【芸術論】「考察」を拒絶するシュルレアリスム?
2025年1月16日、「カルト映画の帝王」などとも称される映画監督、デイヴィッド・リンチが逝去。
雑誌『ユリイカ』(青土社)の2025年4月号は、リンチ特集だった。
そこでは、何人かの執筆者が、「考察」の時代におけるリンチ映画の異質性、ということを論じていた。
次々と新しい「謎」を提示して観客をのめり込ませるリンチの作風は、一見、ファンが「考察」を楽しむ昨今の文化と親和的である。しかし、リンチ作品には、どうしても理路整然と説明することができない部分が常に含まれていた。すべてを理路整然と「考察」できるエンターテインメント作品が好まれる近年、リンチ的な表現が受け入れられる余地は縮小しているのではないか。――何人かの論客の意見を要約すれば、こうなるだろう。
当然、論者たちにとって、完全に「考察」しつくすことのできない作品が受け入れられることは、好ましいことである。「考察」できない作品が受け入れられる余地をできるだけ守り、できれば広げていくべきだ――と、はっきりと書かないまでも、論者たちはそう感じているらしい。
「文化」や「芸術」と触れ合うためには、はじめからすべてを「考察」するつもりで作品に向かうのではなく、分からないものを分からないままにしておく心の余裕を持つべきだ。「分からない」作品が受け入れられる余地を守ることこそ、普通の価値観とは必ずしも相容れない、独創的な「文化」や「芸術」を育むために大切なことである――というわけである。
一見、反論の余地のない正論である。
しかし、ここではあえて、この正論に異を唱えてみよう。
「考察できる」作品への需要が、即座にそうした作品の供給を呼び起こすのと同様、現在の社会では、「考察できない」作品への需要もまた、即座に、考察できないこと自体を売りにしたコンテンツの供給を呼び起こす。実際、別の論者は、リンチ的な美学が、「リミナル・スペース」とか「ドリームコア」とかのネットミームに受け継がれていることを指摘している(まあ、個別の例を並べることにはそれほど意味はないだろうが)。「考察できる」コンテンツが好まれる、という近年の現象は、さしあたり、「意味」と「パフォーマンス」がどこまでも追求される現代社会を象徴しているだろうが、このような社会では、「考察できない」コンテンツをいくら守ったところで、「これは考察できない作品である」という意味があらかじめ用意されたコンテンツを、パフォーマンス良く消費できるようにすることにしかつながらない。コンテンツの内容を「考察できない」ものに変えれば「意味」や「パフォーマンス」に抵抗することとなり、ひいては、「意味」や「パフォーマンス」の追求から外れたところでしか成立し得ない、「文化」や「芸術」というものを守ることとなる――と、そんな三段論法は、現代社会では成り立たないのである。
無論、「新しい表現」を通じて社会を変える、という「芸術」に期待される機能がとっくに失効していることくらい、マルセル・デュシャンのレディ・メイド以来と言うべきか、それとももう少し後の別の時点からだろうか、ともかくも、とっくに誰もが知っているはずのことであり、今更ことごとしく言うまでもないはずのことである。「意義ある芸術表現」というフィクションは、ことあるごとに回帰し、「芸術」の機能不全を隠蔽する。
さて、リンチ作品を通じて何人かの執筆者が論じていたのは、さしあたり、冷戦体制とグローバル資本主義、それぞれの時代における芸術鑑賞のあり方の差異である、と言えるだろう。単純に年表的事実だけ見ても、1977年の『イレイザーヘッド』以来カルト映画監督として知られていたリンチが、テレビドラマ『ツイン・ピークス』の爆発的ヒットで大衆的な知名度を得たのは1990年だ。『ツイン・ピークス』という、「考察」、あるいは「謎解き」の快感に満ちたドラマのヒットの背景に、冷戦構造が崩壊し、グローバリズムの時代へと突入しつつあった情勢を見て取ることはたやすい。
グローバリズムの時代における、「謎解き」という営みへの需要の高まり――それはすなわち、「世界がこのような状況にあるのは、誰かの主体的な行動の結果である」という世界観への需要に他ならない。
