分身を産出する鏡 〜濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』 と牛腸茂雄『見慣れた街の中で』展〜

・牛腸茂雄とダイアン・アーバスのダブル〜明快さと揺らぎのダブル〜
牛腸茂雄(ごちょうしげお)という写真家の名前を知ったのはたしか中学生か高校生の頃。きっかけは思い出せないが、たちまちその作品の魅力の虜になったことは覚えている。双子、分身(double)、複製(reproduction)。自分とそっくりの自分じゃない存在。他者。
親しみをもって相手の名前を呼びかける際に浮上する触覚的な近さから自己と他者(self and others)とを弁別するより大きなカテゴリーへの手続き的還元のひやりとする遠さまでの距離を絶えず微分していこうとするまなざしの欲望の漸進的接近は、あらゆる視覚メディアの発展の原動力を成すものだろう。
そのような距離を視覚的に表象する軸として、双子は置かれる。

この写真の近さ=遠さ。
2人は微妙に微笑もうとして口角を上げ、あるいは真顔を作ろうとして口を真一文字に結び、つつあり、その結果第一ボタンまで留められたスプレッドカラーのシャツの窮屈さも手伝い微妙に緊張して肩が上がって首が縮こまり、互いの緊張を分かち持つかのようにこれまた微妙に小さな手を重ねている。
そう、よく見ると双子の手は繋ぎ合わされてはおらず、ただあいまいに絡められてほんの少しの接触面を作っているだけなのだ。
この通り、画面の中に生じつつある身体の運動は、すべてがある形態が別の形態へと移行しようとする線の途中の状態にあり、接触面を対象軸として、近さと遠さの間に宙吊りにされている。

よく引き合いに出される女性写真家ダイアン・アーバスの存在を、僕は牛腸を通じて知ったのだが、冷静に観察してみると両者の作品には、同じ題材と構図を扱っているだけに正反対と言ってもいいほどの違いがある点に気づく。
同じように双子の少女を撮ったこちらの作品では、2人は少しく緊張してはいてもはっきりと「微笑んでいる」と読み取れる朗らかな表情を浮かべており、互いの手は繋がれていないまでもぴたりと寄り添い、肩から腕を通じて指先までの間により大きな親密な接触面を作り出している。
要するにここには途中のものがなにもない。
おそらく撮影者に指示されたであろうポーズを被写体が取り終えた後の完成された状態に双子はあり、ある形態が別の形態へと移行しようとする運動の線は既に引き終えられている。
牛腸の作品における双子があたかもポーズを取っている途中であるかのように、その身体の運動のいずれもが宙吊りの未決定の状態に置かれているのとは対照的だ。
そう、世評とは異なり、実はアーバスの双子の中には不安な要素がなにもない。それはせいぜいが似て非なる存在を隣り同士に並べた際に生じる明快な違和感とでも呼ぶべきものを表現しているに過ぎず、近さと遠さが写真によって切り取られた真空状態の中で絶えず接近し・出会い続ける/遠ざかり・すれ違い続けるような揺らぎはまるで感じられない。
無論、アーバスの明快さには例えばバロック絵画の伝統や美意識に連なるような別種の良さがあるわけだが、僕が牛腸に惹かれるのは、そして牛腸茂雄という写真家を真に特異ならしめている要素は、こうした揺らぎの感覚、未決状態にある運動を幾重にも重ねることによって醸成される違和感、われわれのまなざしに亀裂を生む穴の多孔性にあると言えるだろう。
そして、隣り合った際、自然とカントの言う“対称性”の軸を作り出す双子、より広く“ダブル(分身)”は、われわれ観者が2枚の絵の間違い探しを開始する際の枠組みを提供するとともに、その間違いの意義を強調しもするのである。
・サルバドール・ダリとダブルイメージのダブル〜差異と同一性のダブル〜
ところで、間違い探しでダブルといえば、ダブルイメージという言葉が思い浮かぶ。ダブルイメージとは、シュルレアリスム第2世代のスーパースターことサルバドール・ダリが好んで用いた“偏執狂的・批判的方法”の一技法で、絵画空間という同一平面の中に異なる意味性を持つ同一の形態を複数登場させることで、見る者に事物の深層に隠された思いがけぬ繋がりや同じかたちが産出する新鮮な差異についての発見を促すことを目的にしている。
例えば、前者の好例と言える『水面に象を映す白鳥』(1937)では、湖に浮かぶ白鳥たちの姿が、水面に鏡写しになって反転した像においては象の姿を浮かび上がらせている点がユニークだ。変身(metamorphosis)という主題に対する鋭敏な感覚とでも言おうか。まさにAがAならざるものに変身していく逸話の宝庫であるギリシア神話に材を取った作品を多く持つダリは、ある形態が別の形態へと移行していく過程そのものへの興味があったのかもしれない。

