短編小説 SS「愛の証」~#秋ピリカ応募
随分昔の話になる。
久しぶりの休日に夫婦で日本橋に出かけた。買い物をした夕暮れ時の帰り道、小さな骨董品店が目にとまった。早く帰りたがる妻を尻目に、引き寄せられるように店に入ると金縁眼鏡をかけた白髪の老人が店の奥で葉巻をくゆらせていた。
「こんにちは」私が挨拶をすると老人は葉巻を片手に愛想良く返事をした。「いらっしゃい。ゆっくり見ていきなされ」
小さな店に様々な品物が積まれていた。時計、人形、陶器……。その中でひとつの品物が私の目をひいた。床に立てかけられた小さな古びた水彩画である。
「この絵は?」
「ああ、それはあるフランス人が大昔に描いたものじゃ。大した値打ちはないですぞ」金縁眼鏡の奥で深い瞳が光った。
絵にはセーヌ川に浮かぶ小舟と昇りゆく朝陽、どことも知れない架け橋に佇む女性の姿が描かれていた。美味く描けているがありふれた構図だった。だが私は気に入った。朝陽に背を向けた悲しげな女性の姿が印象的だった。
「おいくらですか」
「お安くしますぞ」老人は私たちを交互に見て嬉しそうに目を細めた。
私は妻が止めるのを聞かずにその絵を買った。丁寧に包装された絵を片手に抱えて店を後にしたとき、老人が再び葉巻をくゆらせるのが見えた。
それから数年後のことである。
ある日、壁に飾ってあったその絵が傾いていることに気がつき、位置を直そうとしたら額縁の隙間から一枚の紙切れがぽとりと床に落ちた。黄ばんだ紙切れを開くと、所々かすれたフランス語の文字が書かれていた。
「愛するあなたへ。この酷い戦争であなたが戦地に行って二年待ちました。やっと戦争が終わったけれどあなたは帰って来ない。寂しさで胸が潰れそうです。あなたが帰るまで待つつもりでした。でも病でどうやら私は長くないようです。この絵は故郷を思って描きました。私だと思ってください。さようならあなた」
私の脳裏に、軍服姿の日本人男性が勇ましく出征する光景が浮かんだ。同時に、彼を悲しげに見送る一人のフランス人女性の姿が浮かんだ。
もしかすると……。私は、ある顛末を思いついて、週末に再び日本橋の骨董品店を訪れた。だが、店はなくなっており、洋菓子店になっていた。私は骨董品店の主人について近隣に聞いて回った。幸い古くから主人を知っている友人から話を聞けた。私の予想は当たっていた。
終戦から数年後に男は戦地から無事帰還した。だが愛したフランス人の妻は既に亡くなっていた。彼らと懇意にしていたその友人が男に一枚の絵と紙切れを渡した。男は絵を抱いて慟哭したという。男は、その後日本橋に骨董品屋を開いた。そして二年前に他界した。
苦難の時代における、ある日本人男性とフランス人妻の愛の残影。
その証が私の家にある。彼が私に絵を売った理由は分からない。ただ私は終生この絵と手紙を大切にするつもりだ。
私の愛するフランス人の妻とともに。
(了)(1192文字)
