lamb/Grapevine #読むバイン vol.70
この世界は象徴の森だ
と言ったのは、19世紀の詩人シャルル・ボードレールだ。科学が台頭し、神は死んだ。天体は神の意思とは無縁だと暴かれ、飢饉も火山も洪水も、自然の摂理だと気づき始めた時代に、ボードレールは神秘に傾倒した。世界の全てに意味がある。この悲しみや苦しみと、無縁なものは何一つない。万物は照応しているのだ、と淡青の書簡紙に殴り書いた。象徴詩の時代の始まりだ。

あのファインダー越しに見えたボードレール
と、あるのだから、これはボードレール以後の話。彼が切り開いた、万物を解釈して自分の心の有り様を語る、という狂気を行く者の歌だ。意味なんて何もないものの中に意味を見出す。それが人間であり、その営みが芸術になった。
30年近くGrapevineを聴き続け、そしてこんな愚考をつらつらを人前に陳列している今改めて思う。解釈という行為自体が人を痛みから救うのだ。理解できるはずもないことを敢えて理解した気になることで、人は納得し、前に進むことが出来る。たとえ間違った道だとしても。言うまでもなく、それは宗教が果たし続けてきた最大の役割であり、神が死んでしまった時代に、僕がGrapevineを聴き続けている理由でもある。人は考える葦だというが、考えるということは、人の最大の武器であると同時に、人の最大の弱みでもある。
Les sanglots longs
Des violons
De l’automne
(長々と泣き喚く 秋のバイオリン)
Blessent mon cœur
D’une langueur
Monotone.
(いつも通りの懊悩が 僕の胸を逆撫でる)
Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l’heure,
(あの鐘の音が首を締め、鬱結しそう)
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure;
(あの日々を思い出せば、涙流れる)
Et je m’en vais
Au vent mauvais
(悲しい風が吹いたなら、僕は行かなければならない)
Qui m’emporte
Deçà, delà,
(風は僕を連れ回すんだ この街へ あの道へ)
Pareil à la
Feuille morte.
(落ち葉が風に運ばれるように)

この詩の作者ポール・ヴェルレーヌは、ボードレールの正しき遥拝者であり、稀代の天才詩人アルチュール・ランボーに象徴詩の聖火を渡す者だ。この代表作『秋の歌』が顕著なように、ヴェルレーヌはボードレールに増して音楽的な詩人だ。執拗なまでの押韻を、田中和将はこの『lamb』で踏襲しているように思える。
永遠の鮮度 稀有なるセンス 絵具で塗潰してみた
あのファインダー越しに見えたボードレール
神の視線 かの叙情性 愛の付箋 掠れたきれぎれの詩
焼捨てるか食べてしまえれば
要するに、日本文学の雄たる坂口安吾の『恋愛論』の私的解釈をファーストアルバム『退屈の花』に据えた田中和将は、ここでぐっとフランス文学に意識を傾け始めている。これは次の『another sky』での『マダカレークッテナイデショー』のモーパッサンや、『sundown and hightde』のマルキド(サド)の登場にも見て取れる。さらに続いて『イデアの水槽』では、フランス実存主義にテーマを移し、『déraciné』では、自身の生い立ちや生き方と哲学を混ぜ合わせて歌い始める。僕が知る限り、田中和将の「フランスかぶれ」の初出はこの『lamb』だ。
【lamb】/子羊
を意味するこのタイトルは、3番目のフランス象徴詩人アルチュール・ランボーをどうにも思い起こさせる。