対して、わが国が経験した広島・長崎への原爆投下の惨状にショックを受けたダリが、1947年にビキニ湾の核実験に想を得て制作した『ビキニの3つのスフィンクス』は後者の代表例。

頭巾で髪の毛を覆った人間の頭部の背面という同一の形態が3つ並べられているが、よく見ると画面下手の図像は2本の木であり、上手の図像の頭髪はきのこ雲になっている。この画像ではわかりづらいが、きのこ雲の中には原爆の発明者であるアインシュタインの横顔が、木々の緑の中にはダリが自身の作品制作において多大な影響を受けたフロイトの顔が隠れている。
ダブルイメージは、視覚的な双子の近さ・遠さを、牛腸とは異なる子供じみたやり方で(個人的に、ダリの言う“偏執狂的・批判的方法”とは、正常なまま狂人の、大人のまま子供のふるまいを自己にインストールするための方法論であったように思う)表現するための試みだったと言えるだろう。
・牛腸茂雄と濱口竜介のダブル〜『寝ても覚めても』と『ドライブマイカー』のダブル〜
次に出会ったのは、映画『寝ても覚めても』(2018)を劇場に見に行った時だ。主人公の女性・朝子(唐田えりか)が麦(ばく)と亮平というまったく同一の顔と正反対の性格を持つ2人の男性(東出昌大の一人二役)に翻弄される奇妙なラブストーリー。あらすじから窺える通りドッペルゲンガーなり分身(ダブル)がテーマとなっており、亮平とともにアパートの新居に越した朝子のもとを麦が訪ねてくる幻覚的なシーンなどははっきりとホラー映画の文法にしたがって撮られている。
スローモーションを活用して劇的に演出される朝子と麦のマジックリアリズム的な出会いのシークエンスに、牛腸の作品が紛れ込む。ふらふらと美術館の中に入って行く麦の背中に朝子が付いていくと、ちょうど牛腸の展覧会が催されているところなのだ。先ほど挙げた双子の写真もクローズアップで映し出される。その後、麦の突然の失踪後に訪れる亮平との出会いをもたらすものもまた、別の機会に開かれる牛腸の展覧会だ。そっくりの別人との出会いの反復が写真作品のダブルイメージに重ねて語られる、実に的確でふさわしい道具立てだ。

