国際会議で初めて人種平等を主張した国の『人種差別撤廃案』に学ぶ「和の世界観」~「大正時代」とはどのような時代だったのか?~ー『和の国のかたち』47ー
皆さんこんばんは。高杉です。
日本国を「和の力」でさらに豊かにというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
小学校の教員としても働かせていただいております。
11月は、毎週勉強会に参加しています。
本当に休みなく学び続けてさまざまな刺激を受けています。
新しい考え方に出会う。
新しい人に出会う。
新しい場所を訪れる。
新しいことに挑戦する。
このようなことを続ける中で、
自分がいる環境の「当たり前」はそうでもないこと。
今自分がしていることの意味を問い直すこと。
もしかしたら、今自分がいる環境は自分には合っていないのでは。
他にもやりたいことが自分にはあるのではないだろうか。
様々なことを最近考えます。
自分と対話しながら、
自分が本当にやりたいことは何か。
大切にしたいことは何か。
そのようなことを考えながら、
これからも日本国をさらに豊かにするために
できることを進めていきます。
さて、
今回は、令和7年の最終章である
『大正時代』の大まかな流れについてお話します。
今回も
よろしくお願いいたします。

1)「大正時代」の始まりと世界大戦

アジアの植民地化の波を
近代化を成し遂げたことで
乗り越え、
さらに、日清・日露の二つの
大きな戦争を経て、
列強に並ぶ実力をつけていた「明治」という時代が終わりを迎えます。
明治15(1912)年7月30日。
糖尿病を患い、慢性腎臓炎を併発した明治天皇は、
満59歳で崩御されました。
即日、
第123代・大正天皇がご即位になり、
元号が「明治」から「大正」に改元されました。
ご即位の時、
大正天皇は32歳であらせられました。
『大正』という時代は、
大正15(1926)年に大正天皇が満47歳で崩御されるまでの
15年間という短い治世でしたが、
我が国にとっては、
世界大戦と有色人種で唯一のリーダーに躍進していく
非常に重要な時代であります。

大正天皇は、
ご即位前から体調面で心配なことがありました。
皇太子時代は安定していたものの、
ご即位後は過密な日程をこなさなければならず、
軍事行幸を除いては、行幸先に皇后が同伴することが前提になりました。
明治天皇が厳格で国民を積極的にけん引していく力強い天皇だったのに対し、
大正天皇は寛容で国民が親しみやすい天皇でした。
大正天皇は、
4方の皇子に恵まれました。
第一皇子の裕仁親王(後の昭和天皇)
第二皇子の雍仁(やすひと)親王(秩父宮)
第三皇子の宜仁(のぶひと)親王(高松宮)
第四皇子の崇仁親王(三笠宮)
です。
大正天皇は、
皇太子時代、子供たちと食事、鬼ごっこ、将棋、映画鑑賞などをなさる機会が多く、お子様方とれを引いているお写真なども残されています。
大正天皇は、
ご即位からすぐにご体調が不安定になり、
大正2(1913)年には肺炎で重体となり、
回復してご公務に復帰なさいましたが、
大正3(1914)年には歩行がままならなくなり、
大正4(1915)年には京都御所にて即位礼を仙洞御所にて大嘗祭を行いました。
ご即位に際しては、
宮中の賢所に祀られている三種の神器の御神境を京都にお移しする必要がありました。そのため、鉄道史上唯一となる御鏡をお移しするための賢所乗御車が使われることになりました。

この当時の国際社会では、
日露戦争に敗れたロシアは、
アジア進出を断念してヨーロッパへの進出を図っていました。
この頃になると、
ドイツが国力を増して、
近隣のオーストリアとイタリアと「三国同盟」を結んでいました。
この同盟に危機感を抱いたイギリスは、敵対していたロシアとの関係改善を図り、フランスも味方に引き入れて「三国協商」を結んで対抗しました。
ヨーロッパ情勢は、
このように2つの大きな勢力を中心として緊張関係にとなっていました。
さらに、
オスマン帝国の衰退に伴って民族同士の衝突が激化し、
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたバルカン半島でロシアがスラブ民族の独立運動を支援し、オーストリアがこの運動を阻止しようとしていました。
そのような中、
大正3(1914)年にボスニアのサラエボでオーストリアの皇太子夫妻がセルビア人の青年に暗殺されるという「サラエボ事件」が起こりました。
この事件をきっかけにヨーロッパの緊張関係はついに最高潮となり、
ヨーロッパ全土を巻き込む戦乱へと発展してしまいました。
「第一次世界大戦」の始まりです。

