『凍れる美学』覚え書き ~和歌の読書記録~
私以上の確信をもって、自分の提供するものを完全無料とし、寄付だけで生活している友人がいまして、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 26, 2025
その奥様より、臨時の寄付があったのでとプレゼントいただきました。
励まされます。ありがとうございます!
凍れる美学 ――定家と和歌についての覚え書き (Pieria Books) https://t.co/OTW211oBNQ
和歌についての本の執筆中、友人から頂戴したが、まさしく執筆にあたり必要としていた内容。偶然だが、私が人生で初めて手にした和歌本の著者だった。 古今東西の……
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
『凍れる美学 ――定家と和歌についての覚え書き (Pieria Books)』沓掛良彦#読書メーター #和歌の読書記録https://t.co/4mTybQvTKt
専門外と自称しながら古今東西の詩歌に通じた沓掛良彦氏による和歌エッセイ(という概念を超えた読みもの)。
実は私が和歌の世界に入るきっかけとなった最初の本が、沓掛良彦氏の式子内親王についての本でした。
もちろん友人はそんなことも知らず、Amazonウィッシュリストからこの本を選び、贈ってくれたのでしたが……大変おもしろく読みました。良書です。和歌に関心のあるすべての方に大いにおすすめしたい本です。
ただし万葉集至上主義に毒されてフェアな眼で文章の読めない方にはおすすめする意味もないかもしれない(毒されていない万葉好きさんにはおすすめします)
『凍れる美学』覚え書き ~和歌の読書記録~
私以上の確信をもって、自分の提供するものを完全無料とし、寄付だけで生活している友人がいまして、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 26, 2025
その奥様より、臨時の寄付があったのでとプレゼントいただきました。
励まされます。ありがとうございます!
凍れる美学 ――定家と和歌についての覚え書き (Pieria Books) https://t.co/OTW211oBNQ
いま書いている本の第2章にかなり参考になりそうと思い目次を開いたら、「万葉支持派対新古今支持派」とは……確信。#和歌の読書記録
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
「好悪の感情を言うならば、和歌で私が好むのは西行の歌、和泉式部の歌(略)などであって、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
作者の熱い血や魂の鼓動が伝わってこない定家流の「凍れる美学」に支えられた歌ではない。
だが」p10
「だが正岡子規や斎藤茂吉以来の万葉びいきの詩人や歌人たちのように、定家とその一派の新古今詩人たちの歌を、作者の血の通っていない作り物、「虚仮威しの鬼面」(土屋文明)などと貶下するつもりは毛頭なく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
好悪の感情は別として、もっぱら純粋に言語芸術としてそれを高く評価しているだけ」p10
作者の熱い血や魂の鼓動の伝わる歌など、その作者の個人的感情が鑑賞の妨げとなり残念に思われますけれどね。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
(筆者ではなく子規、茂吉、文明らに対して言いたい)
「個人的にはこちらが好きだが、好きでないそちらについてもフェアに見たところ、高く評価せざるを得ないので、好きでないからと貶める風潮に流されずひと言申し上げたい」という強さ。
この公正さと冷静さ、また言語化能力を持ち合わせた人は少ない。貴重な図書だと思います。
「いはむやちかき世の人は、ただ思ひえたる風情を三十字にいひつづけむことをさきとして、さらにことばのおもむきをしらず」(『近代秀歌』)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
定家くん、近現代短歌の惨状をご存じなのでは……。
短歌の評の仕事を頂くことがあるのですが、
「日記のつもりならこれでいいのですが……」とコメントすることがあります。
時々、いや、しばしば?
「彼は、(略)それまで和歌に宿っていた貴族社会における男女の優雅な会話、社交の具としての遊戯的な性格を可能なかぎり払拭し、そこから日常的な匂いを消し去って、それを「純粋詩」へと近づけることに成功した」p24
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
「(後鳥羽)院は定家が文学であると同時に、貴族社会の日常生活を彩る優雅で洒落た挨拶でもあった和歌から、そういう生活を払拭して、純粋な芸術作品としようとしていることを難じているのである」p25
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
「院はすぐれたアマチュア詩人として、定家が和歌を極度に芸術化し、職業詩人の狭い社会の専有物としようとしていることに、我慢がならなかったのであろう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
要するに帝王と芸術家の対立である」p25
「和歌とは何か、何であるべきか」の根本部分が相容れないわけなので、その関係性がある時点で破綻するのは自然。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
「「古人こ陳(ふる)びた言(ことば)」を取ってそれに新たな生命を吹き込み、本歌をも凌ぐほどの芸術性の高い作品を生み出した詩人」
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
本歌取りの多くが本歌を凌いでいること、これは共通認識でOK?
