や価値観を観察すること。

そういうことに時間を使うようになってから、その傾向は加速しているように感じる。

ぼんやり過ごす時間が苦手である。

何も考えない時間がもったいなく感じる。

何かを学びたい。

何かを理解したい。

何かを整理したい。

そんな感覚が常に頭のどこかにある。

自分で自分のことを、マグロみたいな人間だと思うことがある。

泳ぐのをやめると死んでしまう。

常にどこかへ向かって動いていないと落ち着かない。

生き急いでいるのかもしれない。

ただ、それを後悔しているわけではない。

それが自分だからである。

個性があってこその多様性だと思っている。

世の中にはいろんな人がいる。

そして、どんな人にも居場所がある。

だから自分がこのような人間であること自体を否定したいわけではない。

むしろ、問い続けることによって見える景色もある。

本質を考えるからこそ見えるものもある。

その価値は十分理解している。

ただ、それでも思う。

雑談を楽しめる人たちを羨ましいと。

なぜ羨ましいのだろう。

最近考えていて気づいたことがある。

もしかすると私は雑談が羨ましいのではない。

「何の意味も求めずに時間を過ごせる能力」

が羨ましいのではないか。

多くの雑談には結論がない。

学びもない。

生産性もない。

しかし、人はそこに価値を感じている。

なぜか。

それは情報交換をしているのではなく、関係性を確認しているからなのかもしれない。

今日は暑いね。

最近どう?

そんな何気ない会話の中に、

私はあなたに関心があります。

私はあなたを仲間だと思っています。

そんなメッセージが含まれている。

だから雑談を楽しめる人たちは、話の内容ではなく、人とのつながりそのものを楽しんでいるのかもしれない。

一方で自分は違う。

誰かが「最近仕事が忙しくて」と言えば、

忙しいとは何だろう。

その人は何を負荷と感じているのだろう。

そんなことを考え始めてしまう。

雑談の入口から哲学対話を始めてしまう。

だから疲れる。

相手も疲れる。

自分も疲れる。

そして雑談が苦手だと思う。

しかし、それもまた自分なのだろう。

問いを立てること。

構造を見ようとすること。

意味を探そうとすること。

それは自分が長い時間をかけて育ててきた思考回路である。

筋トレと同じだ。

鍛えた筋肉は発達する。

その代わり、使わない筋肉は弱くなる。

問いを鍛え続けた結果、雑談を楽しむ筋肉は少し衰えたのかもしれない。

だから最近の自分は、人そのものよりも、人の背後にある認知や構造に興味を持つようになった。

個人ではなく原理。

現象ではなく本質。

そういう方向へ関心が移動している。

それは良いことなのか悪いことなのか。

正直わからない。

ただ一つ言えるのは、自分はこの生き方をそこまで嫌っていないということだ。

雑談を楽しめる人を羨ましいと思う。

でも、その人になりたいわけではない。

本当にそうなりたかったなら、きっと今頃別の方向へ進んでいただろう。

問い続ける自分。

意味を探し続ける自分。

本質を追いかけ続ける自分。

そんな人間を、自分自身は案外気に入っている。

だからこれは後悔ではない。

ただ、

「あの世界線も少し見てみたかったな」

という静かな憧れなのだと思う。

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ゆいえん|フォロバ100 ありがとうございます。 励みになります。 毎日投稿に挑戦中💪