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常に“逃げる判断”をしてしまう人はどのような価値観での判断なのか?― 挑戦を避ける思考の内側への問い



この問いは、他者を断じるためのものではない。
「なぜこの世界に来ないのか」という違和感を、
こちら側の正しさを押し付けるのではなく、
相手の思考構造を理解したいという、きわめて素朴な問い。

自分は挑戦側の世界を知っている。
だからこそ、挑戦の先にあるもの――
能力の引き上げ、未知を手探りする感覚、リスク管理能力の獲得、
ゴールに到達したときの充実感、
そして失敗すらも経験として統合されていく感覚――
それらが「人生を厚くする」ことを知っている。

それでも、常に逃げる方向に判断を切る人がいる。
なぜなのか。


■ 仮説①:失敗そのものではなく「意味づけ」が怖い

多くの場合、恐れているのは失敗そのものではない。
失敗に付与される「意味」だ。

・評価が下がるのではないか
・無能だと思われるのではないか
・これまで築いてきた自己像が壊れるのではないか

挑戦とは、結果以上に「自分が何者か」を晒す行為でもある。
そのリスクを引き受ける覚悟が、まだ整っていない可能性がある。


■ 仮説②:プレッシャー耐性ではなく「自己責任耐性」の問題

挑戦の世界では、言い訳が効かなくなる。
逃げ道がなくなる。

逃げの判断を重ねる人は、
「プレッシャーが嫌」なのではなく、
「自分で引き受ける感覚」が重いのかもしれない。

誰かの指示、環境、制度のせいにできる場所は、
心理的にはとても安全だ。


■ 仮説③:挑戦のリターンを“実感として”知らない

挑戦の価値は、説明しても伝わりにくい。
これはもう、体験の問題だ。

・失敗が致命傷にならないこと
・失敗が次の判断精度を上げること
・能力は実践の中でしか引き上がらないこと

これらは、頭ではなく身体で知るものだ。
未体験の人にとっては、未知は常に過大評価される。


■ 仮説④:「人生を充実させる」という問い自体が起動していない

仕事かプライベートか、という問いなのか、

私が感じている充実感は、公と私を分離せず、
どちらも人生の一部として楽しむという感覚だ。

しかし、
・仕事は苦役
・人生は仕事の外にある
という前提で生きている人にとって、
挑戦は「割に合わない消耗」に見える。

これは滅私奉公とは真逆の話なのだが、
前提が違うと、言葉は誤解されやすい。


■ 全逃げ選択への違和感の正体

「時には逃げていい」
これは誰もが納得する。

それでも「全逃げ」に違和感を覚えるのは、
そこに“生き方としての閉塞”を感じ取っているからだと思う。

挑戦とは、
成功するためだけの行為ではない。
人生を立体化させる行為だ。


■ 「公私一如」とは何かを問う延長線にでてきた問い

この問い自体が、
「わからないものを、わからないまま排除しない」
という挑戦だ。

相手を変えるための問いではなく、
世界を広げるための問い。

「公私一如」とは何かを問う延長線の話。

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