創作大賞応募作品| 寧々 《第2話》
《第2話》 冤罪
鉄道が好きだという理由だけで、鉄道会社に勤めてはいけない。桐生透哉は、つとに思う。
2039年、1月。都内地下鉄某駅。
どうやら外は、雨が降っているらしい。階段から吹き下りてくる冷気を含んだ風は、地下構内で行き場を喪失し灰色の壁に衝突するかのようにして力尽き消えた。
駅という場所は、吹き溜まりである。清浄な空気が循環することはない。それに引き摺られるようにして堆積していくのは人の思念であり、そこはまさに混沌と表現するに相応しい。
利用客だけではない。そこに勤務する自分の精神もまた、吹き溜まりである。
列車に乗り遅れたからといって、駅員のせいにするな。列車が遅延したからといって、唾を飛ばして野次を吐くな。携帯を線路に落としたからといって、ホームの非常停止ボタンを押すな。酔っ払って、駅のベンチで寝るな。嘔吐するな。吐くなら、帰宅してから吐け。
胸の内で吐いている罵詈雑言を一言でも漏らせば、即クレームの嵐となり厳重注意の処分が下るだろう。どうか、蓋が外れないことを願う。
「まもなく3番線に列車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ちください」
ホームに響く自分の声。機械音声となんら変わらぬ無機質な声。人、人、人。通勤ラッシュ。人の渦。赤色旗を片手に、透哉は思う。自分はこの光景を「傍観者」の視点から眺めるのが好きなのだ、と。
視界を埋める寒色の群れ。黒、灰色、紺。色彩に乏しく一様に地味であり、暗澹として鬱屈としている。着用する人々の表情もまた同様に、乏しい。憂鬱そうなサラリーマン。眠たげにあくびをかみ殺す大学生。幸福そうな人は皆無であることに、何故か安堵する。
囚人の行進だ、と透哉は自らの思いつきに可笑しくなった。整然と並んだ囚人は、これから身動きすることすら憚られる「列車」という名の狭い狭いハコに閉じ込められるのだ。ご愁傷様。
♦︎♦︎♦︎
甲高い女の声が、ホームに響き渡った。
まだ少女とおぼしき女性の声。痴漢、という単語が列車の走行音に紛れて聞こえた。続いて、違いますと釈明する上擦った男の声。こちらも透哉の想定に反して、若い。
天を仰いで、呪詛の言葉を吐きたい気分になった。大股で歩いて、透哉はその場に居合わせた男性の乗客が取り押さえている「痴漢」と弾劾されている男に近づいた。
「駅員室で事情をお聞きしますので、ご同行いただけますか?」
── 大学入試共通テストの明日は、絶好の痴漢日和。
この時期になると必ずSNSに書き込まれる、下劣な文面である。試験に遅刻するのを恐れて被害に遭った女学生は必ず泣き寝入りするから、と。
投稿した本人が痴漢行為を行うとは限らない。いやむしろ、犯罪を唆して自分は高みの見物の可能性のほうが高い。問題は、それに触発されて実行に及ぶ人間が存在することである。
死ねよ、と透哉は思う。地獄に堕ちろ。地獄に堕ちて、閻魔さまにでも去勢してもらえ。
鉄道警察も手をこまねいているわけではない。普段の倍以上の人数を動員して警戒態勢を敷いている。自分たち駅員もまた協力関係にあるのは言わずもがな。大学側は被害者に対して、再試験の救済措置を取ると明言している。
可能な限りの対処はしている、と警察は言いたいのだろう。ただ、それでも……。罪を犯すことを躊躇しない人間がいる限り、犯罪を未然に防ぐことはできない。人の悪意を抜本的に根絶することなどできない。
少しは考えろ、と言いたい。
試験当日に痴漢の被害に遭えば、この日のために懸命に頭に詰め込んだ英単語も数式もすべて吹き飛ぶだろう。性欲の捌け口にされた恥辱に、筆記用具を持つ指先は震えるだろう。所持している能力を存分に発揮できず、日頃の努力の集大成を台無しにされるのだ。
だから、死ねよとしか思えない。
腕を掴んで駅員室に連行している男が、若いなと思ったのは事実である。固定観念と言われればそれまでだが、透哉が想定していた中年男性ではなく、青年……いや、もしかしたらまだ10代の少年かもしれなかった。
「あの、すみません……。僕、急いでいるんです」
傍らから、気弱そうな声がした。憔悴した口調とは裏腹に、告げている内容はずいぶんと図々しい。急いでいるから何だ?見逃せとでも?
