【雑記】ヤン・イェリネク来日公演/ASUNAのパフォーマンス・アート 2025年7月3日

 2025年7月3日――
 マイクロハウスのパイオニアにしてドイツ電子音楽界の巨匠、ヤン・イェリネクの来日公演を観に行った。
 会場は、石川県金沢市、金沢21世紀美術館地下のシアター21。
 共演は、ドローン・ミュージック奏者/サウンド・アーティストのASUNA(Asuna Arashi)。幕間のDJは角田進。
 開場は18時半、開演は19時10分だった。

 18時半、21世紀美術館に到着。地下へ降りると、シアター21の入口前にはすでに長い列ができていた。
 金沢のような田舎町のどこに、こんなにたくさんの前衛音楽愛好家がいたのだろう。などと考えながら私も列に並んでいると、スタッフが、「当日券をお求めの方は、ご予約の方の受付が済んでからご入場ください!」と大声を張り上げた。
 私は予約をしていない。列を離脱し、待合のソファに腰掛け、ぼんやりと列を眺めながら、待った。
 「あ、来たんですね!」
 「さっき、○○とも会いましたよ」
 「知り合い、全員来てますね!」
 ――目の前で他人たちが親しげなやり取りを交わしているのを聞きながら、私は、ソファに座って、予約者全員の受付が終わるのを待った。私以外、全員知り合いなのだろうか。周りには、私以外にも当日券購入者が何人か座っている。客は、次から次にやってきては、列に並んでいく。私達は待ち、待ち、待ち、そして……
 30分が経った。
 ようやく予約者の受付が終わり、私達が会場に入ると、すでに、150席ほどの観客席はほとんど埋まっていた。私はどうにか、最後列の隅の方の席を確保。まあ、立ち見で、体を揺らしながらイェリネクのミニマル・ミュージックに没入するのも悪くなかったかもしれないな……などと考えていると、開場から開演までの間、DJを行っていたらしい角田進が退場――前座のASUNAのパフォーマンスが始まった。

 登場するや、ステージ上のテーブルに置かれた機材を少しいじり、少しだけ音やノイズを出すASUNA。チューニングなのか?
 会場は、しんと静まり返っている。
 ASUNAはそれから、テーブルの前、150センチほどの高さで設置された、地面と水平、横向きの棒へと近づく。棒からは、地面に向かってまっすぐ、何本もの粘着テープが垂れ下がっている。それらの真下には、鉄琴やシンバルが。
 手に持った紙袋から何かを出し、口に運ぶASUNA。ピーナッツだ。ASUNAは、ピーナッツを粘着テープに貼り付けていく。淡々と、延々と。
 会場は、相変わらずしんと静まり返っている。
 時折、ピーナッツが粘着テープから落下する。当然、真下にある楽器にぶつかり、音が出る――かと思いきや、楽器から少しそれ、床にぶつかる小さな音を響かせるだけだったりする。会場は静まり返っている。静寂の中、楽器の位置を調整するASUNA。チューニングなのか? こういう作業は、開演時間までに済ませておいてもよかったのではないかな……? などと思いそうになるこの工程だけを、ASUNAは延々、パフォーマンスし続けた。そして……
 10分が経った。
 立ち見じゃなくて良かった――と、私は思った。
 これは、座っていないとかなりきつそうだ。いや、座っていても、きつい。
 10分ほどのパフォーマンスを経て、ようやく、「粘着テープからピーナッツが落ちることで、予測できないタイミングで鉄琴が音を奏でる」状態が完成。その後ASUNAは、ドラムを振動させてノイズを出したり、おもちゃの楽器(?)で持続音を奏でたりと、まあ、一般的な実験音楽のライヴらしい演奏を行った。暗くなった会場で、発光する楽器(なのか? 遠くて全く見えなかった)をテーブルから床に一気に落とし、フィニッシュ――静寂。