これは、陰謀論についても言えることだろう。単純にソ連を「悪」と名指ししていれば良かった時代が終わり、世界情勢が複雑化するにつれ、物事の因果関係を明快化してくれる物語が需要を増し、そして、同時に、自分の主体的意志で、物事の因果関係を「解き明かす」体験をさせてくれるコンテンツが需要を増す。「謎解き」は、目の前にある、複雑に謎めいた現状をデザインした「主体」のありかを解き明かすと同時に、謎を解く自分自身を、社会に対して何かを働きかけることのできる、一つの「主体」として再確認させてくれる営みだ。テレビドラマを「謎解き」することは単なる娯楽だが、陰謀論にのめり込み、陰謀を企てる「主体」を探り当てることは、少なくとも当人にとっては、現実社会に参画する一つの手段であり得る。
いずれにせよ、資本主義社会を生きる消費者にとってリアリティがあるのは、「商品の提供者には、その商品を提供する目的があるはずだ」という感覚だろう。すなわち、あらゆる商品には「正しい」使い方があり、あらゆる広告には明確な意図があり、あらゆる芸術作品には「正しい」読み解き方があるはずだ、という感覚である。正しく「謎解き」することで卓越した知性を発揮する観客――作品のすべてを支配する創作者――あるいは、世界をこのようなあり方へと設計する陰謀の「主体」。これらは、何者も世界を変革する力を持ち得ない社会で、なおも、何らかの「変革主体」が可能であるかのような幻想を人々に与える、ジャンクでフィクショナルな「主体」に他ならない。
そして、ここに見出すことができるのは、ある意味、「共産主義の亡霊」でもあるだろう。かつて可能だった変革主体とは、要するにボルシェヴィキのことであり、レーニンとスターリンのことだからである。
「アメリカ的狂気」を描いた映画作家デイヴィッド・リンチの作品の向こう側に、ボルシェヴィキを幻視するというのは、一見、不思議な組み合わせのようでもある。しかし、リンチとレーニンの間に「シュルレアリスム」という媒介を挟めば、道筋は見やすくなるだろう。アンドレ・ブルトンが1920年代にパリで創始した(単なる「表現」ではなく)「運動」としてのシュルレアリスムは、ソ連を支持し、トロツキズムに並走した。「自由な芸術表現」が政治イデオロギーに随伴することは今日では嫌われることかもしれないが、芸術的イデオロギーが世界のトータルな変革を志向する以上、前衛芸術家が「政治」との関係性を自覚することは避けて通れない。当時、ボルシェヴィキによるマルクス主義革命が資本主義社会をトータルに変革しうると信じられた以上、シュルレアリスムがそれと共闘することは自然だった。
だが、革命、それも鉄の規律を要請するボルシェヴィキ的な革命にとって、「芸術」はどのような意味を持ちうるだろう。自由な芸術表現などというものは、プロレタリア革命にとって無益どころか、有害極まるブルジョア的観念ではないだろうか。芸術的前衛の(ブルジョア的)自由を、政治的前衛――人格的には「指導者」――の主体性に対してどのように関係付けるのか。これこそ、当時、革命的であろうとするあらゆる芸術家を悩ませた難問だ。
説得力のある解答は、2つあった。
1つは、あらゆる芸術家は党の方針に従い、プロレタリアに対して教育的な作品のみを創造していくべきという立場。スターリンによって採択された、社会主義リアリズムである。
もう1つは、理想的な「プロレタリア芸術」なるものを足早に規定するのは無意味なので、芸術家は各自、ブルジョア的自由を行使しておのれの信ずる芸術を追求していけばよい、というトロツキーの立場。当然、シュルレアリスムはこちらの「理解ある」立場を支持する。
今日の目からしても、一見、説得力があるのはトロツキーの方だろう。職業革命家とは思えないほど鋭いロシア・アヴァンギャルド論を展開したトロツキーにとっても、また、チューリッヒでダダイストと交友したと言われるレーニンにとっても、前衛芸術家の自由な活動は、少なくとも理論上、プロレタリア革命と共闘しうるものだった。だが、スターリンの革命戦略には、そのようなブルジョア的・ボヘミアン的自由を許容する余地はあり得ない。
端的に言えば、とてつもなく息苦しく、どうしようもなくセンスが悪いのがスターリン芸術である。