Elle est retrouvée.
Quoi ? — L’éternité.
(また見つけた。 何を? --永遠を。)
C’est la mer allée
Avec le soleil.
(太陽と海が居なくなった、あの一瞬を。)
夭折したフランス文学界の大スターで、ヴェルレーヌにとっては愛人だった。彼ら二人を描いた映画『太陽と月に背いて』(原題『Total Ecilpse』)では、若き日の美しく妖艶なディカプリオがランボーを演じていて、久しぶりに見返してみようと思ったのだけれど、VODに配信はなく、DVDも絶版、再販の見込みもなく、中古では3万円ほどのプレミア価格がついてしまっている。残念だ。
叫んでみたのは若さの証明他にない
歪んでいったのはいつかの少年に違いない
影を追って種を落とし
漸うにして集めたかばかりが
掌で崩落ちてみせた
さよなら麗しき思い出の数を数えてみた
仔羊の肉を喰らって赤いワインを飲散らかしてるはずだった
いっそ聞こえなくしておくれよあの鐘の音を決して
という『lamb』の歌詞は、この映画の主題歌にしても良さそうなくらい、二人の詩人の愛憎劇に似つかわしい。
軍人の父が失踪した家で育ったランボーは、16歳で故郷を捨て、27歳のヴェルレーヌとパリで出会った。圧倒的な才能と美貌に惚れたヴェルレーヌは、妻と生まれたばかりの息子を捨てて、ランボーとの放蕩生活に耽るようになるも、やがてそれも破局。ついに酩酊状態のヴォルレーヌは、23フランで買ったばかりのルフォショー銃を二発、ランボーに向かって放った。一発は床に、もう一発はランボーの左手首を貫通した。
破滅、という言葉に相応しい結末を迎えたヴェルレーヌは逮捕され、ベルギーの独房で2年間、遠くの教会で鐘が鳴る音を孤独に聴き続けた。その時書かれたという『空は屋根の彼方に』という詩は、ランボーとの関係を詠んだものだと言われている。
ランボーはその後代表作『地獄の季節』を書き上げた後、20歳で絶筆。その後アフリカに渡り武器商人に転じたが、エチオピアで骨肉腫を発症してマルセイユの病院に戻った。足を切り落とし、モルヒネ漬けになったランボーの最後の看取ったのは6歳下の妹で、意識が錯綜したランボのー最後の言葉は「アフィナールへ行く船はいつ経つ? 荷物をまとめろ、僕はそこへ行く」だったそうだ。その言葉を聞いた妹や医師、そしてその後の膨大なランボー研究者は皆一様に首を傾げた。何故ならこの地球上の何処にも「アフィナール 」などという地名は存在しないためだ。そこは彼にとってのシルヴァラードだった。
父が失踪した家庭で育ったという点や、デラシネとして生きたという点で、アルチュール・ランボーと田中和将は一定の相似が見える。勿論、象徴と解釈という関係に基づく、その詩作の面においても。
この世界は無意味だか、有意味なのか、たぶん答えはない。そもそも意味という価値観自体が、人間が考えだしたものに過ぎない。繰り返しになるが、人間は考える葦だとして、それは美徳のようでもあり、呪いのようでもある。詩は美しいものであるが、苦悩の中でしか生まれない。
旅に出る者と、出ない者がいる。根を張る草と、根無し草がある。
シルバラードがどこだって
本当はもうどうでもいいさ
ランボーは1891年、11月10日に死んだそうだ。ざっと135年になる。確かなことは分からない。多分曲解の部類だろう。けれど僕は思う。まだランボーは、アフィナールに発つ船を探しているに違いないと。
https://www.uta-net.com/song/20175/
【著作権について】
本記事では、日本のロックバンドGrapevineの音楽、主にその歌詞を考察していきます。Grapevineは、歌詞については、ギターとボーカルを担当する田中和将氏が書いています。そのため、歌詞の一切については著作権者は田中和将氏にあるものと考えております。ただ、日本の著作権法には以下のような一文があります。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
本記事は、公表された著作物について、引用して批評・研究しようとするものであり、著作権者の権利を侵害するものではないと考えています。また、その意思はありません。万一、引用の仕方や分量について、著作権を侵害するような部分があると感じられた場合、ご指摘いただければ改善に努めます。
なお、本記事の文につきましては、先に述べました著作者Grapevine及び田中和将氏の権利を害さない限り、転用して構いません。その際、ご一報頂けると嬉しく思います。