牛腸の作品と対を成す、成人男性の“双子”。
本作は監督である濱口竜介の名を一躍高らしめるとともに、牛腸の認知度拡大にも貢献したようだが、実は濱口のダブルへのこだわりはこれに留まるものではなかった。
村上春樹の短編集『女のいない男たち』の中から同名作を含む3編を独自にミックスして(!)映像化した『ドライブ・マイ・カー』(2021)では、原作には存在しないオリジナルな要素として、あるいはそのような要素の潜在を読み取った濱口による精神分析的な解釈の実践的提示として(濱口は優れた映画作家であるとともに優れた映画批評家でもある)、ダブルのテーマが人間本性における善悪の別れ道として描かれる。
冒頭、主人公の中年演出家・家福(西島秀俊)は、最愛の妻で脚本家の音(霧島れいか)の浮気現場に遭遇する。この時、男の上に乗っている妻の歓喜の表情を巨大な姿見に反射してやや斜め横から目撃する格好になるのだが、こちら側に背中を向けている男の顔は見えない。その後妻の不貞について素知らぬ振りを続ける家福だったが、幸福なセックスの最中、ベッドの上で音に跨られている時、同じ姿見の中に“あの時のあの男”と同じ形態として浮かび上がった自身の像を発見した瞬間、なにか重大な真理に気付いたかのように、ふつりと押し黙り、数秒後にカットが切り替えられる。要するに、鏡の中で左右が反転した顔のない不気味な像の背中側(つまり、前後も反転)として家福が出会う“あの男”とは、彼自身の背面としての分身なりドッペルゲンガーであるにほかならず、今生の生においては選び取られることのなかった人生のアナザーサイドを表しているのだ。また、そっくりな2人の男が1人の女を奪い合うという設定は『寝ても覚めても』をより巧妙に変奏するものでもある。
“あの男”が音や家福と面識のあった若手俳優の高槻(岡田将生)であろうことを考えれば、高槻=家福の図式が成立することとなり、さらに爽やかな外見とは裏腹に短気な性質から暴力事件を起こしてしまう高槻に温厚なジキル博士の背中側たる凶暴な人格・ハイド氏の役柄が振られていることは明らかだろう。そして、こうした仮説の証拠となるのが、ロシア文学に私淑する濱口一流の“罪と罰”を巡る主題が分身というモチーフの中で語られる車内における見事なクライマックスシーンだ(ドストエフスキーにはそのものズバリ『分身』という小説があり、ベルナルド・ベルトルッチ監督による映画版も存在する)。
ドライバーとして雇われたぶっきらぼうな年若い女性・みさき(三浦透子)が運転する車の中で、助手席に座った家福と後部座席に座った高槻が向かい合い、シリアスな会話劇を展開する。ところが、カメラはみさきをほとんど映し出さずその存在を故意に透明化することによって、あたかも車がひとりでに動いているかのような、あるいは車などは端から存在せず車内の薄暗い空間だけが現実から切り離されて宙に浮かんでいるかのような外観を作り出す。そうして鏡写しになった2人の男、いや、1人の人間の内面において展開される善悪を巡る対話がじっくりと捉えられてゆくのだ。
この通り、真っ暗な夜の背景に沈んだ車内はまるで宇宙空間のようで、向かい合う両者のバストショットや顔のクローズアップを切り返し撮影で交互に映し出すことによって、正面向きにカメラのこちら側を見つめる人間の顔が同一の形態として重なり合い(ダブルイメージの成立)、どこにも存在しない静止した時空間の中で(つまり、心理的な空間の中で)同じ1人の人物が果てしない自問自答を繰り広げているかのような錯覚を引き起こすことに成功している。
それだけではない。切り返しショットは、ハリウッドにおいて映像文法が整備され物語映画が確立された1920年代頃から頻繁に活用されてきた古典的な撮影技法だが、監督の濱口と撮影監督の四宮秀俊はそのありふれた手法の魔術的な側面を浮かび上がらせることによって、ダブル=分身という物語内容とそれが語られる際の形式、つまりは映像表現のスタイルとを本質的なレヴェルにおいて一致させている。映画史的に見た場合にも、これはひとつの驚異的な達成であると言っていい。どういうことか?
一般に、切り返しショットの撮影においては、互いの顔を見合って並行に並んだAとB、2人の人物を水平に結んだ仮想的な線=“イマジナリー・ライン”を軸として空間を分割し、うち片方の半円のいずれかのポイントに設置されたカメラが移動したり左右に首を振る(切り返す)ことで、2人の人物の表情を交互に映し出す方式が取られる。カメラがこの半円からはみ出し、イマジナリーラインを割って反対側にあるもう片方の半円の中に侵入してしまうとショットの繋がりが不自然になってしまうことから、「カメラはイマジナリーラインを越えてはいけない」という“180度ルール”と呼ばれる原則が知られている。

