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津久井やまゆり園事件から10年によせて 「みいちゃんと山田さん」アニメ化について考える



はじめに

障がい者施設の入居者が凶行の犠牲となったあの凄惨な事件から、昨日でちょうど10年が経った。
記事を書くにあたり、まずは犠牲となった方々、そして今もなお癒えない悲しみの中にいらっしゃるだろうご遺族の皆さまに、深い哀悼の意を表したい。

事件が起きた10年前、まだ次男コウは産まれておらず、私は自身がやがて障害者の母になるとは思いもしなかった。
それでも、事件の悲惨さに眉をひそめ、けっして許されるべきはない事件だと感じたものだ。

「みいちゃんと山田さん」とは

やまゆり園事件から10年目に当たる節目の年に、事件の起きたまさにその日、「みいちゃんと山田さん」という漫画のアニメ化が発表された。
この作品のヒロインのみいちゃんは障害のある女性で、作品のあらすじは『夜の街で働くみいちゃんが殺されるまでの12か月の物語』。作者の亜月ねねは、みいちゃんがどんな種類の障害を持っているかは明言していないが、彼女が知的障害者であることは作中の描写から察せられる。

みいちゃんは話が通じず、社会性がなく、性的にだらしなく、我慢も努力も苦手――と、ひたすらに「問題のある人物」「トラブルを起こす人物」として描かれている。
これを読んだ一部の人は、「障害者のリアルが描かれている」と感じるようで、作品のコメント欄には障害者を笑ったり嫌悪したりする言葉が並ぶ。
そしてネットでは、このヒロインの名前が、話の通じない相手を「お前、頭がみいちゃんかよ」などと馬鹿にするためのミームにもなっている。
賛否両論の問題作である。

アニメ化にあたり懸念される点

この問題作をアニメ化するに当たり、当然、出版社も制作会社も、障害というデリケートな問題を扱うことに覚悟が求められるはずだ。
個人のアングラ制作などと違い、企業は社会に対する責任を負っているからだ。
『表現の自由』はもちろん最大限に認められるべきだが、自由には責任が伴う。
作品のコメント欄にあふれる少なくない侮蔑の言葉を、制作側が知らないはずがない。
よりによってやまゆり園の事件の日に、制作にあたっての配慮やスタンスも明らかにせず、ただめでたいことのようにアニメ化を発表する。
企業に『覚悟』はあるのかという疑問のまなざしが向けられることは免れないだろう。

また、公式のXアカウントも過去にこのようなキャンペーンを行っている。

普段は可愛らしい絵柄で描かれているみいちゃんだが、そのみいちゃんを「現実」として醜悪なタッチで描いた『裸』の絵のアクスタを「当たり」として掲げ、「1/100の確率でリアルみいちゃんが当たります」と煽る。
そしてコメント欄には、このキャンペーンを笑いながら楽しむ人たちのコメントが並んでいる。

この制作会社や公式のスタンスを見て、誰が、「障害者について真摯に向き合った作品」が作られると期待できるだろう。「障害」が面白おかしく消費され、差別を煽る結果にならないかと心配の声が上がるのも当然だ。
アニメ化の発表がやまゆり園の事件の日に合わせてなされたのもインプレッション稼ぎのためだとすれば、怒りを禁じえない。

ネットで障害者差別に反対する声が上がると、「当事者家族の苦しみも知らないくせにきれい事を言うな」という(当事者家族でない人の)コメントがつくのをよく見る。
だから私は、最重度知的障害の息子を持つ「当事者家族」として、声を大にして言いたい。(もし「当事者の意見は客観的に欠ける」と思うのなら、前述の当事者以外の差別反対の声の方に耳を傾けてほしい)

障害を持って生まれた人間を、「生まれるべきではなかった」「生きる資格がない」と断じる声には、私は決して賛同しない。
障害がある人も、それぞれの生きる喜びや幸せを持っている。
障害を持つ息子を育てる苦労はもちろんあるが、それを差し引いてなお、息子が日々喜怒哀楽を感じながら生きている姿は愛おしい。

なぜアニメ化されるほどの人気作となったのか

そもそも、「みいちゃんと山田さん」は何故これほどの話題作になったのだろう。
それは、誤解を恐れずに言えば、人にとって基本的に差別というのは楽しいものだからではないだろうか。
誰かを差別すれば、その誰かに比べて自分は優秀だと思える。
社会から排斥される誰かを見て、自分のいる場所のありがたみを感じられる。
少数派の悪口を言うことで、自分は多数派だという立場を再確認し、同じ多数派の人と仲間意識を深め合うことができる。

