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出家という言葉から考える、生き方としての専心

「出家」という言葉から、自分の生き方について最近あらためて考えていました。


現在「出家」と聞くと、歴史上のいくつかのエピソードから
「俗世がつらく、耐えきれなくなり、逃げるように寺に入ること」
というようなイメージを持つのではないでしょうか。

私も、日本史を学んだり『源氏物語』を愛読したりするなかで「実際、そういう面はあったのだろうな」と想像しています。


ただ、同時に
「本質的に、出家とはそういうものだったのだろうか」
というような違和感も、ずっと心に引っかかっていました。


このエッセイは、2026年1月時点の梶間和歌の思索の記録です。
仏教史や日本史の専門家でもなんでもない、素人の立場から書き留めたものであること、ご了承ください。




出家という言葉から考える、生き方としての専心

「家を出る」こと

「出家」は「家を出る」と書きます。


単なる住居や家族を示す「家」を出ること、というより……

・血縁への帰属
・家業や相続関係
・社会のなかで割り当てられた役割

そうした諸々の「社会生活の枠組み」から、身を引くこと。

そのうえで、人生の重心を別の原理に置き直すこと。

それが、出家の本質だったのではないか。


その「別の原理」が、仏教においては仏道修行であった、ということだったのかな、と考えています。
つまり、仏教でない枠組みで考える「出家」、またはそれに似た概念もあり得るのではないか、と。


俗世のつらさから逃げるための手段

と出家を捉えることもできるし、
実際、物語上だけでなく歴史上にも、追い詰められたすえに出家を選んだ人も少なくなかったとは思います。

ただ、
「本質的に出家がそういうものだったわけではないのでは……」
という感覚も、私のなかで否定できません。


出家とは、敗北の結果や逃げの手段ではなく

人生全体をどこに差し出すかという判断、そして選択

であると考えるほうが、私にはしっくり来るのです。


和歌に専心する生き方との重なり

宗教関連の音声配信を聴いたり読書をしたりするなかで、私は、自分自身の生き方と重ねてこの「出家」の構造を考えていました。


私は和歌を人生の最上位に置いて生きています。

例えば、結婚や出産といった選択を、これまでのところしてこなかった。
さまざまな理由が絡み合ってのことですが、その理由のひとつに

「和歌よりも大切になり得る存在を持つわけにはいかない」

というものがあった、と自覚しています。

生活のための労働も、人生の中心には据えない。
アルバイトはしていますが、それは趣味としてのもの、また心を鍛えるためのものであること、いくつかの場面で明言してきました。

今後夕勤シフトには入らないという希望を最近会社に伝えたので、実質週1勤務になりそうです。
東京でのひとり暮らしを支える収入では、まず、ありません。


和歌をとおして心を鍛え、ものを見る目を研ぎ澄まし、この世界と向き合ってゆく。
そこに価値を見てくださる方からのご寄付で生活をする。
その妨げとなり得るものは、なるべく持たない。例えば、血のつながった我が子や覚悟をもって引き取る養子など。

そうした生き方は、精神構造として「出家」とよく似ている、と感じます。


異なるのは、

・対象が仏道ではなく和歌であること
・社会生活を完全に断ち切ったものとはいえないこと
・「この先この道に入ります」という儀式を伴わなかったこと
 (特定のある時点で和歌に人生を捧げると決めたことはないし、家族を持たなかったことは結果論である面もある)

けれども、

人生の重心をひとつの営みに定める

という点ではほとんど同じなのかな、と複数の宗教者のお話に触れるなかで思い至りました。


安全な場所から「本質」を語る

歴史を振り返ると、仏道に余生を捧げるためというより、生き延びるために出家したと見える人も数多くいました。

家を守るため、
離婚するため、
自殺という選択肢が倫理的に取れない状況下で、それでも現状を変えるため……。


これは主観に過ぎませんが、私には
「それは、出家という概念の本質からはズレるのでは」
と感じられてしまう部分も正直あります。


ただ、

私が「本質的には云々」と考えられるのは、比較的恵まれた時代と環境に生きているからこそである、

という自覚は、決して手放さないようにしたい。


さまざまな問題はありますが、どう考えても私の生きる現代日本は、鎌倉新仏教の生まれた(=求められた)中世日本より安全です。
女性ひとりで国内旅行をして大きな危険のあるほうが珍しい、治安大国ですから。

密教に切実なニーズのあった古代日本と比べて、疫病や出産で亡くなる人の人数も割合も、うんと小さくなりました。

(いずれも、ないとは言っていません。中世や古代よりうんとマシであるという意味)


安全な場所で生きる現代人には一見
「怠惰な信仰」
「安直な逃げ」
「本質的でない出家」
と見えてしまうものにも、それぞれに妥当性・必要性があったこと、

そうした部分を
それらを現出させた生身の人間の切実さを
忘れないようにしたい。


その自覚を持ったうえで、
それでも構造として考える。
安全な場所から。安全な場所にいるからこそ。


それは歴史を単純化することではなく、立体的に理解しようとする試みである、そうあってほしい――
そう思うのです。


おわりに

歴史上のさまざまな事象を現出させた切実さをいったん脇において考えるとき、

出家とは、現実逃避のための手段ではなく

人生の重心をどこに置くか、を自覚的に選択し引き受ける行為

と表現できるのではないか。

その妨げとなり得るものをできるかぎり排除し、和歌に人生を差し出す
という私の生き方が、その延長線上でいっそう腑に落ち、理解できた気がしました。


安全な場所から誰かを裁くためではなく、

安全な場所に生きるからこそ選択できる美や本質を、
ただそれができるから、
すべきだから、
することが美しいと感じられるから、
選択したい。

その恵まれた環境を自覚しつつ、選択し続けたい。
そして、その選択の純度を高めてゆきたい。


限りある人生において、人は自分の生をどのようにして、意味のある形で引き受けるのか。引き受け直すのか。

そういったことを、これからも考え続けたいと思います。
そのプロセスをあなたにも、ともに味わっていただけましたら、大変幸いです。


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この記事を書いた人

photo by ミカアンドロイド

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