カメラが下部の半円の範囲からはみ出し、イマジナリーラインを越えて上部の半円に侵入してしまうと、以下のようなことが起こる。

ところが、シーンの途中でカメラポジションがイマジナリーラインを踏み越えてしまうと、AとBが同じ方向を向いているかのように感じられ、「両者が向かい合っている」という前提が成立しなくなる。
※画像出典
逆に言えば、上掲画像2枚目の2コマ目と3コマ目だけを抜き出してみれば明らかなように、原則として“間違い”とされている180度ルールをあえて侵犯すれば、ダリの『ビキニの3人のスフィンクス』のようなダブルイメージを容易に作り出すことができる。

加えて、180度ルールを遵守しながらダブルイメージを見かけ上作り出すことも不可能ではない。イマジナリーラインを越えないギリギリの範囲でAとBの顔を可能な限り全正面で撮ればいい。おそらく『ドライブマイカー』の車中の対話劇はこれに近い手法を使ってどこにも存在しない無時間的な空間を生み出しているはずだ。背景を暗闇に沈ませて見えなくしているのは、背景の違いによってAとBの差異が露呈してしまうことを防ぐための、いわば上掲マンガの白抜きバックに現実空間を近付けるための工夫であるわけだ。
しかしそもそも、それが禁じ手であるとはいえ、映画におけるコミュニケーションを支える重要な柱であるカットバック技法がシュルレアリスティックなダブルイメージを現出させてしまうのはなぜなのか?それは、そもそもこの技法自体がアポリアとしてのダークサイドを胚胎しているためだと言える。
というのも、カットバックが使用される視覚空間においては、撮影時と上映時とで、異なる2つの体験性が生じているからだ。撮影時の現実空間においては、当然ながら、イマジナリーラインの水平線上にはAの身体の正面(顔)とBの身体の背面(背中)が並ぶ格好になっている。仮にカメラマンだけが有する特権的なポジションから眺めやったところで、両者の顔を同時に視界に収めることはおそらく不可能であるに違いない。いずれにせよそこでは、人間の背中側の感覚とでも呼ぶべき実在感が濃厚に漂っている。ところが、上映時の画面空間においては、カット繋ぎと編集の魔術によって距離の感覚や肉体の厚みが捨象されることで、Aの正面(顔)とBの正面(顔)がわれわれのまなざしの水平線上のポイントに再配置される形になり、無関係なはずの両者の存在は目鼻口耳から構成される同一の形態の差異=予めダブルイメージを内在した表象として立ち現れることになる。
後者の次元にあって、人間の背面(背中)は徹底的に排除され抑圧されることで、現にわれわれの目に見えている部分の不気味な影を形作っていく。“影(Shadow)”は、原作者である村上春樹が傾倒するユングの重要概念であり、村上との対談集を著作に持つわが国におけるユング研究の先駆者・河合隼雄はそれを「私に生きられなかった人生の半身」というように説明付けている(『影の現象学』)。つまり切り返しショットは、向かい合う2人の人間を、撮影時においては垂直ラインを軸とした鏡写しの一対として取り扱い、上映時においては、その時まではたしかに存在していたはずの半身を覆い隠すことによって、いわば映画の背中側に得体の知れない分身を産み落とす魔術的な技法なのだ。したがって、家福を背中側だけの自己の分身と対面させるあの巨大な姿見は、両者の対称性の軸としての垂直ラインの形象化であり、冒頭でそのようにして予示されていた切り返しショットが現出する終盤の車中のシーンに至って、影はついにはっきりとした像を結び、それ自身の顔を備えた不気味な分身として姿を現すことになるのである。本作の真の画期は、“分身を産出する鏡”としての切り返しショットの原理を、物語の自然な流れの中で完璧にパラフレーズした点にこそ見出されるべきなのだ。

