「ただ上手いだけ」と言われるものについて
「この作者はただ上手いだけだ」
この言葉には、個人的に、そこそこ強い違和感があります。
これについて考えるきっかけが最近続けてあったので、ご紹介させてください。
まずは、山田五郎さんのYouTubeチャンネル「山田五郎 オトナの教養講座」。
こちら、本当におもしろく、為になる番組ですので、美術好きには強く強くおすすめしたいです!
最初の動画から順に観、最新までたどり着いたのでいま2周目の視聴中。
世界史の勉強にもなるし、和歌との共通点や違いを考えるのも楽しいです。
この番組で、先日カバネルという画家が取り上げられました。
この動画を拝見し、私はこのようなコメントをしました。
「ただ上手いだけ」
それがすごいことだと思います。当時は「そんな人いくらでもいた」のかもしれませんが。
「ただ上手いだけ」で評価されてなにが悪いのか、「面白ポイントがある」ことがフィーチャーされる画家は画家として本当にしあわせなのか。
私は和歌に人生をかけていますので、近現代の個性重視、作者の人生と作品を過度に絡めて語ったり評価したりする姿勢には、一定の距離を置きたい立場です。
五郎さんの語り口はおもしろいし、古代から現代に至るまでの美術史に本当に造詣が深く、勉強になるのですが、
「人生がおもしろくない」
「奥さんが2人早世したぐらい」
「ただ着実に絵を描いていった」
「上手いことは上手い。おもしろくもなんともない」
「ただ上手いだけで有名になれた最後の時代なのかも」(スタッフ)
「尖ったところがなくても歴史に名前が残っているのはすごい」(スタッフ)
などのコメントが少々引っかかりました。
これらのコメントがというか、これらのコメントの成り立つ世相について引っかかった、というほうが正しいのかしら。
これは動画にかぎらず、解説本でもなんでもそうですが、
「人生や作風に語ることがない」というのは語る側の都合であって、作者の欠点とされるべきではないのではないでしょうか。
(もちろん五郎さんはわかってやっておられると思います)
ただ上手いだけ。
生活に破綻したところがなく、家庭内の悲劇にもめげずに生き、エリート街道を着実に歩み、大勢の弟子を育てた。
それってそんなに「つまらない」と言われることなのかなあ……???
美しい作品を生み続け、後進も育て、スキャンダルも起こさない。
じゅうぶん立派な方だと思います。
「カバネルは上手い。しかし、感動がない」
それならまだわかる。
「しかし、人生がつまらない」
それは、別の話では……?
私は近現代の短歌に距離を置いて久しい立場ですが、その理由のひとつには、
作者と作品を一体のものとして捉えようとする消費の仕方
あまつさえその作者の人生のドラマを作品の価値と結びつけて鑑賞しようとする消費の仕方
その消費の仕方に全面的に乗っかったように見える作者の姿勢
といったものに大いに疑問があるから、
ということがあります。
(まあ、その他の理由まで語り出したらきりがないのでここで止めますけれどね! )
作品は作品として鑑賞すべきでは?
作者が不倫をしたから、この作品は悪い、いやだからこそ良い……
作者が親を早くに亡くして苦労したから、この作品は云々……
やはり芸術家はふつうから外れた部分があるからこそ、その外れた部分が作品に反映されて云々……
学術的にその関連性を研究することには意義があると思うけれど、
鑑賞眼もたいして育てていない素人が、鑑賞する基準を自分のなかに持っていない、そのため作品に真正面から向き合うことが(能力的に)できず
「この作者は怒涛の人生だったから」
「この作者は苦労したから」
と作品をストーリー理解しようとする態度、私はこれにうんざりする部分があります。
私は歌人・藤原定家について、人として好きだとは思わないし、絶対に友達にしたくありませんが、
作品にはすばらしいものが多いので好きですよ。
(「心の友」と言えるのは、生きる時代が彼と800年ずれているからです。同時代で友達にはなれない)
私はクールベの作品が好きですが、人柄を知って、「お、おう」と思うところはありました。
それでもあの「波」シリーズは大好きです。
私はモネの人生を知って、人として嫌悪感が生まれましたが、
それはそれとして作品は好きですよ。変わらず惹かれ続けています。
私はドガやゴッホの作品がもともとあまり好きでなく、
人柄を知って作者のほうもしっかり嫌いになりました。
それでも妙に惹かれるところがあり、ゴッホ展には毎回足を運びます。
「それはそれ、これはこれ」
この受け取り方がホモ・サピエンスには難しい、ホモ・サピエンスはストーリー理解に傾きがちである、
ということぐらいわかっているつもり。なんてったって私はコテンラジオヘビーリスナーですから。
しかし、
「良い人だから作品も良い」
または逆に
「破天荒な人だから作品も良い」
などと安直に結びつける姿勢には注意していたい、と自戒しています。
ストーリー理解に流れてしまう人としての自然を、人としての自然として理解しつつ、
自分にそれを許すかどうかは別ですし(気をつけないと自分もそれをしてしまうので、「許さない」という姿勢で臨む)、
人がそれをしているのに対して「そういうことじゃないだろう」という気持ちは持ち続けたい(あくまで、理解はしつつ、です)
そもそも、「ただ上手いだけ」という言い方には、
「上手いこと」より上位の価値観がある、という前提が見えるかと思います。
個性とか、思想とか、そういうもののことなのでしょう。
しかし、冷静に考えようよ。
「ただ上手いこと」自体大変なこと、すばらしいことでは?