だが、重要なのは、そのようなスターリン芸術の圧倒的なマイナス面こそ、おそらく、強烈な異質性によって、当時、芸術家たちを社会主義リアリズムへと惹きつけた当のものだということだろう。ルイ・アラゴンやポール・エリュアールなど、シュルレアリスム運動で鋭いセンスを発揮していたはずの芸術家が、あっさりスターリンの軍門にくだり、センスのかけらもない(?)愚劣な作品を創造するようになった例は多い。センスの良さを競い合うブルジョア的な芸術表現にとどまる限り、どれほど口先で革命を叫んだところで、結局、「新商品」の発売によって消費意欲を掻き立てる資本主義的な市場との共犯関係を抜け出ることができないのだとすれば、スターリニズムの俗悪さを受け入れることこそ、芸術家が自らを「革命」と結びつける証であるかのように信じられたのではないか。
あくまで俗悪さを拒むブルトンは、トロツキーとつながることで「革命」との結びつきを確保しようとする。しかし、あらゆる芸術表現に「理解ある」態度を示すトロツキズムにおいては、芸術表現が「前衛的」に見えるという理由だけでは、それが政治的にも前衛的であることにはならない。「表現」が「表現」であることによって力を持つことがあり得ない、資本主義社会における芸術の限界――シュルレアリスムが克服しようとしながらも克服できなかった限界を、社会主義リアリズムは、ある意味、その「表現」の俗悪さを通じて克服してみせたとすら言える。
とはいえ、スターリン的な社会主義リアリズムとトロツキー的なシュルレアリスムとを対比することには意味がないとも言える。クロンシュタット蜂起やマフノ蜂起の際、トロツキーが極めて「スターリン的」なやり方でアナキストを圧殺したことはよく知られているが、所詮、レーニンにとってもトロツキーにとっても、「表現の自由」なるものは、ボルシェヴィキの独裁を妨げない範囲で許容しうるものでしかなかったし、芸術表現は、史的唯物論という絶対的な「真理」に照らして肯定性を判別されるものでしかなかった。これは、当然といえば当然のことである。何が「真理」にそぐう表現なのか、判断する権限を党派として独占したまま、表向き、自由で寛容な態度を示すトロツキズムは、あからさまに暴力的なスターリンよりも遥かに隠微な権力によって芸術家たちを管理し、党派へと隷属させる。「堕落した労働者国家」の無条件擁護を掲げソ連の防衛を主張するトロツキズムは、大局的に見れば、スターリニズムの下請け運動に他ならないだろう。
そのようなトロツキズムに受け入れられるシュルレアリスムは、大局的には、党=スターリンへと隷属する運動に他ならなかった。この観点からすれば、シュルレアリスムと社会主義リアリズムとを弁別することに意味はない。社会主義リアリズムとアヴァンギャルド芸術の連続性を指摘するボリス・グロイスは、社会主義リアリズムを「党派的シュルレアリスム」と呼んでいるが、これを逆転させれば、シュルレアリスムは「個人的社会主義リアリズム」だったと言えるだろうか。とはいえ、革命的であるためには、明示的にであれ構造的にであれソ連との結びつきを持たなければならなかった時代にあって、シュルレアリスムがスターリニズムと通底したことは、当然、単純に断罪すれば済むことでもないだろう(あくまで反ソ連を貫こうとすれば、残る選択肢は、アナキズムでないとすれば、ファシズムだっただろう。シュルレアリスムの近辺では、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルとジョルジュ・バタイユがそのことを知っていたはずだ。言うまでもなく、ファシズムもまた、単純に断罪すれば済む現象ではない)。
メキシコでディエゴ・リヴェラの手引でトロツキーと面会したブルトンは、階級のない社会が実現された暁には、経済以外の原因による血なまぐさい闘争が勃発することとなるだろう、とリヴェラとともに主張し、トロツキーを憤然とさせたという。この会見では、トロツキーの方がブルトンよりも遥かに「シュルレアリスト的」でユートピア主義的な意見を述べ、ブルトンを困惑させたことが知られているが、あらゆる「社会問題」が革命によって解決しうると強弁しなければならない共産主義革命家として、これは当然といえば当然の態度である。
ブルトンとトロツキーは決裂することなく共闘を続けるが、会見での小さな対立は、本質主義と社会構築主義の対立を示していると言えないこともない。人間は社会的諸関係の総体であり、社会的関係を良い方向に変革すれば人間の抱えるあらゆる問題は解決しうる――という社会構築主義的な革命観に対して、本質主義は、そのような「関係」に還元することのできない「本質」がありうることを主張する。単純化して言い換えれば、本質主義は、革命を成功させたところで解決しない問題は必ず残されるのだ、という不都合な事実を暴露する。この立場は、社会構築主義的な革命が必然的に取りこぼす問題を解決するために、更にラディカルな革命を訴える場合もあるが、あらゆる革命に対する絶望ゆえに、最も強固な反革命を蔓延させる場合もあるだろう。