家福(西島秀俊)と高槻(岡田将生)。
映画の中盤ほどに位置するこのホテルのバーのショットにおいて既に、暗闇の中でのドッペルゲンガーとの対峙が予示されている。
かくごとく、本作は、家福とみさきの関係(この2人もかなりダブルっぽいのだが……ユング風にあえて言えば、みさきは家福の中に眠る内なる女性=アニマか)に注目する限りは、巷間言われている通りの過去のトラウマとその救済をテーマに持つ作品だと言い得るのだが、家福と高槻の関係に注目した場合にはまったく異なる側面が浮かび上がってくる点に注意が必要だ。
たしかに、正面側の世界においては家福はみさきを救済し/され、高槻は暴力事件によって逮捕される顛末となるわけだが、しかし、高槻が世界の背中側に息づく家福の分身、あり得た人生のもう半分の可能性であることを思ってみれば、実はここで提示されている善悪の境界線は、ひどく脆い、容易に反転し得る危うい代物でしかないことがわかる。
つまり、『ドライブ・マイ・カー』は、家福=みさきラインが形作る親密さと堅固な同一性の枠組みを、家福=高槻ラインのよそよそしく不気味な違和が同時進行で揺さぶり続ける(しかも、後者の要素が前者に先駆けて登場する)、重層的な揺らぎと決定不可能性を内包した物語なのだ。
このような意味でも、ダブルにこだわり続ける濱口はアーバスにはない牛腸の特質をよく理解していると言えるだろう。
・牛腸茂雄とアンリ・カルティエ・ブレッソンのダブル〜モノクロームとカラーフィルムのダブル〜
といったところで、元祖ダブル・フェチの話に戻ろう。
牛腸茂雄の展覧会を京都で、と聞いて早速行ってきたのだ。
『見慣れた風景の中で』展 @ purple。
牛腸茂雄めっちゃ興奮した pic.twitter.com/7xRPOBp1yr
— 脱輪(沢渡輪太郎) @野生の批評家 (@waganugeru2nd) October 19, 2025
1979〜80年にカラーのポジフィルムを使って東京の街中で撮影されたスナップショット全47枚を収録した牛腸3冊目の写真集『見慣れた街の中で』を完全再現する展示で、牛腸のカラーポジフィルム作品が関西に来るのは初のことだそう。
現在においてさえ『SELF AND OTHERS』のモノクロ写真の印象が強く、異色な作風と受け取られたこともあってか、広告写真の撮影に使用されるカラーポジフィルムを芸術写真に気軽に転用するとはなにごとか!との批判も聞かれたらしい。


さもありなん。最初の2周ぐらいは僕も「へー、あの牛腸がこんな鮮明なカラー写真をねえ。まー異色作っていうか、急に真逆なものも撮ってみたくなったって感じなのかなー」ぐらいに気楽に構えながら見ていた。
ところが3周目に至って重大な違和感に気付く。
「ちょう待って、これも双子撮ってへん!?」

ひとたびそういう目で眺め渡してみると、双子を基礎とした多種多様なダブルが被写対象となっている点に気付いて愕然とする。




遠近感を割り引いた上でもなにか異様に小さく見える中央の双子と家族の関係が不気味で、その上双子はお揃いのマルチボーダーの靴下を履いている。
「こ、こんなところにペアルックを見つけるとは……!」という驚愕から改めて他の写真群を観察し直すことで、無数のダブルの存在を発見するに至った。
先にも書いた通り、差異を探求する間違い探しの楽しみを可能にするのは、枠組みとしての2枚の絵(複数の被写対象)の同一性だ。
その意味で牛腸は、“差異を産出する同一性”としての制服(uni-form=同一形態)に注目していたことであろうが予想される。



この時点でもう本連作が“街を行き交う人々の姿を何気なく撮り下ろしたストリートスナップ”などでは毛頭なく、極めて巧妙な作為に彩られたなかなかどうして侮りがたい作品群であることは明らかなのだが、ダブル・フェティシストの秘かな愉しみはこの程度では収まらない。
牛腸はさらに複数の被写体集団や写真同士を跨ぎつつ、さに高度で変態的なダブルイメージを紡ぎ出していく。


しかも、マルイのダブルと2組のカップル同士のダブルの距離はほぼ等しくなっている。
(これは「結局全部ダブルなんじゃね?」説を僕が提唱したら、一緒に盛り上がって間違い探しならぬダブル探しに付き合ってくれたギャラリーのお姉さんが発見してくれた👏👏👏)