「サラエボ事件」を発端として起こった「第一次世界大戦」。
我が国は、
「日英同盟」を理由にイギリスが与する「三国協商」の国々の味方として参戦し、ドイツに宣戦布告しました。
当時、ドイツの租借地だった山東半島と青島(チンタオ)を攻略しました。
さらに、
要請受けて地中海に日本海軍艦隊を派遣し、ドイツ海軍の潜水艦から輸送船や商戦を護衛したり、イギリスとロシアとフランスの三カ国に救助班を派遣しました。
「第一次世界大戦」は、
4年間にわたって主にヨーロッパが主戦場となりました。
最終的には、
ドイツがアメリカを攻撃してしまったことにより、アメリカが「三国協商」陣営として参戦したことが決定打となり、大正7(1918)年に終戦しました。
この戦争では、
これまでの戦争とは異なり、
飛行機や戦車、潜水艦、毒ガスなどの化学兵器など多くの新兵器が使われてしまいました。
1000万人近い犠牲者を出しました。
この数字は、過去100年間の全ての戦争における兵士の死者数をはるかに超えており、参戦国の経済や人的資源、科学技術などを取り入れたまさに総力戦となり大きな被害を出してしまいました。
2)世界大国としての大躍進と社会主義の台頭

大正8(1919)年に
「パリ講和会議」が開かれ、
「ベルサイユ条約」が締結されました。
戦争責任をすべて敗戦国のドイツに押し付け、ドイツはすべての植民地と本土の一部を失い、軍備は制限され、巨額の賠償金に苦しむことになります。
その一方で、
戦勝国側の責任は全く遡及されず、敗戦国ばかりに膨大な負担を課す形となったのです。
これが「第二次世界大戦」を引き起こすきっかけとなってしまいます。
我が国は、
この講和条約にアメリカ、イギリス、フランス、イタリアと並ぶ一員として参加しました。
そして、
アメリカのウィルソン大統領の提起により、世界平和と国際協調を達成するための組織として大正9(1920)年に、「国際連盟」が設立されました。
我が国の新渡戸稲造が事務局次長に就任し、ドイツが植民地支配していた太平洋の南洋諸島は国際連盟から委任され、我が国の委任統治となりました。
国際連盟の提案国であるアメリカは、
アメリカ国内の議会の反対を受けて、国際連盟には加入することができませんでした。
結局のところ、
イギリス、フランス、イタリア、そして日本国を常任理事国としてスイスのジュネーブに本部を置いて「国際連盟」は発足します。
大戦の反省を受けて、
国際的な協調が重視されることになり、大正10(1921)年にアメリカの呼びかけにより、「ワシントン会議」が開かれ、「ワシントン海軍軍縮条約」「中華民国の地位に関する九カ条条約」「太平洋問題に関する四カ国条約」が成立しました。
これにより、
「日英同盟」は失効され、
アジア太平洋地域での国際秩序が定められました。
これは「ワシントン体制」と言われ、
アジアで台頭する日本の勢力を抑えることが目的だったのです。
アメリカは、
日本を新しい国際協調システムの中に組み入れようとしたのです。
今後、アメリカは日本との連携を図り、
日本はアメリカに協調する路線をとることになります。