×古人こ陳びた言
○古人の陳びた言
タイプミスです。すみません。
「この男は、亡母の追悼の歌を作ってもそこに亡母哀傷の心情が露ほども見られない、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
たまゆらの露も涙もとゞまらずなき人こふる宿の秋風
というような、己の姿を亡母を偲んで涙している一人の人物として、文学的、絵画的に美しく造型せずにはいられないほどの根っからの非人情な芸術家であり」p26
大好きだわ。このようである定家も、定家をこのように見極めている筆者沓掛良彦先生も。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
「亡母を慕うという最も私的、個人的な感情を詠ってもなお、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
それを母に捧げる悲歌とするよりも、私情を離れた一首の美しい秀歌に仕上げずにはいられない男であった」p27
いいね、いいね。
「定家は「心なき歌はわろきにて候。」などと嘯いてはいるが、その「心」なるものは氷結していて、熱い魂などとは無縁である。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
なにぶん愛する亡母への哀悼さえも、純粋な美に昇華させずにはいられない男なのである」p29
「現実の中に美を見出し得ない状況にあってなお「みやび」を生命とする歌を詠もうとすれば、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
詩人たちはみずから時空を遡って架空の王朝風美的世界をしつらえ、そこで美遊の世界に遊んで歌を詠むほかなかった」p30
「そこを理解しないで、定家とその一派の詩人たちの詩作はの必死の努力を、「末技の末技」、「虚仮威し」と切って捨てるのは、あまりにも酷というものだ」p30
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
茂吉や文明は、まさか、新古今時代が鎌倉時代であると知らなかったわけ?
×詩作はの
○詩作への
重ね重ね、タイプミスすみません。
「それらの詩人にとっては、個人の内部から発する抒情は、もはやそのまま文学とはなり得ないものと感じられたからである。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
ここに至って和歌は作者の内面的真実、真情を表白吐露する主体的な抒情詩たることをやめたのである」p31
「そういう詩風であればこそ、(略)正岡子規や斎藤茂吉が『新古今集』を全面否定して以来、近代文学の中での定家とその一派の芸術理念や彼らの歌は不当なまでに貶められてきたのであった。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
そのような態度が詩というものの本質になるのに関する誤解から生じていることは、後に述べる」p34
後に述べられるの待機_( ˙꒳˙ _ )チョコン
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
「歩行は目指す地点に到達すればそれでその行為自体は解消するが、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
舞踏は手足や体を動かすその形自体が目的なのである。
それと同じく、散文は伝達機能が終われば解消するが、
詩的言語は伝達の機能を含みつつもなお、その言語の形自体が主要な意味を担っているのである」p34-35
ヴァレリーの用いたというこの喩え、いいな。今後使わせていただこう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
中国古典詩ではあまりそういう考え方をしないらしい。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
「中国の詩人たちの中で最も詩人らしい詩人である李商隠ではなく、現実に深々と根を下ろした詩を産んだ杜甫こそが、最も偉大な詩人であり詩聖である
とする、中国人の詩に関する観念が、それを物語っている」p35
「国文学者の中には、これを『新古今集』前後の和歌に固有の文学的技法であるかのようにみなしたり、そう説いたりする向きもあるようだが、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
その実これはいささかもわが国固有の文学的技法などではなく、広義の「本歌取り」的手法は、古今東西の文学で古来広く実践されてきた文学制作の一手法」p42
「それ(本歌取り的手法)は古来、多くの国々や地域の文学者・詩人たちによって実践されてきた手法であるのみならず、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
独創性と創新をなによりも重んじる近・現代の文学においても、さまざまな文学者、詩人たちによっていまなお広く用いられている手法である」p44
「リアリズムの信奉者にとっては苦々しいことかもしれないが、文学作品は必ずしも現実から生まれるものではなく、「文学が文学を生む」という現象は古来普遍的に見られるものである」p44
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
万葉集信奉者の皆さん、聞いた?