ちなみに、こうした複数の対象の形態的類似においてダブルイメージを作り出す手法は、実は冒頭に掲げたモノクロ写真の中でも採用されている。画面上手で身を寄せ合っているカップルが双子のダブルイメージになっているのだ。
ここまで来るともはや恐怖だが、極めつけの恐怖がコレだ。

おそらくは第2子を妊娠中の母親と父親が第1子たる男の子をベビーカーに乗せて連れ歩いている様子。
ここでのダブルがベビーカーの乳児と母親のお腹の中にいる胎児のいわば潜在的な双子であろうことは、わざわざ父親の顔をフレームアウトさせてまで女性の腹部とベビーカーがほぼ平行になるように撮影していることから明らかだろう。これだけでもゾッとさせられるが、さらなる恐怖ポイントは、どうやら牛腸はこの潜在的な双子に生と死の両極を割り当てているらしいことだ。
お腹の中の弟が誕生=生を表すのに対し、既にしてこの苦界に産み落とされた兄の方の顔は真っ暗で……

いや死んどるやないかい!
他の被写対象の鮮明さと比べてみてもらってもわかるように、これは僕が意図的に暗く撮っているわけではない。本当に青白く真っ暗なふうに撮られているのだ!しかも目を閉じているところを首から下をチョンパして……まるで写真黎明期にダゲレオタイプで撮影された幼児の死体写真のようではないか!

最初期の写真術であるダゲレオタイプが発明された19世紀半ばの西欧では、まだまだ栄養環境も悪く、極めて短命で命を落とす子供が多かった。露光時間の長いダゲレオタイプはそもそも生者を気軽に写すには不向きだったこともあり、亡くなったわが子を永遠の図像に高めるための記録装置として使用されたのだ。
書肆ゲンシシャでは「永遠の命」展を開催しています。死体に服を着せ化粧をし、まるで生きているかのように見せる生と死の境界を曖昧にする死後写真の展覧会です。赤ん坊の亡骸を抱く母親のダゲレオタイプ、椅子に腰掛ける赤ん坊の遺体、恋人の死体を支える女性、横たわる少年の遺体の写真になります。 pic.twitter.com/xVS64EsCRR
— 書肆ゲンシシャ/幻視者の集い (@Book_Genshisha) February 20, 2017
これが深読みでない証拠に、上に飾られた別の写真作品を見てもらおう。

まずこの服のモノクロームと上部横断幕のモノクロームがダブル。
さらに横断幕が葬式用のものだとすれば、これもまた生と死の対照を表しているという読みが成り立つことになる。
そうすると、下にある先ほどの写真と合わせて生と死というテーマがダブルだ。
……おわかりいただけただろうか?
『見慣れた街の中で』連作全47点のうちのほとんどすべてがなんらかのダブルイメージを形作っているのだ!
したがってこのタイトルも、カラーポジフィルムによるスナップショットというお体裁も一種のブラフだと言っていい。
なぜならこれは気軽なストリートスナップでも和やかで大衆的な広告写真でもまったくなく、反対に、作家が自らのフェティシズム迸るままに撮り下ろした、隅々まで作為が張り巡らされた極めて人工的でマニエリスティックな作品群だからだ。そこへいくと、ちょうど連作の折り返し地点に置かれたダブルイメージを形作っていない代わりに、それこそ雑誌の広告写真のような「誰が見ても素敵な写真」になっている2点が、作家のフェチ大爆発な本質を隠蔽するための巧妙なエクスキューズであるように思われてくる。


おそらくは、見慣れた街の中に見慣れぬ違和感としてのダブルが立ち現れる瞬間をじっと待ち続けたであろう牛腸のスタンスは、実は「決定的な瞬間」が出現するタイミングを何時間でも待ち続けてシャッターを切ったという完璧主義の写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンの姿勢に近いものなのではないだろうか?