あえて、視線は向けなかった。少年の切実な訴えを完全に無視して、透哉は腕を掴む力を更に強くしようとした矢先だった。
一瞬の隙を突いて、少年が逃げた。改札方向に逃げると思いきや、ホームドアに向かって突進する。線路に飛び降りるつもりだ。だが、彼の身長より若干低い程度のホームドアは容易には乗り越えられない。すぐに捕まえた。
「おまえ、線路に飛び降りたりしてみろ。痴漢だけじゃなくて、威力業務妨害の罪状も追加されるからな」
口調がかなり乱暴なものになったのは、否めない。そのまま駅員室に連行して、強引に押し込むようにして少年をパイプ椅子に座らせた。
「うわー、乱暴……。いくらなんでも、やりすぎじゃない?」
先輩駅員の秋月柊生の姿がそこにあった。色素の薄い髪。女性と見紛うような顔立ちをしている。軽薄そうな口調は、いつものことだ。眉を顰めて、透哉と少年に交互に視線を送っている。
「こいつ、線路に飛び降りて逃げようとしたんですよ」
「前言撤回。線路侵入を未然に防ぐとは良くやった」
途端に、柊生は態度を一転させた。駅員として懸念することは同じである。通勤ラッシュの時間に線路侵入だけは勘弁して欲しい。この過密ダイヤの時間帯に列車が停止すれば、ホームに人が溢れて阿鼻叫喚の地獄になる。
「あの、すみません!僕、いったいいつになったら帰してもらえるんでしょうか?本当に、もう行かなきゃいけないんです」
少年は、今度は柊生に向かって嘆願を始めた。柊生は首をすくめて、少年を見つめる。その眼差しが不意に少年の背負っているリュックの一点に向けられた。
「そう言われてもねー。ここから先は鉄道警察さんにお任せだからねー」
そんな会話をしているうちに、鉄道警察隊が現れた。管轄エリアが鉄道であるというだけで、警視庁所属であることに変わりはない。法的権限も同様である。紺色の制服姿を視界に入れた少年は、いよいよ切羽詰まった表情になったが、時既に遅し。
「冤罪……だろうな。あの子、多分やってないだろうね」
悲痛な声をあげる少年の背中を見送りながら、柊生は呟いた。
「何故、そう思うんです?」
御守りだよ、と柊生は口の端だけで笑う。
「リュックに学業御守りがついてた。試験当日に痴漢なんてする受験生がいるわけないだろ」
リュックにぶら下がり揺れていた水色の御守りが、脳裏に浮かんだ。文字までは見えなかった。何故学業御守りだと言い切れるのか、と反論しかけて閃いた。
水色の御守りに施された梅の刺繍。梅の花、天満宮、菅原道真、学問の神様 ……。
「ま、訴えがあればテッケイさんに引き渡すのが我々の仕事だからね。個人の事情を汲んでいる余裕なんてないし。あとは、車両搭載の防犯カメラに何が映ってるか。あの子の掌から女性の衣服の繊維片が検出されるかどうか。いずれにしても、我々の出る幕じゃないよ」
顔色を変えた透哉の肩を、柊生はポンポンと労るように叩く。慰めてくれているつもりらしい。そして、おまえってさあ……、とさも可笑しそうに告げた。
「仕事に無気力そのもので、定時運行も安全管理も興味ありませんって顔してるのに、なんで痴漢撲滅に対しては、そんなにムキになるわけ?」
男に恨みでもあるの?と、柊生は訊いた。