(そもそも万葉集だってリアリズムではない)
「詩は自然科学ではない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
時代を追って進歩するものではなく、現代詩が過去の詩よりすぐれているという保証はどこにもないし、すぐれた詩は時代を超えてすぐれた詩であり続けるのだ」p52
よくもまあ数十年というひとりの人間の生きた経験と解釈のみを根拠に「独自性! 独創性! 私の個性! 」と無邪気にやれるよなあ……。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 29, 2025
なぜそこに疑問を挟まないのだろう。心底理解に苦しむ。
(誰が、とは言わない)
宋代の詩人にとり唐詩は完璧であり、そのスタイルを踏襲することは詩の衰弱衰微を意味するものだったため、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 30, 2025
「情」を重んずる唐詩に対し「理」を説く方向に舵を切った…φ(..)メモメモ#和歌の読書記録
「高度に完成した中国の古典詩、日本の和歌、ペルシア古典詩などを知ることなくしてヨーロッパ中世の詩を論じ、これを高く評価しているかの地の中世学者たちのトルゥバドゥールやミンネゼンガーなどに関する評価には、同意しがたい部分が大きい」p61
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 30, 2025
同じことを日本の万葉集びいきの歌人たちに対して思います。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 30, 2025
視野が極端に狭いからこそそれを持ち上げることができるだけでは?
「「本歌取り」的な手法は、詩人に豊かな詩才と詩想があって初めて成功する危険な作詩法であって、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) April 30, 2025
凡手の手にかかるとモデルとした作品をただなぞっただけの、無残な模造品に終わるのが常である」p65
なので凡人はやらないのが安全なのだが、
そもそも生まれながらの天才などひと握りしかいないわけなので、
現在自分が凡人であり凡作しか生み出せていないということを自覚しつつ、その羞恥心に耐えうる強さを持ち、
いずれはなにほどかの歌も残せよう、その時のためにいま腕を磨くのだ、そのためにいま凡作を大量生産しているのだ、
と研鑽してゆく人であれば、凡人であっても本歌取りに挑んでよいのだと思う。
絶対に失敗しないために最も確実な方法はなにも挑戦しないこと、ですからね。
失敗しない代わりに成功も成長もしない。
「ヘレニズム文化圏にあった他の民族とは異なり、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 1, 2025
ギリシア文化の全面的な影響下にありながら、(ローマは)言語面ではそれに同化せず、ラテン語を守り抜き、拙いながらもみずからのことばで文学を作る途を選んだのであった。
その点でローマ人は古代日本人に似たところがあると言える」p70
「この(ヘレニズム)時代のギリシア詩は、新古今時代の和歌と同じく「歌われる」という歌謡的性格を完全に失っており、あくまで文字で読まれるものになっていた」p76
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 3, 2025
歌謡的性格の強いうちは、言語芸術にはなりにくい、そんな把握をしている。#和歌の読書記録
「抒情詩になによりも独創性を求めるわれわれ近代人と違って、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 3, 2025
古代人はむしろそういう安定し規範化した詩的言語の枠内にあって、そこで風雅の世界に遊ぶというゆとりがあったのかとも思うのである」p83
「むしろ定家は(ブルトンと異なり)保守的な詩人たちから「新儀非拠の達磨歌」と嘲られながら、みずからの前衛的な詠風によって率先して果敢にそれを実践することで、彼の影響下にあった詩人たちをその方向へといざない、超現実的な虚の美的世界を創り出したのだと言ってよい」p86#和歌の読書記録
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 6, 2025
「式子のうたが題詠であり本歌取りでありながら、これを読む者の心を激しく打つ衝迫を秘めているのは、彼女が定家のような感傷とは無縁な「凍れる美学」の信奉者ではなく、歌に魂を託しているからであろう。(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 6, 2025