「第一次世界大戦」が終戦したころの支那大陸は、
清国が滅亡してから各民族が割拠する混乱状態にあり、
統一政府がありませんでした。
我が国は、
支那大陸の一部の実権を握っていた中華民国に対して、
大陸にドイツがもっていた権益を日本国に引き継ぐように要求しました。
この要求は「対華二十一カ条要求」と言われることもあります。
これに対して、
中華民国の袁世凱は反発し、
国際社会に向けて日本国の非道を意図的に発信して対抗しました。
我が国は戦勝国側に属しており、イギリスやアメリカが味方しましたが、妥結の目途は立たず、ワシントン会議で10カ条に減らし、山東半島を返還しましたが、南満州や内モンゴルにおける日本国の優越権や旅順・大連の租借権や、南満州鉄道の権益、鉱山の発掘権など日本の権益の拡大は認められました。
この決着に反発した支那では、
反日運動が展開され、大正8(1919)年5月4日に学生運動をきっかけに「五四運動」が起きました。
また、
朝鮮半島では、日本からの独立を目指す決起集会が開かれ、「三・一運動」が起きました。
我が国がこの要求を実現させたのは、「第一次世界大戦」中に誕生したある国の脅威や支那大陸における欧米諸国の植民地への対応に備えてのことでした。

その国こそ、
ソビエト連邦
でした。
日露戦争の頃よりくすぶっていた共産主義者たちがついに大々的な武装蜂起を起こします。
ロシア皇帝とラスプーチンらによる専制政治に対して、
労働者や市民の不満が爆発し、
「ロシア革命」と言われる共産主義革命が起きたのです。
「ロシア革命」とは、
ロマノフ王朝を打倒した二月革命と、レーニン率いる共産党が他勢力を排斥して共産党一党独裁体制を確立した十月革命の総称です。
ここに世界史で初めての
社会主義・共産主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦が誕生しました。
ソビエト政権は、
第一次世界大戦を即座に離脱して国内改革にいそしみました。
我が国は、欧米諸国と共同し、ロシア革命を阻止して社会主義の拡大を阻止しようしましたが革命政府に敗れてしまいます。これを「シベリア出兵」といいます。
ソビエト連邦を建国後、
レーニンの後に指導者に就いたスターリンが主導して五カ年計画を実施し、工業や農業の改革に着手しました。この計画が功を奏し後の世界恐慌の影響を受けることはありませんでした。その裏では、反対勢力をことごとく粛清・弾圧していたのでした。
我が国においても、
大正11(1922)年にソ連のコミンテルン日本支部として秘密裏に日本共産党が結成されることになります。暴力革命によって我が国を共産化しようと企てていたのです。それは、現在の日本共産党の党是にもなっています。
後に日本政府は、
ソビエト連邦と国交を結ぶ際に、日本共産党を中心とする共産主義勢力が反天皇、反私有財産制を主張する破壊活動を抑止するために大正14(1925)年に「治安維持法」を制定することになります。
3)大正デモクラシーと大正時代の終焉

「第一次世界大戦」によって、
我が国の経済は大戦景気(大正バブル)と呼ばれる活況を見せていました。
特に、
重化学工業が急速に成長して、
第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパ諸国などへの輸出は増大しました。さらに、欧米諸国に代わってアジア諸地域への綿糸や綿織物の輸出が増大し、輸出額が輸入額を上回るようになり、日露戦争以来多くの借金を抱えていた我が国にとっては大きなものでした。
しかし、
急速な輸出産業の成長は、急激な価格上昇を招くことになりました。
さらに、
この時期のシベリア出兵と重なったことから、商人たちが米を買い占めたことによって、米の値段が大幅に上がり、「米騒動」と呼ばれる暴動にも発展してしまいました。
また、
この頃には護憲運動が盛んに行われるようになりました。明治維新の中心的な存在である薩長を中心とする藩閥による藩閥政治に対して国民が不満を抱き、「第一次護憲運動」が行われました。
「米騒動」の責任を責任を取り、寺内内閣が退陣すると、
平民出身の原敬が内閣を組織するようになります。
原は、国民の後押しもあって、陸海軍大臣と外務大臣以外のすべての国務大臣を立憲政友会の党員でそしくする初の本格的な政党内閣を成立させました。
その後、
「第二次護憲運動」を指導した加藤高明が大正(1924)年に内閣を発足させると、
①衆議院第一党の党首が組閣すべきこと
②その内閣が倒れたら、野党第一党の党首が組閣すべきこと
③政権交代の全gには衆議院議員総選挙があるべきこと
という『憲政の常道』が14年間続きました。
我が国の政治史にとってかなり大きな変革でした。