先に挙げたダリの『水面に象を映す白鳥』を思わせる、水面を鏡にしたダブルの出現のほか、様々なダブルイメージが隠されていることが指摘されている。
それもそのはず、ブレッソンは若き日にシュルレアリスムに多大な影響を受け、当初は画家を目指していたほどなのだ。
このように、恐ろしく根気強く執念深い制作背景を想像しながら再度眺め渡してみると、よくもまあ街中にこれだけペアルックの双子を発見できたものよなあ……ダブルとダブルがダブルになる瞬間を断じて見逃さぬ集中力凄すぎひん?など、驚き呆れつつ感動してしまった次第。
いやはや、生涯踊り子を描き続け、晩年失明して絵が描けなくなってからは手の感触だけを頼りに大量の少女像を作ったという印象派の巨匠ドガを思わせる凄まじいほどの執念だ。フェチ子の魂百まで、とはよく言ったもの(言わない)
だが、考えてみればダブルという主題は、現実の一部を切り取って忠実に複製する技法として出発した写真芸術の本質を成すものなのではないだろうか?事実、長年培われたメイクの腕と入念な下調べに基づくセット背景の制作、そしてなによりも写真術の魔術的な活用によって名画の中の登場人物に自らなりきる作品群によって知られる美術家の森村泰昌は、写真の本質が“ダブらかし”にあることを述べている。それは、現実の複製(コピー)を通じて現実(オリジナル)の存在性をたぶらかすものなのだと。19世紀後半の発明当初には、絵画には不可能な現実との強固な同一性を担保するための装置としてその役割を期待された写真術は、むしろ同一性の複製・分裂によっていっそう明らかになる差異を強調し、おもしろがり、時にその不完全さ自体を問題化する方向に発展してこととなった。そうした意味で、牛腸のごく私的なダブルへの偏愛は、その執着の徹底ぶりゆえにかえって写真というメディアのあり方に対する鋭い批評ともなり得ている。

氏は、名画の中の登場人物やその作者になりきる過程で得た実践的な知見をもとに旺盛な執筆・評論活動を展開してもいる。
とはいえ残念ながら、以上で提示した「『SELF AND OTHERS』の中に表れた双子のテーマ=牛腸のダブル・フェティシズムは、カラーフィルムを使用した『見慣れた街の中で』においても一貫して引き継がれている。というか、むしろ一見してそうとわかりづらいぶん、“病状”は深刻化していると言える(笑)」という見立ては、どうやらいまだ一般的な解釈となるには至っていないようだ。
それでは一般的な解釈がどんなものかというと、「牛腸らしからぬ自然体のストリート・スナップから構成された異色作」といったところらしい。んなあほな!
裏を返せば、ある程度の説得力を持ってむしろ正統的な解釈として示し得たことを自負する今回の説は、個人的には大発見と呼んで差し支えないもののように思えるだが、いかに(既に専門の研究者らによって何らかの指摘があることを期待したい)
大興奮のまた展覧会場を後にし、急速に冷え込み始めてきた夜の街に出る。
モノクロ写真と比べてとりわけ鮮明で遊び心たっぷりのダブルイメージが貫徹された本シリーズ『見慣れた街の中で』にあっても、やはり牛腸特有のあの揺らぎ、奇妙な謎かけを迫られているような居心地の悪さはかすかに残っている。
この居心地の悪さをしっかりと胸に抱いたまま、脊椎症カリエスの影響から短躯であったためにローアングルの写真が多いとされる牛腸の低い視点でもって、ダブルに満ち溢れた街の中を歩いてみることにしよう。
明日からはまた違った景色が見れそうだ。
✂︎------------------キリトリ線-----------------✂︎
後日、この展覧会を見に行った時のわいの写真をパープルさんが上げてくださっていた。
それはいいのだが自分でも信じられないほど満面の笑みを浮かべており、事務所的に笑顔NGなのでモザイクを入れさせていただいた。
(よつぽど楽しかつたのであらう
今まで生きてきて見たことのなひ脱輪の顔がそこにはあつた)

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