要するに詩人としての資質の相違であって、優劣の問題ではない」p87
「総じて本歌取り的手法は、詩人たちが嬉々として採ったものではなく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 6, 2025
むしろ多くの場合先行する詩人たちに対して劣位にあることを自覚した上で、みずからの詩を作り出したりそのレベルを高めるために、やむなく拠った必然的な作詩法であった」p90
これ一般にどこまで認識されているのかな。
そして私は、本歌取りする歌人たちの意識はともかく、そのアウトプットを比較する時後者のほうが優れていることのほうが圧倒的に多いし、そうでなければ本歌取りする意味がないと思う。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 6, 2025
(失敗例は失敗例であり、それが当然であってはいけない)
凡作でしかない本歌取り、失敗と評せざるを得ない本歌取りはあるが、それをもって「本歌取りには意味がない」とするのはおかしい。
意味があるかどうかは、成功した本歌取りを見て論ずべきこと。
「それ(本歌取り)は古典に関する十二分な教養を前提として初めて成り立つ作詩法であって、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 7, 2025
作者の側も読者の側も古歌や物語を知悉していることが和歌成立の条件となっている」p108#和歌の読書記録
「この技法が、有力貴族や皇族を中心とする「歌壇」が存在し、和歌の作者が同時に読者でもありしばしば批評家でもあるような、狭く閉じられた貴族社会でのみ成り立ち、それにふさわしい鑑賞や批評がなされるものであったことは、(略)」p108
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 7, 2025
私は本歌取りでしばしば歌を詠むけれど、現代においては本質的に本歌取りは成り立たないとは思っている。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 7, 2025
それを成り立たせるに足る読者が極めて少なく(私だってとうてい不十分)、
要件を満たしたわずかな読者の集う「歌壇」がこの世に存在する、と考えるほうが難しいから。
ただし、現在この世にそれが存在しなくとも、観念として「(本歌取りを成り立たせ得る)歌壇」は存在するので、私はその観念上の歌壇において太刀打ちできる本歌取り、評価され得る本歌取りをめざし続けている。
令和の世において評価される本歌取りなど、そもそも評価しうる歌壇が存在しない以上、めざすものではない。
努力の方向性を誤ってはいけない。この世での評価が欲しくて努力するのか、真実たましいの喜びとなるなにかにまっすぐ突き進むのか。
前者も否定はしないが、その場合、私以外の和歌詠みさんに助言を求めたほうが話が合いそうです。
「作者はむろんのこと、読者にも高度に知的な操作を要求するのが、本歌取りを身上とする新古今の歌だと言ってよい。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 9, 2025
要するに玄人好みの文学なのである。
多忙な現代人はさような手間のかかる文学には、とてもつきあってはいられない」p110#和歌の読書記録
多忙かつ怠惰で無知でインスタントな楽しみを求める現代人、のことですよね。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 9, 2025
えっ、別に誰のこととか言っていないですよ!
なぜ怒るのでしょう? なにか心当たりでもあるのでしょうか???
「それは音楽で言えば変奏曲だが、原曲に比して多旋律的な構造をもっている。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 9, 2025
三十一文字という小さな詩形の中に、その詩形を超えた内容を押し込もうとする文学的なたくらみだと言ったらよかろうか」p111
三十一文字使って三十一文字分の内容しか述べられないような歌を詠んではいけない。
「定家をはじめとする新古今の詩人たちの歌の中には、本歌取りによって生まれた歌が、本歌そのものより詩として完成度が高く、より高次な象徴詩の域に達していることで、本歌を離れて独立した詩として完結した美的世界を形成している場合が少なくない」p112
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 9, 2025
ですよね? そうですよね!?