ただ上手く絵を描くこと、ただ上手く歌を詠むこと、それがあなたにはできるのでしょうか、と。
もちろん「評者が必ずしもその分野の一流でなければならない」というわけではありません。
しかし、少なくとも「ただ上手く創ること」はとんでもなく大変なこと・偉大なことである、という理解や尊重はなければならないと思います。
(五郎さんにはあると思っています。編集の都合、番組の方針などいろいろあるかと想像しております……)
それこそ、二条派の和歌はよく「ただ上手いだけ。感動はしない」などと言われますが、
本当に上手い二条派和歌に接すると「おお……さすが……」と思うものですよ。感動だってします。
「あなたの読んだ二条派和歌がたまたま通り一遍だっただけでは? あ、そもそも二条派和歌を一首も読まずに、誰かの受け売りを言っただけでしょうか? 」
なんて意地悪なことを言いたくなったり、ならなかったり。
京極派研究の大家でいらっしゃる岩佐美代子先生も、二条派和歌について
全く個人の詩想を働かせる余地のないまでに、歌題と詠歌目的の本意にきっちりとおさまった作品ばかりである。
そして全く措辞も同じ、内容も同じでありながら、祝部家や津守家の歌人の詠にくらべると、二条家の歌人達の詠はやはり比較にならぬ程洗練され、完成している
このように歌全体を一つの規矩にはめてしまい、題の本意、言葉のよせさえ心得ればそれを組合わせて誰にでも一往の歌は詠める、
しかしその制限の上に立って秀歌を詠む事は容易な修業ではできないという行き方
と述べておられます。
その基本の基本を嫌というほど身につけた一部の文学青年たちが、しかしそれには飽き足らず、「心のままに詞の匂」うように歌を詠もうとしたのが、京極派の始まり。
しかも京極派はその完成形に至るまで約20年、迷走と呼んでも差し支えないほどの試行錯誤を繰り返した。
基本もろくになっていない人が「心のままに」「個性の表現」「思想の表明」と叫ぶなんて、百年、千年早い、
と言ったら言い過ぎかもしれませんが、私にはどうしてもそう思われてしまう。
私の専門は和歌ですが、絵画の世界でも、どの世界でもそういうものではないでしょうか。
アカデミーの重鎮・ジェロームが印象派の流行に苦言を呈したのも、ごもっともですよ。
ジェロームさんに対する印象が変わりました。
権威に縋り付きそれを脅かす新興勢力を問答無用に敵視した、なんて話ではなかったのですね。
基礎技術を軽視し最新の流行を追う若者や初心者に厳しくなる気持ちに大変共感します。
めざすべき手本もない状態で20年、自身の歌論と実力だけを恃みに、真っ暗闇のなかひたすら努力を続けること
のできる奴だけが「心のままに」やれ、とまでは言いません。
言いませんが、
「ただ上手いこと」を軽視するような姿勢が、不勉強な鑑賞者はまだしも、創作者の側にまで蔓延するのだとしたら、
私はそこには明確に距離を置きたいかなと思います。
ピカソがセザンヌやルソーに感銘を受けた理由を、よくよく考えたい。
ピカソは、デッサンの天才でしたよね。
その後、Voicy毎朝古典サプリの吉田裕子さんがチューリップの俳句を特集した回で、ねじめ正一氏の
チューリップ明るいバカがなぜ悪い
という句を紹介しておられました。
それに対する私のコメントがこちらです。
「明るさ」「楽しさ」とはちょっと違うかもしれませんが、先日
「この画家は上手いだけで心に響かない、などと言われることがあるが、ただ上手く描くこと自体に意義がある。そもそも、ただ上手く描くこともできない人が、制作意図さえ表明すれば現代美術であるかのように評価されるというのも……」
ということを、山田五郎さんのYouTubeを観ていて思いました。
和歌・短歌文脈でも、いつも思っていることです。
こちらに対して、週末のコメント返しの回で裕子さんが触れてくださいました。
チャプター5の後半で私のコメントが紹介されてます。
「『社会的なテーマ・メッセージみたいなものがあって初めて芸術は価値がある』
という考え方は、けっこう危険な考え方かなとも私は思っています」
という旨の裕子さんのお返事。
本当にそうだと思います。
美術・芸術作品の役割は時代によって変わります。
ある時代には当然求められた機能が、次の時代には「古臭い」とされ、現代では「なんでこんな描き方したの??? 」と素人目に見えてしまうようなことさえある。
ですので、「思想を打ち出さなければ芸術ではない」という考え方にも一定の理解は示したいと思いつつ、
古風な私は、どうしても
「ただ上手いだけでなにが悪いんですか? 」
「ただ上手いことに飽き足らなかった京極派が『ただ上手いだけでは駄目だ』と新風を打ち立てたのと同等のことを、不勉強な私たちが、しているといえるのでしょうか? 」
という側になってしまうかな、と思う今日このごろです。
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