ブルトンのような芸術家にとっては、プチ・ブルジョア的な現実そのものが、「関係」へと還元不可能な、共産主義革命によって解消させることのできない「本質」であっただろう。芸術家の自律性、つまりブルジョア的自由をいかに守るか――この問題に悪戦苦闘しながら「革命」との結びつきを模索し続けた軌跡こそ、シュルレアリスム運動の歴史である。シュルレアリスムになにがしかの「革命性」があり得たとすれば、それは要するに、ブルトンとトロツキーの交流のような個別的エピソードへと還元すべきものであり、そこには、そのような個人的交流が組織全体に影響を与えうる、ブルトンを中心とした集権的な運動形態が伴わなければならなかった。今日、シュルレアリスムを読み解く上で注視すべきなのは、運動が生み出した魅力的な作品の数々である以上に、何よりもまず、反革命と隣合わせの芸術運動がボルシェヴィキ的革命に接近することのできた条件であり、運動体の構造であるだろう。
ブルジョア的「表現の自由」を容認するトロツキズムという「器」(通底器?)に投げ込まれることによって、あらゆる芸術は、いわば、潜在的な社会主義リアリズムと化す。それは、あらゆる芸術表現を党=指導者の絶対的意志の実現とみなしうるということでもある。だが、さしあたり、シュルレアリスムという運動が革命的であることを保証するのは、トロツキーとの明示的なつながりだ。トロツキーとの明示的なつながりを喪失したシュルレアリスムは、党=指導者に変わって、資本主義的「市場」の絶対的意志を実現していくこととなる。
とはいえ、これは、特に1956年のスターリン批判以後、遅かれ早かれ、あらゆる前衛芸術がたどることとなる道筋でもあった。シュルレアリスム運動において、共産主義運動とのつながりは、いわば、ブルジョア的自由を享受しながらなおも「革命的」であり続けるためのアリバイ作りだった。だが、ソ連とのつながりがそのようなアリバイとして機能しなくなった時、あとに残るものは、市場での芸術表現の卓越性、芸術家としてのセンスの良さ、ボヘミアン的な自由な生き様、などなどでしかないだろう。ソ連の崩壊――すなわち共産主義/ボルシェヴィスムに対する資本主義の勝利は、「革命」が決定的にリアリティを喪失し、ボヘミアン的な生き様が決定的に「革命」から切り離される契機でもあった。
ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズ、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートらの議論を踏まえて整理すれば、1968年革命から冷戦体制の崩壊を経て対テロ戦争への突入に至るグローバル資本主義の歴史は、リベラリズム的な規律/訓練型社会が縮減され、新自由主義的な監視/管理型社会が全面化していく過程である(1990年代という時期については、前者から後者への「過渡期」らしさを感じさせる出来事が、時代の特徴として懐古されることが多い。デイヴィッド・リンチ作品の大衆化という出来事も、その一例だ)。
学校(自治会)や会社・工場(労働組合)、軍隊や刑務所などでの団体生活を通じて規律を体に叩き込み、責任ある市民としての主体形成を促すのが規律/訓練型社会だが、これに対して、ITを駆使して個々人をバラバラのままで管理する監視/管理型社会では、個々人は、市民としての主体形成を求められることなく、ただ、動物的な快・不快原則に則って動くよう誘導され、そのことで、資本主義はどこまでも潤滑に稼働していくようになる。