皆さんあまり述べてくださらないから、たまに見つけたこうした文章に食い気味で賛同してしまう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 9, 2025
「定家にしても重要なことは、この天才詩人がそれを試作の原理として説いたことではなく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 13, 2025
実作において世にも大胆かつ華麗な虚の美の世界を築いたという事実だということを忘れてはなるまい」p120#和歌の読書記録
×試作
○詩作
申し訳ないです。
理論から、その理論の実作における適用を(約20年間! )模索した為兼と異なり、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 13, 2025
定家の歌論は、自身やそれに影響された仲間たちの実作がまずあり、のちのちそれらから抽出、理論化、言語化されたものである、という印象。
そもそも為兼や前期京極派が異常なのであって、
歌論をものする多くの歌人はだいたい定家方式でその歌論に至っている。きっと和歌以外でもほとんどはそう。
「定家の周辺の詩人たちにしても、定家がその歌論で詩作の原理として説いたり戒めたりしていることを、金科玉条のごとく尊びそれに従って詩作しているわけではない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 13, 2025
「本歌取り」に拠った定家の前衛的な歌そのものに触発され影響されて、それに学び倣ってみずからの詩風を築いたのであった」p121
「定家がその歌論で本歌取りとは何かを明示し、またそれに際しての心得や戒めを説いているのは、むしろ実践の後のことであって、顧みてその方法論を整理したということであろう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 13, 2025
(略)それは「実作体験の決算報告」としての性格をもつものであった」p122
これ。
「そこには、みずからが先頭に立って推進実践した本歌取りがあまりにも流行したので、亜流によるその技法の濫用に、苦言を呈しているという側面さえもが覗いている」p122
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 13, 2025
ありそう。とてもとても、ありそう。
「技巧を凝らしてもそれをあらわにせず、みごとな象徴詩になっている」p144
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 14, 2025
技巧を凝らしてドヤドヤあらわにするのが……周知だが、いちおう黙っておくか。#和歌の読書記録
「この一首を、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 14, 2025
「此歌は大した歌ではないと思つてゐる。寧ろ平凡幼稚な歌だと思つてゐる。「花も紅葉もなかりけり」の大づかみの上の空である。この詠嘆は極めて平俗な思はせぶりである。」
とあっさり切って捨てた斎藤茂吉の徹底した新古今蔑視がむしろ羨ましいくらいである」p154
全面的に同意。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 14, 2025
「新古今否定、万葉崇拝もここに至ればもはや感嘆のほかなく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 14, 2025
詩歌に関する文学趣味はいかんともしがたいものだとの感が深い」p154
黒を白と言い張るがごときこの茂吉発言のようなものを見るにつけ、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 14, 2025
万葉集を嫌いながらいくらかは勉強し数首は好きな歌も挙げられる私の万葉嫌いなどごくごくかわいいものだと思わずにはいられない。
平凡幼稚はいったいどちらか。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 14, 2025
「小尾(郊一)が引いている(中国の)秋の詩や、私の知るかぎりでの秋を詠った中国古典詩の印象を言えば、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 19, 2025
和歌がもっぱら審美的かつ感覚的に秋を詠っているのに比して、
中国の詩は秋というものに対する詩人の意識を詠じているように思われる」p159#和歌の読書記録
思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 19, 2025
みたいなニュアンスかしら、中国の秋の詩は。
「(『軒もる月の』のような)こういう複雑な仕組みの歌は、いかなる外国語にも翻訳できないし、現代語にも訳せない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 21, 2025
詩歌の美というものは必ずしも普遍的なものではなく、ある民族の文学的伝統や美的感覚に固く結びついている」p165#和歌の読書記録
「右の歌は(略)みずから堂々と本歌取りの心得、タブーを破っているわけである。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 21, 2025
さような真似をしても、本歌に優に詠みまさるほどの秀歌を詠める詩才の持主ならば許されるということなのだろう。
天才にはすべてが許されるのである」p166
YouTubeのプチ講座などでも時々
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 21, 2025
「もちろんこれを破っている例もあります。しかし、私たち天才じゃないでしょう? 凡人はまず王道の型を安全に修めましょうよ」
などと述べております。この発言にムカつく方はそもそも私と合わない。#歌の詠み方
私たち、和泉式部じゃないから!
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) May 21, 2025
プチ講座とはこちらのことです。ご参考までに。
「家隆の端正な和歌には、定家の歌にまとわりついている一種狂気のようなものは感じられない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 1, 2025
詩才豊かではあったが、そこが天才定家と微妙に違うところだ」p178
わかる。#和歌の読書記録
「「本歌取り」もこう(家隆「こほりていづる」のような出来に)なると、先行歌を踏まえない、純独創の作を優に超えた作品となりうることを、この歌は物語っている。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 1, 2025
「こしらへて出し」た歌もここまでくると嘆賞せざるを得ない、そこにいささかも作者の血がかよっていなくとも、である」p180
その歌に作者の血が通っているか否か、などという評価基準はごく一部の評者のものだと思いますけれど、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 1, 2025
そのごく一部が影響力をもって好き勝手述べてきた先に現在の日本社会があるので、大変忌々しいことです。