差別って楽しい。
大声で差別的なこと、露悪的なことを言いまわって気持ちよくなりたい。
自分は人を虐げられる「強い側」の人間なのだと誇示したい。

ただ、差別は社会的には良くないこととされている。
人から「差別主義者だ」と後ろ指を指されたくはない。

そこに、格好の『言い訳』を与えてくれたのが「みいちゃんと山田さん」なのではないだろうか。

みいちゃんは馬鹿だから、人に迷惑をかけるから、優しくしたところでそのありがたみがわからない人間だから、ひどい目に遭ったって仕方ない。
彼女が悲惨な目に遭う様子を見て笑ったっていい。
実在しない人間なんだから、悪口を言って笑いものにしたっていい。
私は、ああならなくてよかった。
「こちら側」の人間として、「あちら側」の人間が滑稽に苦しむ様を見世物にして楽しもう。

そんな人の汚い心を満足させてくれるのがこの作品なのではないか。
ただ、この価値観に染まってしまうのは本当に恐ろしいことだと思う。
作品を見て笑うことと、下記のように思うことは、決して遠くない。

「障害者は、人に迷惑をかける存在だ。だから、差別したっていい」

そしてその考えの行きつく先が、やまゆり園の事件なのだろう。
そう思うと、改めて、よりによってやまゆり園事件の日にこの作品のアニメ化を発表することの醜悪さが際立つのではないか。

差別を助長することの何が問題か

繰り返し言うけれど、差別は気持ちいい。
それは私含め、誰の心にも眠る暗い部分だ。
けれど、理性ある人間として、社会に生きる一員として、その暗い部分には意識的に「NO」を突き付けていかなくてはならない。
そのスタンスは、ひいては自分自身のためでもあるからだ。

私は今のところ「たまたま」「運良く」健常者として生まれ、不自由なく生きてこられたけれど、明日にでも事故に遭って障害を負うかもしれない。
重い病を患うかもしれない、精神的な疾患に見舞われるかもしれない。
そのいずれもが自分や家族の身に決して降りかからないと、言い切れる人は誰もいないはずだ。
もし運よく事故や病気と無縁で過ごせたら、今度は時間が経って高齢者になる。
人はほとんどの場合、いずれ社会的弱者になるのだ。
そのときに、社会からどう扱われるか。
今の世の中が、社会的弱者に向けている態度が、きっとそのまま返ってくるに違いない。

だから私は、「差別心などかけらもない高潔な人間」としてではなく、「自分が幸せになりたい利己的な人間」として言う。

私が社会的弱者になったとき、殺されたくない。
社会から排斥されたくない。
侮られ、笑いものにされたくない。
「おまえが『良い弱者』なら手を差し伸べてやるが、『悪い弱者』なら見捨てる」と、上から目線で評価され、選別されたくない。
いつ自分が『悪い弱者』にされてしまうのか、怯えながら生きたくない。
ささやかな喜びを感じて生きている、一人の人間として尊重されたい。

「そうは言っても、もし周りにみいちゃんみたいな問題児がいたら、その子を愛して受け入れるのは無理だと思う」と言う人もいるだろう。
それならば、個人としてその人を嫌いになり、距離を置けばいい。
健常者同士の人間関係であっても、「あの人とは合わない、あの人が嫌い、あの人と一緒に仕事をしたくない」など、他人に対して思ったことのない人はいないはずだ。
それと同じように、「あの人のことを嫌い」と思えばいい。
一個人に対する好悪の問題を、「障害者」という属性の問題にするべきではない。
「あの人を嫌っても仕方のない言い訳」の拠りどころを、障害者差別に見つけようとすると、心は恐ろしい方向に向かっていくと思う。

おわりに

先述したように、表現の自由は尊重すべきだから、頭から「この作品をアニメ化するべきではない」と断じることはしない。
ただアニメ化にあたり、これだけネットで懸念の声が上がっているのだから、どのような志で、スタンスで映像化を決めたのか、作中の障害者差別を助長しかねない描写にはどのように配慮するのか、監修はどうするのか等の声明はあるべきだろう。
なんとなく話題になっている作品に目をつけ、「障害」というセンセーショナルな題材で耳目を集めようとしているのだとしたら、企業としての社会的責任を軽んじていると言わざるを得ない。

企業に対して、私のような無名の人間の声など雑音のひとつでしかないのはわかっている。
それでも、小さな声だろうと、きれいごとだろうと、私は何度でも繰り返して差別には「NO」と言い続ける。

なぜなら、
障害を持つ人々が社会の一員として認められてほしいから。
次男に、迫害されることのない幸せな人生を送ってほしいから。
そして、いずれ社会的弱者になる私自身が、心安らかに暮らせる世の中であってほしいからだ。

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