「閃光のハサウェイキルケーの魔女」④ シャア・アズナブルの正体:レッド・バロンの誇りと西郷隆盛の哀愁を背負う男。富野由悠季が描いた「敗戦国の呪縛」と『閃光のハサウェイ』へと続く革命の業とは?20世紀最大のアイコンを解剖!
シャア・アズナブルという男は、単なるアニメの悪役ではありません。彼は、歴史、政治、そして制作者である富野由悠季監督の「業(ごう)」が複雑に絡み合って生まれた、20世紀が生んだ最大のアンチヒーローです。
なぜ彼はこれほどまでに魅力的なのか。その背景にある「レッド・バロン」や「西郷隆盛」といった歴史的モデル、そして『閃光のハサウェイ』へと続く「呪い」の正体
1. 外的な象徴:レッド・バロン(ドイツの騎士道)
シャアを語る上で避けて通れないのが、第一次世界大戦のドイツ軍エース、**マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(レッド・バロン)**です。
* 「赤」の誇示: カムフラージュを捨てて機体を真っ赤に塗る行為は、「私はここにいる、逃げも隠れもしない」という強烈な自己主張です。
* 貴族的な戦い: ジオン公国がナチス・ドイツを彷彿とさせる意匠(軍服や階級制度)を持つ中で、シャアはその「エリート主義的側面」を象徴しています。
しかし、富野監督が描いたのは、単なる「赤い撃墜王」のコピーではありません。リヒトホーフェンが空戦の騎士道を重んじながらも近代戦の消耗の中で若くして散ったように、シャアもまた「古い時代の美学」を持ちながら、残酷なニュータイプの戦いへと引きずり込まれていく悲劇性を備えています。
2. 内的な精神:西郷隆盛(悲劇の革命家)
意外に思われるかもしれませんが、シャアの後半生の歩み、特に『機動戦士Ζガンダム』から『逆襲のシャア』にかけての姿は、日本の維新三傑の一人、西郷隆盛と強く共鳴しています。
* 指導者への推挙と逃避: クワトロ・バジーナとしてエゥーゴを率い、ダカール演説で世界を動かそうとした姿は、明治政府の重鎮としての西郷に重なります。しかし、両者とも「政治」という泥臭い世界に絶望します。
* 自滅的な蜂起: 西郷が最後、士族たちの不満を一身に背負って西南戦争を引き起こし、自決の道を選んだように、シャアもまた宇宙移民の絶望を背負って地球に隕石を落とそうとしました。
* 「死に場所」を求めて: 西郷もシャアも、民衆の期待という「重荷」に耐えかね、自らが作った時代のシステムに引導を渡すかのように、壮絶な最期を選びます。
日本人にとってのシャアの魅力は、この**「判官贔屓(ほうがんびいき)」を誘う、滅びゆく革命家としての哀愁**に根ざしているのです。
3. 富野由悠季の錬金術:なぜ「シャア」を生み出せたのか
富野由悠季という演出家が天才的だったのは、シャアを「大人の仮面を被った、救われない子供」として描いた点にあります。
人間的な「情けなさ」の全肯定
富野監督は、シャアを完璧な超人としては描きませんでした。
「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」
この『逆襲のシャア』における断末魔は、長年彼をかっこいいと信じてきたファンに衝撃を与えました。しかし、これこそが富野監督の真骨頂です。**「どれほど有能でカリスマ性があっても、その本質は愛を求める迷子である」**という真理。この圧倒的な人間臭さが、シャアを単なるキャラクターから、血の通った「実在する隣人」へと変えたのです。
自己投影と自己批判
富野監督は、シャアの中に自身の「知識人としての傲慢さ」や「若者に対する苛立ちと期待」を投影しています。監督が自分自身の弱さと向き合い、それをシャアという鏡に映し出したからこそ、彼はこれほどまでに多面的で、捉えどころのない、しかし目が離せない存在になったのです。
4. ジオンという「敗戦国の影」:ドイツと日本
ジオン公国は、ドイツと日本のハイブリッドです。
* ドイツ的要素: 科学技術への傾倒、全体主義、そして「選ばれた民」という選民思想。
* 日本的要素: 資源の乏しい小国が大国に挑む無謀さ、精神論への回帰、そして敗戦に向かう中で美化される犠牲。
シャアはこの「敗戦の記憶」を象徴するキャラクターです。彼は体制を憎みながらも、その体制が生み出した「赤い彗星」という虚像を演じ続けなければなりませんでした。この「役割を演じることの苦痛」は、現代社会を生きる我々にとっても強い共鳴を呼び起こします。
5. 呪縛の継承:『閃光のハサウェイ』
シャアの物語は、彼が宇宙に消えても終わりませんでした。その「呪い」を最も深く受け継いだのが、ハサウェイ・ノアです。
『閃光のハサウェイ』において、ハサウェイはマフティー・ナビーユ・エリンとしてテロリズムに手を染めます。彼はシャアの「地球を保全するために人類を粛正する」という思想の純粋な後継者であろうとしました。
しかし、シャアがどこか「華やかな舞台」で散ったのに対し、ハサウェイを待っていたのは、より冷徹で官僚的な死でした。
シャアという存在があまりに巨大な「理想の影」であったため、ハサウェイのような後の世代は、その影に押し潰されていく。「シャアになれなかった男」の悲劇を描くことで、逆説的にシャアの巨大さが浮き彫りになるのです。
結論:シャア・アズナブルとは何だったのか
シャア・アズナブルとは、「理想に燃える革命家」であり、「戦場にしか居場所がない孤独なパイロット」であり、「母性を求め続ける永遠の少年」です。
レッド・バロンの華やかさと、西郷隆盛の悲劇性。ドイツ的な冷徹さと、日本的な情緒。これら矛盾する要素を、富野由悠季というフィルターを通して「一人の男の苦悩」へと結晶化させたこと。それこそが、シャアが40年以上経っても古びない理由です。
彼は、私たちがなりたいと願う「英雄」の姿をしながら、私たちと同じように「ままならない現実」に足掻き、敗北していきました。だからこそ、私たちは彼を愛さずにはいられないのです。