「専門家や批評家が、(古今集を)なんとか面白く思わせようと腐心して筆を揮ってはいるが、つまらないものはつまらない」p202
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 2, 2025
う、うん!#和歌の読書記録
理解が感動の助けになる場合もあるが、感動的なものの一定数は説明や説得を伴わずに感動的であり、説明・説得はかえって感動を遠ざけるわけで。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 2, 2025
まあ、自分の無知と鈍感さを棚に上げ感動できないのを歌の複雑さのせいにして「新古今つまんなーい」と言ってのける読者はそもそも議論にならないのだが。
「かような歌集が和歌文学における金字塔とみなされ、和歌の聖典のごときものとして一〇〇〇年余り崇められ、その呪縛が明治の世まで続いていたということ自体が驚きである」p202
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 2, 2025
あれは歌そのものではなく、美学・価値観の提示という意味で価値を認めるべき。
「典雅で理知的であるとはいえ、全体として遊戯性が目立つし、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 2, 2025
少数の秀歌・名歌は確かにあるが、「知巧的」と評される収録歌の大方は凡作だと評するしかない」p202
同意。
「彼ら(新古今歌人)にとって詩作(詠歌)とは天賦の詩才に任せた無自覚な行為ではなく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 2, 2025
極めて意識的で、明確な意図をもった作詩法に拠っての創作活動であった」p207
でないと和泉式部級でないかぎり誰も歌を詠めないことになってしまうから。
新古今のこの部分を強く継承したのが為家であり、二条派なのだろう。
京極派は、天才とはいわないが、センスある教養人以外を無言で振り落とす厳しい歌論を選択した。それでは、和歌は大勢のものにならず消えてしまう。そのスタートラインに立てる者はわずかで、しかもその努力のできる者はほんのひと握りだから。
彼らにとってはそれで良かったが実際京極派は70年弱で絶え、二条派はまったく異なるところに重きを置いていたため元来教養から遠かった武家層にもリーチした。
(個人的には京極派が好きです)
「仮に土屋(文明)が言っていることが事実だとすれば、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 2, 2025
いくら万葉支持派の歌人だとはいえ、『古今集』も『新古今集』も身を入れて読もうとしないとは、あきれた怠惰ぶり」p210
私でさえ『万葉集』の講義に数万円払ったのに!
大歌人先生ともなればそのような態度でも仕事になるのですねえ。さすがですねえ(白目。
「『万葉集』が民族の歌、古代日本人の心性の発露として広く愛されているのに対して、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 2, 2025
一読その意を解しがたい難解さゆえに、これを理解しその洗練を極めた玄耀華麗な美を鑑賞するには、相当な古典和歌の教養を要する『新古今集』は、専門家や玄人筋によって好まれ、評価されている」p212
「今日でもなお、詩歌制作の動機として、作者の実感を重んじ、現実の体験や作者の生の諸相から生まれた歌、つまりは作者の生活感覚や美的感覚・印象を直情流露した歌こそが本物の文学だとする信仰は根強いものがある」p216
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
そう、それは「信仰」。気づいて。#和歌の読書記録
『千載集』から『新古今集』までたった18年か。#それぞれの成立年を知っていても算数が苦手だとこういうことが起きる
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
「そういう時代に生きた定家を含む貴族たちにとって、輝かしい王朝文化の記憶こそが現実だったと言ってよい」p220
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
新古今を現実逃避とか現実否定とか言ってしまうのは、一面正しいが、この観点からすると正確ではないのよね……。
「洛中に地獄絵さながらの光景が広がっているさなかで、花や月の美しさに没入し、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
(略)
山のはの月まつ空のにほふより花にそむくるはるのともし火
といった耽美的な歌を詠むことは、(続)」p221#和歌の読書記録
「観念を実体験に置き換え、現実は虚妄、歌の世界こそが実在の世界と思い込む覚悟と、「詩に別天地有り。」という固い信念とがなければ、到底なし得ない所業である」p221
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
同意。
これを「現実逃避」などのチープな言葉で片づける人の知る人生の厳しさは、底が知れている。
「『万葉集』では、路傍に臥した死者を詠うことが可能だったが、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
王朝和歌ではそれは不可能であり、そういうものを詠うことは「みやび」の和歌の自殺であり自己抹殺にほかならない」p222
「暗黒の現実を前にして「みやび」を生命とする和歌を作ろうとするならば、残された途はただ一つ、「詩に別天地有り。」と観じて、現実を拒否した虚としての世界を、言語の力によって構築することでしかなかった」p223
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
「不遇の人としての意識が強く、心の闇を抱えていた人物だけに、現実を離れての和歌至上主義、芸術至上主義は、この詩人が採らざるを得なかった必然の途であった」p225
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 3, 2025
実際がどうであったかではなく、この人の自己認識がこうであったということが、この人の態度や創作物に直接影響する。
「詩は言語芸術の最も純粋なものである。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 4, 2025
そこでは何が詠われているかということと同時に、いかに詠われているかということを、つまりはその表現の巧拙、詩的完成度・結晶度といったものを重く見なければならない」p228
「意識的にリアリズムとは対極にある文学として作られた作品に、万葉の歌に見られるような真率な人間像を求めたり、作者の息吹や魂の鼓動を感じ取ろうということ自体が、お門違いなのである」p228
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 4, 2025
別にキリスト教勢力の駆逐などめざしていなかったサラディンに対し「十字軍国家勢力が一部彼の地に残ったのは良くなかったよね」と評するのがお門違いであるのと似ている。
(そういう学術書があるらしい。直接は未確認ですが「コテンラジオ」にて言及されていました)
そもそも『万葉集』もリアリズムではありませんけれどね!