大正時代は、
「政党政治」が確立し、民主主義(デモクラシー)の議論が活発化しました。
政治学者の吉野作造は、
『国歌の主権の活動の基本的の目標は政治上人民にあるべし』
という『民本主義』の考え方を提唱しました。
民衆を重んじる政策決定を求めたのです。
国民の幸福のために政治が行われるべきという考えは、
まさに神武天皇が日本国を建国するに至った『建国の詔』の精神にも通じます。
また、
憲法学者の美濃部達吉は、
『主権は天皇ではなく、国家にある』
と説き、『天皇機関説』を主張しました。
「大正デモクラシー」と呼ばれるこの時期は、
政党内閣を理論的に後押しするかたちで自由でのびのびと議論がなされました。
大正14(1925)年。
加藤内閣が25歳以上の男子に選挙権を認める普通選挙法を成立させました。有権者は約4倍に増えました。
近代化の成果が着々と実を結んできた我が国においては、
国民の教養も高まっていきます。
学校教育では、
大学や個人の自主性が重んじられるようになります。活字文化も広がり、新分野雑誌などが急速に成長して盛んに言論が戦わさせるようになりました。
娯楽分野でも、
週刊誌や絵本、小説が人気を集め、国産初のアニメも生まれ、蓄音機やレコードの登場により歌謡曲が広がりました。ラジオ放送も始まりました。
その一方、
大正12(1923)9月1日。
「関東大震災」が発生してしまいます。
この地震は、人口が密集する東京や横浜を直撃したため、約190万人が被災し、10万人以上の尊い命が失われたり、行方不明になったりしました。
現在、この「関東大震災」があった9月1日を『防災の日』として防災の意識を高めようとしています。

大正天皇がいよいよご公務もままならなくなると、
皇太子の裕仁親王が摂政にご就任になります。
政務からお離れになった大正天皇は、療養生活にお入りになるも病状は回復せず、大正15(1926)年に満47歳にして崩御となりました。
この日に、
25歳の摂政裕仁親王が践祚なされ、第124代・昭和天皇が誕生します。そして、新たな元号は『昭和』となりました。
大正天皇の治世は、
15年間と決して長いものではありませんでしたが、この「大正時代」は、我が国が大国としての地位を確立させた時期であり、「大正ロマン」や「大正デモクラシー」などと言われるように、束の間の自由で明るい時代でした。
大正天皇は、
病弱で凡庸な天皇という印象を持つ人が多いのではないかと思いますが、人間味にあふれ多くの人から親しまれた天皇だと伝えられています。非常に家庭的で誰とでも分け隔てなく積極的にお話になる皇室の原型は大正天皇由来のものであるといっても過言ではありません。
大正天皇は、
まさに近代日本にふさわしい世界に開かれた平和的な象徴としてあられたのでした。
ここからさらに激動の「昭和」の時代へと移っていくのです。
ここまでは、
我が国が大国としての地位を確立させ、自由で民主的な議論が闊達になされた『大正』という時代についてお話をしてきました。
次回は、
我が国が世界に向けて率先して発信した『人種差別撤廃案』と和の国の想い
についてのお話を進めていきます。
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「和」とは、
周りに流されることのない主体性と信念を持ちながらも、周りの人々や自然と調和することを実践する道であり、我が国が建国されてからも2000年以上、受け継がれてきた価値観である。
日本が疲弊している。
日本人が疲弊している。
でも、日本を諦めたらいけません。
僕は諦めません。
日本人はまだまだやれる。
なぜなら、
僕たちが歩む道の後ろには先人たちが繋いでくれた
「我が国を遺したいという思い」がたしかにあったからです。
私たちが今できることは、
何よりもまず自分の国の神話、歴史、文化、そして精神性を学ぶこと。自分と先祖の歴史と生き方を学ぶことだと思うのです。
令和時代に、
「和の精神」を発揮して日本国を再び
よろこびあふれる感動する国へと取り戻す。
そのために、
皆様とともに学んで参りたいと存じます。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
今後とも、
『和だちプロジェクト』をよろしくお願いいたします。
