【連結経理課・和服ちゃん】(PMI編10営業日)上司
その日、十二時を少し回った頃。給湯室から戻ろうと廊下を歩いていると、エレベーターの扉が開く音がした。
「お、三和さん」
まだ出向から三週間ほどしか経っていないのに、私を呼んだ声がやけに懐かしく聞こえた。落ち着いたグレーのスーツにネイビーのネクタイ姿でパリッとしている。
「神谷部長、お久しぶりです」
私は軽く会釈をして続けた。
「エコペン社に来るなんて、どうされたのですか?」
神谷部長は穏やかな目をして答えた。
「一応、買収直後からこの会社の監査役になっていてね。今日は三枝社長との打ち合わせだ。
……三和さん、お昼はもう食べたかな?」
私がまだこれからと答えると、神谷部長は少しホッとした顔をした。
「間に合ってよかった。じゃあ、一緒に行こう。近くに寿司屋があるのを見つけてね。水家といったかな。三和さん、寿司は大丈夫?」
私は、思いもよらず部長と昼食を一緒にすることになった。
*
お店へ入ると「らっしゃい!」と威勢の良い声が出迎えてきた。
私達は、偶然空いていた個室へ案内してもらった。最近替えたばかりという畳の匂いが気持ちいい。
「三和さん、何する? 特に希望が無ければ上握りを頼もうと思っているけど」
歓迎会の時にもきたけれど、ここの寿司はおいしい。笑顔を抑えられず、元気に答えた。
「はい、おねがいします」
返事を聞き、神谷部長は注文をした。
「上握り二人前。一つはワサビ抜き……で良かったよね?」
部長とお寿司を食べるのは五年ぶりなのに、私がワサビ苦手なの、よく覚えている。
「で、どう? 少しは慣れてきた?
先日、吉田課長から相変わらず夜遅くまで仕事していると聞いたけど」
「……はい。でも、まだ戸惑うことばかりです」
神谷部長は私の姿を見ながら、穏やかな口調で語りかけた。
「エコペンテックも、まだ上場企業のグループに入ったという意識はあまり無いと思う。勿論、いい人が居ないというわけじゃない。意識の問題だ。
その点で、君がこの会社にいることはいい刺激になっていると思う」
会社への刺激、と言う言葉を聞き、今朝の田端部長の顔が浮かんできてしまった。神谷部長の言葉に何とか応えようと、必死に言葉を絞り出す。
「はい……でも、あまり自信はありません。私は、部長や課長の下で経理として勉強してきたつもりでした。だけど……」
やがて言葉が詰まり、視界がぼやけた。気づけば、頬が少し湿っていた。
「あれ? おかしいです、大丈夫だと思ってたのに……」
自分でも戸惑っているうちに、神谷部長がそっとポケットからハンカチを差し出した。
私はそのハンカチを受け取り、小さく頭を下げた。
――どのくらい時間が経っただろう。神谷部長は何も言わずに穏やかな顔で私を見守っていた。途中、お寿司を運んできた女将さんが、気遣ってお茶のおかわりとおしぼりも持ってきてくれた。
少し落ち着いてきた頃を見て、神谷部長がゆっくり話し始めた。
「君が頑張っていることはよくわかっている。吉田課長も三和さんが相当遅くまで頑張っているといって心配していたほどだ。それに――三和さんがいなければ、売上債権の整理はここまでできなかったはずだよ。何より、おかしいと思ったことについて、止まらずしっかり見てくれている。それは君の強さだ」
私は、少しだけ深く息を吸った。
「……ありがとうございます」
目の奥の熱が、ゆっくり引いていく気がした。
神谷部長は湯のみを手に取りながら、言葉を選ぶように言った。
「無理はするな。でも三和さんが悩んでいることも分かっている。私は、三和さんがどんな報告をしても、否定から入るつもりはない。この環境下で正直に考え抜いたなら、それはきっと意味があるものだと思う。
……さ、お堅い話はあとにして、大将が握ってくれた寿司でも食べよう」
同じお寿司のはずなのに、歓迎会の時とはまた違った味がした気がした。
*
神谷部長は口数少ないけど鋭い、という印象だったけど、昼食での気遣いにはとても驚いた。
昼食後、神谷部長は社長室へ行く前に私を見ていった。
「いま、悩んでいることを報告書にしてくれ。ありのまま、まとまって無くてもいい。あと、今日は早く帰りなさい。」
その日、結局私はあまり仕事が進まず
山口主任と、神谷部長に言われた通り、早く帰ることにした。週明けは頑張ろう。
帰り道、あの派手なスーツの伊原さんを見かけた。
伊原さんも昨日飲みすぎたのか、定時帰りのようだ。
神谷部長の言葉は、心のどこかで絡まっていた糸を、すっとほどいてくれた気がする。
私は混み始めた電車のなか、小雨が打ちつけてきた窓の外をぼんやりと見つめていた。
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