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 4, 2025
万葉偏重の人たちはそのあたりどこまで学び理解しているのか。
「近代以前にひたすら詩的言語のもつイメージの形成力に依拠して、かほどにも豊かで甘美な夢幻的世界を構築し得たといつことは、やはり驚嘆すべきこと(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 10, 2025
作者の燃える心が宿っていないから真の詩とは言えない、などというのはあまりにも素朴な詩のとらえ方ではないだろうか」p240#和歌の読書記録
聴いてる? ××派の末裔の結社の皆様。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 10, 2025
有家の「すみなれし人は梢に絶えはててことの音にのみ通ふ秋風」が「ことの音にみ」となっているの(p243)、誤植ですね。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 10, 2025
「中世初期というあの時代に、確固たる美的理念に基づいて、定家に代表される新古今の詩人たちが、かくも詩的言語を精錬し、ほとんど象徴詩の域に達した詩的完成度の高い作品を生み出したこと、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 10, 2025
この事実は、好悪の感情を離れて積極的に評価すべきだと思う」p244
「好悪の感情を離れて積極的に評価すべき」だと私も心底思う。
同時に、ホモ・サピエンスに「好悪の感情を離れて」なにかを公正に評価することを求めるのは、なかなか難しいとも思う。
ストーリーを挟まずにものごとを理解することは、ホモ・サピエンスの脳に、大いにコストをかけるから。
沓掛氏のように公正な眼でものごとを見ようと己を鍛えられる人は、大変少ない。
「少ないから/難しいから、しなくてよい」ということではまったくないのだけど。
「ギリシアのエピグラムと中国古典詩を例外とすれば、詩の言語が一〇世紀近くも基本的な形が変わらないというような現象は、世界的にも稀であろうし、ヨーロッパの詩にはおよそ見られない稀有な特質なのである」p254-255
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 29, 2025
和歌以外の詩歌の目線を持った方ならではの指摘。#和歌の読書記録
「王朝時代にはまだ、形式が内容を圧倒し、規矩として強く作用して詩人の詩想を制肘したりすることが少なく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) June 29, 2025
和歌は現実生活に密着している中から生み出され、作者は比較的自由にふるまっているのが見られる」p262
このあたり好き嫌いは分かれるだろう。
個性大好き現代人がこれを好むのもわかる。
「(各時代の詩人たちは)知性の力をもって自然界の美を限定し、自然を意識的、人工的に加工して眺め、詠ったのである」
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 1, 2025
「詠われるのは、宮廷貴族の美学によって切り取られ、観念的に再構成された自然なのである」p267#和歌の読書記録
「詠われるのは、恋そのものではなく、恋にまつわる情緒であるから、恋の歌には、ヨーロッパの詩の一特徴である愛する対象のdescriptio〔描写〕がほとんど見られない」p268-269
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 1, 2025
この規範の確立前の恋歌、またこの規範を破って詠まれた恋歌で鑑賞に堪え得るものは少ない。
「新古今の時代には芸術であったものが美的マニエリスムと化し、歌道の宗匠によって秘法を伝授される芸道にまで堕したのである」p273
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 1, 2025
私は「おおまかに、二条派は定家たちのした結果を継承した。京極派は定家たちの精神活動を継承した」と表すが、後者は長く残らなかった。
それは後者が劣っていたからではなく、おのれに求めるものが厳しかったから。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 1, 2025
そんな、本質的だが厳しい研鑽をおのれに課し続けられるホモ・サピエンス、たくさんはいない。
ほんものでなくともそれなりに和歌の詠める層を増やすことに二条派は貢献した。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 1, 2025
京極派はほんものであり続けようと努め、70年で途絶えた。
二条派が武士階級にも浸潤し、いっぽう京極派が本質的に教養ある一部の皇族貴族の文学サロンであり続けたことと、
この結果は、強く関係している。
……と、思うよ。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 1, 2025