一つ、小さい例を挙げれば、ネット動画をいつまでもダラダラと観続けてしまう、というのは典型的な監視/管理型社会の現実と言えるだろう。動画サイトは、ユーザーを少しでも長く滞在させるため、ビッグデータに基づいて、ユーザーが次に観たいと思うであろう動画を、延々、的確におすすめしていくようデザインされている。ユーザーは、まるで自分の意志でサイトを利用しているような錯覚のもと、延々、広告を閲覧するよう誘導され、知らず知らず、自分の趣味嗜好や思想信条、生活サイクル、認知機能、視線の動き、使用機器、現在位置、交友関係、そして社会にとっての「有害度」(犯罪的な傾向)などなど、あらゆる個人情報をIT企業を通じて収集・分析されることとなる。こうした情報は、さらなる消費活動への際限ない誘導、そして、治安を脅かす分子への監視・摘発に利用される。その結果、多様な意見に触れて思想を深める契機や、芸術と触れ合うための心の余裕、冷静な議論の場、などなどは社会全体からとことん失われていく。新自由主義社会における至上の価値は「パフォーマンスの良さ」であり、かつて芸術、宗教、そして政治が担っていた機能は、パフォーマンス良くコンテンツを消費することによって全て代替されていくこととなる。
だが、ここで注意すべきなのは、こうした現実が、ある意味、かつて前衛芸術運動が目指したものの実現に他ならないということだろう(ここでは詳述しないが、別の言い方をすれば「1968年革命の勝利」である)。かつて芸術家は、ボヘミアン的に生きることで「市民」としての規律/訓練を拒絶し、規律/訓練型権力に対抗的な表現を次々と打ち出すことで、自らを「前衛」的に見せようとした。そのような芸術的前衛であればこそ、資本主義社会をトータルに変革しようとする必然性があると信じられたのだ。芸術的前衛であればこそ政治的前衛とつながりうる、という信憑性は、ブルトンがあくまでこだわったものでもあるが、それは要するに、ブルジョア的自由こそがブルジョア・イデオロギーの目的意識的な超克を可能にする、ということだ。しかし、ブルジョア社会の内部にいること自体を「外部」とのつながりの根拠とし、市場が要請する以上のスピードで「新しさ」を創出し、その先に「革命」を呼び寄せる――と、そんな戦略が、「新しさ」を際限なく市場に飲み込んでいく資本主義のスピードの前で、常に敗北してきたことは言うまでもない。規律/訓練型社会を拒絶する芸術家たちの身振りは、新自由主義的な監視/管理型社会の全面化に、明らかに親和的だった。
かつて芸術表現の「新しさ」が観客に与えたインパクトは、現在では、つぎつぎ表示されるおすすめ動画の心地よい刺激によって代替されており、ユーザーは、動物的な快感に身を任せることによって、自分自身が、市民的な規律から解放された、ボヘミアン的消費者と化す。現代社会では、いわば、誰もが「芸術家」であることを強制されている。
だが、芸術の遍在は、芸術の消滅でもあるだろう。
動画サイトの例に即して言えば、そこで閲覧される「芸術」のジャンルは「映画」や「メディア・アート」や「音楽」となるだろうが、今日、圧倒的多数の「芸術」作品は、スマートフォンやタブレット端末を通じて、パフォーマンス良くコンテンツを消費させるよう設計されたプラットフォームの中でユーザーに消費されているだろう。そこでは、「芸術」を標榜するコンテンツが「芸術」であるという理由で特権的な力を持つことはないし、ユーザーがいちいち高いリテラシーを持って「芸術」作品と向かい合うこともない。「芸術」が力を持つことがあるとすれば、それは、ジャンクな消費財であるがゆえの力でしかないだろうが、当然それは、「芸術」をことさら標榜しないコンテンツであっても同じことである。「芸術」と「非芸術」は、右から左に消費されていくジャンクなコンテンツとして、完全にフラット化されているわけだ。
逆に言えば、かつて、規律/訓練型権力に対抗する「前衛」的な芸術作品は、それ自体が、そのような作品をどのような態度で鑑賞するべきなのか、「市民」たちを規律/訓練するための役割を担っていたということだ。監視/管理型社会とは、「前衛」がそのように市民社会へと包摂されることがなくなった社会だとも言える。誰もわざわざ難解なアート作品を美術館で観ようとせず、難解な文学作品を大学図書館で読もうとしない社会、というわけである。だが、こうした現状を嘆く立場は、往々にして、「前衛」が再び市民社会に包摂されるようになることを望む立場へと転じていく。言うまでもなく、市民社会に包摂され無害化されることが、前衛芸術にとって最悪の「敗北」であるにもかかわらず、だ。
再び、「考察」についての問題に立ち返ろう。「考察」できるコンテンツばかりが求められる風潮は、すでに述べたとおり、あらゆることにパフォーマンスの良さが求められる風潮、つまり新自由主義的価値観の全面化を象徴している。
