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『橙刻』四十年の時空を超えて      【前編】突然の出会いと裏切り

ビニール袋を持つ手が痛む。
両手に十人分の弁当がずっしりと食い込んでいた。
陽炎の立つ六月の昼休み、キャンパスの一番端にある研究室まで運ぶのかと思うと、ため息がこぼれた。
大学のゼミで予約したランチを、正門前の弁当屋に受け取りに行ったのだ。

「送るよ」

目の前に止まったステーションワゴン。
助手席から顔を出した青年は、ルーフに積んだサーフボードに負けないくらい眩しい笑顔を見せた。

「リーフレットを学校で配ってくれることと、今夜ここに電話して反応を教えて」

彼はサーフィンサークルメンバーを募っていた。
リーフレット配布が彼の交換条件で、同時に彼との始まりだった。
その夜、指定された番号に電話をかけた。
「今すぐ会おう」と言って再びあのワゴンで現れた。
車内にはエア・サプライのメロディが流れ、二人は言葉を重ねるより、通じ合う何かを感じた。
気の合う若者が距離を縮めるのに、さほど時間はかからない。
それからというもの週末になれば一緒に海を目指した。
彼は波の虜になり、私は砂浜で彼から貰ったブギーボードを抱えながら微睡んでいた。
波と潮風の香り、ダッシュボードでカラカラと音を立てるサクマのドロップ缶。
それが二人の世界のすべてだった。
だが青春の光はあまりにも早く、現実の影に飲み込まれていく。

彼は資産家の長男。父親は議員。
多忙な父親に代わって事業運営の一部を任される立場に置かれていた。

「卒論が間に合わない。留年するかもしれない」

お互いの卒業が見えてきた頃、彼は血相を変えて打ち明けてきた。
彼の専攻は工学系、私は文系。
彼が抱えてきた膨大な資料やノートを見ても、私にはさっぱり理解出来なかった。
しかし「やれるところまでやるしかない!」とお互いに鼓舞し合って、彼の指示に従いながら寸暇を惜しんでレポートに向かった。

必死で書き上げた数百枚の卒論。
その夜、彼は倒れるように眠った。
私は深夜の彼の部屋で初めて彼の母と向き合った。

「ごめんね、こんな息子で」

私を自宅まで送り届けてくれた白いセダンの中で、母親は少し寂しそうに笑った。
彼の父親を送迎し続けたその横顔は、名士の妻としての諦念に満ちていた。

二人三脚で書き上げた怒涛の一週間を経て、どうにか二人とも卒業という門をくぐった。
しかしそれは二人の時間軸が狂い始める、そのスタート地点であった。

「男として、責任を取りたい」

ステーションワゴンの車内で彼はそう絞り出した。
別の女性との「授かり婚」。
社会人になり二人が共有する時間は激減し、気付けば一年近い空白が出来ていた。
彼は私を見ることもなく、ただ黙ったまま俯いていた。

慟哭と沈黙を繰り返し、どれくらいの時間が経っただろう。
私はようやく車を降りて助手席のドアを閉めた。
遠ざかっていくバックライトの光だけが、涙で滲む私の瞳をじっと見つめていた。

それから四十年の歳月が流れ、運命は唐突にビジネスの顔をして現れた。
取引先のイベント会場。
エントランスの階段下で視線がぶつかった先には、白髪の混じった、けれどあの頃と同じ瞳をした彼が立っていた。
磁石のプラスとマイナスが瞬時に引き寄せられたような再会だった。

「改めて、ゆっくり話そう」
差し出されたのは、議員となった彼のプライベート用の名刺だった。
                 【後編】に続く

几戸姶洛

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