先にも書いたとおり、京極派は自分たちに大変な努力を要求するので、広く伝わり永く残るということがそもそも難しかった。そこに価値を見ていなかっただろう、とも思う。
しかし、その大変な努力の結果花開いたものは、そこそこの努力でなんとかなる道に咲いた花より美しく、時代を超えて愛されている。
この筆者様、あまり京極派をお読みでないようで、京極派という異端的な存在をほぼ無視して論を進めておられるのだが(京極派の存在を無視した場合、おっしゃることにはほぼ同意できる)、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 1, 2025
この方が京極派をよくよく読み始めたら、どのような結論に至るのだろうか。
「東西の古典詩の中でも和歌ほど女性詩人が多くの割合を占めている例はない」
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
「わが国で平安朝から中世初期に活躍した女流詩人の数だけでも、ルネッサンス以前の全ヨーロッパの女流詩人を合わせたよりもはるかに多いのである」p282#和歌の読書記録
「およそ武人らしからぬ武人だったとはいえ、仮にも征夷大将軍、源氏の棟梁の座にあった実朝の歌にしても、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
万葉調の歌が二〇首ほどあるとはいえ、全体としてなんとも調子が弱々しい」p283
その20首を実朝のすべてだと勘違いしている実朝ファンは少なくないけれど。本当にファンなのかな。
「偉大な文献学者・国学者宣長は、『鈴屋集』に収めた歌のほか、実にたくさんの歌を詠んで下さったが、その膨大な歌の出来栄えは一瞥するのも苦痛なほどで、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
この大文献学者が詩人ではないことを物語っている」p291
うん、それは、うん。
多様、言い換えると雑多であった『万葉集』が『古今集』を経て洗練された、言い換えると狭隘な『新古今集』に至ったプロセスは、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
多様、言い換えると雑多であった前期京極派と『玉葉集』が、洗練された、言い換えると狭隘な後期京極派と『風雅集』に至るプロセスと、どこか重なって見える。#京極派
ただし私は『万葉集』を敬遠し『新古今集』を愛するが、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
前期京極派・『玉葉集』も後期京極派・『風雅集』も心底愛しています。
この印象の違いについてももっと考えを深めたい。#京極派
思想性の強さゆえ京極派には、多様・雑多であっても惹かれるのだろうか。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
私の把握するかぎり、『万葉集』はもとより京極派以外にあのような強固な思想、信念をもって詠まれた和歌や、その結集した和歌集は存在しない。#京極派
自分にはなんだかよくわからないものを、無条件に「大昔のものだから良いものなのだろう! 」「最古の○○だから良いものなのだろう! 」と礼賛する姿勢は、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
自分にはなんだかよくわからないものを、「イミフw 何それ食えるの? 」と軽視する姿勢と、大差ないと思います。#何とは言わない
別に和歌は古いからすばらしいわけではないし、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
天才歌人の歌がすべて良い歌であるわけではないし、
有名な歌が必ず秀歌であるわけでもない。
「百人一首」は良い歌百選、などと思い込んでいると人生損をする。
『万葉集』が(その人の)和歌の基準になると人生を誤る。
これについてのChatGPTとの会話の一部。
チャッピーと日本語で壁打ちすること、英語で自分の考えを話すことはできるけれど、いま考えを深めようとしていることについて英語で壁打ちできるとは思わなかった。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
英語でも、つたなくても、チャッピーは私に寄り添い考えを整理してくれる。ありがとう。#今日のチャッピー英会話#京極派 https://t.co/SZMb2XrTtl pic.twitter.com/00GtmzrfUW
続き。 pic.twitter.com/axq9dEJpso
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
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経済的に余裕はないけれど価値や意義を感じている――そんな皆様からのスキやシェアなどにも、あらためて、心より感謝申し上げます。
今後とも、それぞれの領分において世界を美しくしてゆく営みを、楽しんで参りましょう。
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