こうした風潮に対して、「考察できない部分がある」という理由でデイヴィッド・リンチの映画のような「芸術作品」を懐古的に評価することは、何を意味しているだろう。誰もが「芸術家」であることを強制される社会――言い換えれば、誰も自らの意思では「芸術家」になることができない社会で、懐古される「芸術」とは何のことなのか。
――それは、端的に言えば、規律/訓練型社会で形成された「芸術家」の主体性のことだろう。
かつて、芸術家は、規律/訓練型社会から逸脱することで「前衛」的であろうとした。だが、社会からそのように逸脱することを決断するためには、あらかじめ、自らが、規律/訓練型社会の中で「決断する主体」として形成されていなければならなかった。そもそも主体的な自己がない者には、自己否定することもできない、というわけである。あるいは、もともとは行儀の良い人間がやるからこそ「わざと行儀悪くする」ことに意味が生まれるのであって、はじめから行儀の悪い人間には、「わざと行儀悪くする」ことなどできない――という言い方もできるだろうか。
かつて、「前衛」的な芸術表現は、規律/訓練型権力に対抗することで、いわば、積極的に社会に「行儀の悪さ」を呼び込もうとするものだった。そのような振る舞いが、結果的には、先述のとおり、市民社会へと包摂されていくものだったとしても、である。そして、人々が「市民」としてではなく「動物」のようにバラバラに監視/管理される社会とは、いわば、「行儀の悪さ」が全面化した社会ということでもある。ある意味ではそれは、前衛芸術家たちが意図したことの実現に他ならない。
にもかかわらず、かつての前衛芸術が、全面的に「行儀が悪い」今日の社会とは相容れない部分ゆえに評価されることがあるとすれば、そこで評価されているのは、実質的には、芸術家の、規律/訓練型権力によって形成された「行儀の良い」主体性であるだろう。つまり、そこには、「あえて行儀悪くする」と言う時の「あえて」へのノスタルジーがある。しかし、今一度繰り返せば、そのように称揚される「主体」とは、ソ連崩壊後、何者も「変革主体」であることができなくなったグローバル資本主義の時代において、不断に要求されるジャンクでフィクショナルな「主体」に他ならない。
そのような状況下でも変革が志されなければならないのだとすれば、あえて、ジャンクなフィクションであることを自覚した上で、そのような「主体」を引き受けることも一つの方法ではあるだろう。しかし、その自覚を欠いたまま、「行儀の良さ」そして「パフォーマンスの悪さ」を通じて幻視される「主体」をナイーヴに再建しようとすることは、場合によっては、最悪の反動、最悪のシニシズムに陥ることであるだろう。それは、反体制活動を懐古することで、その活動と相補的だった強固な体制の方を再建しようとすることに等しい。――その是非を別としても、そんなことは不可能だ。
「革命なんか起こそうとしたせいで現在のこういう社会が出来上がってしまったのだから、これからは、革命なんか起こそうとせず、地道に市民社会を防衛していこう。それこそ、これからのアヴァンギャルドの正しいあり方だ」。――現代社会のリベラルかつシニカルな精神を代弁すれば、こんなところだろうか。
グローバル資本主義は、ローカルな規律/訓練型社会を解体しながら内部に取り込んでいくプロセスだ。リベラルな(ローカルな)市民社会の防衛は、新自由主義に対する抵抗になりえないどころか、むしろ、監視/管理型社会の全面化に加担することに他ならないだろう。文化や芸術を守るためにネット上で「考察できない」コンテンツを増やしたところで、そうしたコンテンツをパフォーマンス良く消費できるようにすることにしかならない――と、このことは象徴的である。文化や芸術を守ろうとすることこそが、旧来の意味での「文化」や「芸術」を解体するのである。それは、例えば、「アートは難しくなんかないですよ」という誘い文句で媚を売って、観客の快・不快原則に訴えかけ、美術館へと人を呼び込もうとする営業活動が、旧来の美術鑑賞のあり方を解体していくことと相即的だろう。
市民社会へと取り込まれ、無害化されることで生きながらえてきた旧来の芸術。そして、いかなる意味でもジャンクな消費財として以上の価値を持ち得ないくせに、なおも、「芸術」固有の価値を発揮しうるかのように錯覚される、今日の芸術。――その双方を拒絶しうる立場が求められている。