 このパフォーマンスを一つのキーワードで特徴づけるなら、「手際の悪さ」ということになるだろう。
 と言っても、当人のやろうとしていることに技術が伴っていない、ということではない。「手際の良さ」が求められるはずのライヴ・パフォーマンスの空間に、ASUNA自身が、積極的に、ライヴ・パフォーマンスの「外」の世界を呼び込もうとしているということだ。「外」の世界は、さしあたり、日常生活を営む身体に染み付いた動作の癖や、鉄琴に当たらず床に落ちてしまうピーナッツなどを通じて表現されている。
 機材をチューニングする時には、まるで生活空間で何かに引っかかった時のように「おっと」などと声を出してしまう身体性。あらかじめセッティングしておけば軌道から外れることもなさそうなのに、なぜか楽器にぶつからないピーナッツ。「手際の悪さ」を印象づける、こうした出来事の延長上で、ASUNAはドラムにピーナッツをぶちまけ、それをスプーンで食べ、ドラムを振動させ、ノイズを奏でる。日常生活で起こる、ちょっとした「うまくいかないこと」――つまりノイズが、ライヴ空間で、文字通り、音としてのノイズに変貌する。そして、ラストでは、「手際の悪さ」の極限で癇癪を起こすかのように、機材を床にぶちまけるASUNA――さながら、日常空間における「癇癪」の、ライヴ空間への侵入だ。
 ここには、アート作品に「日常」を取り入れようとすることへの強迫観念があるのではないか――と、そんな観点から、ASUNAのパフォーマンスを批判することは可能だろう。
 アート作品が働きかけるべき、作品の「外」の世界は、ここでは、もっぱら「日常世界」としてイメージされている。「日常」に働きかけるアート――それは、日常生活にとっての異物としてのアートということではなく、「日常」に組み込まれた、生活に役立つ道具としてのアート、ということである。さしあたり、仕事終わりに鑑賞して心を豊かにするためのアート・パフォーマンス、というようなことだろう。ASUNAは、「日常」を思わせるイメージ(例えば「食事」)を作品に取り込むことで、作品が理想的なアート、つまり「日常の一部としてのアート」として機能していることを、パラノイアックに再確認しようとしているのではないか。
 それは、「アートには社会的な意味があるのだ」と思い込もうとする時、アーティストが陥りがちな方法論に他ならない。アートの「社会的な意義」というものを、「市民が日常的にアートに触れて心を豊かにする」というような形でしかイメージできない、アートというもの全体の貧困の現れとも言えるだろう。
 まあ、こういうライヴを美術館まで観に来ている時点で、私も、現象としては、「アートで心を豊かにしている市民」以外の何者でもないのだが……。

 続いてメイン、ヤン・イェリネクのライヴ。ステージ上のスクリーンには、イェリネクが使う、複雑に配線された機材(モジュラーシンセサイザーなど)が真上からリアルタイムで映し出される。
 イェリネクは、ステージに登場するや、「パフォーマンス・アート」めいたことを行うでもなく、いきなり機材の前に座り、演奏を開始する。
 会場に響き渡る、抽象的な音の塊――。
 機材の中には小型テープ・レコーダーもある。何かの音の「素材」をいじっているらしいとは分かるのだが、それが具体的に何なのかは分からない。複雑に分解され、加工され、抽象化された音の塊を、イェリネクは、執拗に反復しながら、素早い指さばきで変化させていく。
 ドラムの音などは入っていない。が、ビートは、聴く者をつんのめらせるかのように細かく刻まれた変拍子だ。音色は全く違うが、まるで親指ピアノで奏でられるアフリカ伝統音楽を聴いているような感覚に私は陥った。意識の集中を促すリズムのせいで、意識が無防備になっていく……。
 音の波が、脳の中枢に入り込み、抽象的な模様を神経にこすりつけていくような感覚だ。とても純度の高いトランス・ミュージックだ。ダンサブルな音楽ではないが、私は、貧乏ゆすりのように首を小刻みに振りながら、音に没入した。こんな聴き方をしている者は、最後列から見渡しても、他に一人もいなかったが。
 いや、一人いた。ヤン・イェリネク本人である。首をリズミカルに回しながら機材を操作しているヤンの頭頂部が、機材を真上から映すスクリーンの映像に、しょっちゅう入り込んでいる。ヤン・イェリネク(と私)だけがノリノリで、他の観客は全員、クラシックのコンサートのように、微動もせず音に聴き入っていた。
 ――しかし、このライヴは、できればもっと、腹に低音が響くくらいの大音量で聴きたかったな。シアター21は爆音上映にも利用されていたくらいなので、機材を準備すれば可能だっただろう。会場の壁に備え付けられたスピーカーは使われていなかったらしく、音の立体感は乏しかった。
 演奏には大満足、アート・パフォーマンスは低評価、音響にはやや不満あり――アート・イヴェントという「コンテンツ」の消費者としての感想は、こんなところだ。

 ライヴは20時45分ごろに終了した。
 私の知らない「知り合い」たちでごった返す会場を、私はあとにした。

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