長編小説|Another Horizon #06
【第2部】 #06 アナザーホライズン
航太の視界には、見渡す限り一面の白銀の世界が広がっていた。
雪ではない、塩の湖。ウユニ塩湖。
南米ボリビア、アンデス山脈が貫く山岳地帯に存在する世界最大の塩の湖。その標高は3700メートルと、日本の最高峰である富士山に匹敵する。
決して容易に辿りつける場所ではない。日本から北米の都市を経由して、首都のラパスまで約30時間。そこからさらに起点となるウユニの街まで夜行バスで一晩は優にかかる。高速道路など整備されていない。アスファルトさえ敷きつめられていない悪路を行くバスに揺られて、ようやく辿りつく。
『世界の果て』と表現しても過言ではない、その絶景が航太の眼前に広がっていた。
翔太郎がVR空間上で提供するプラットフォーム、『Another Horizon』
ジャンルで括るなら、旅行にカテゴライズされるだろうか。自室に居ながらにして、VR空間に没入することにより、世界中を旅することができるサービスである。
翔太郎が世界中を自らの脚で旅して、撮り溜めた映像。当時かなり高価だった360°撮影可能な高画質カメラで記録した画像で構築された世界。その世界に、航太はモニターとして一番最初に招待されたのだ。
17歳、高校2年の夏の出来事である。
「……翔太郎?どこにいる?」
どこか心細さを感じさせる、自分の声。
VRゴーグルを着用してログインした瞬間、航太はランドクルーザーの後部座席に座っていた。隣に、すぐそばにいると言ったはずの翔太郎の姿はない。
ここにいるよ、と至近距離から声がした。
運転席に腰かけた翔太郎は後部座席を振り向いて、ゆっくりとサングラスをはずす。好奇心に満ちた少年のような眼差しをした、当時29歳の彼の姿がそこにある。
「ようこそ。『Another Horizon』の世界へ」
「なに、かっこつけてんの」
航太の白けた口調を聞いて、翔太郎は悲嘆するように運転席のハンドルに突っ伏した。かっこつけてみたかったんだよ、と言って。
正直に言って、サングラスをはずす仕草はさまになっていた。なっていたが、認めたくない。
助手席においで、と翔太郎に促されて、航太は席を移動する。
翔太郎は、よく見かける有名登山用品のブランドのウィンドブレーカーにカーゴパンツ、足元はトレッキングブーツとラフな格好だった。つばの広い帽子も着用している。ありふれた服装だが、航太の目には極めて旅慣れた人の服装に映る。
『Another Horizon』において、道先案内人を務める翔太郎が、アバターに設定している衣装だそうだ。今回のような自然探索の旅はこの服装で、ヨーロッパの古都を訪ねる旅などは黒のスーツを着用して客をガイドするらしい。
「お客さんに、サングラスはずして『ようこそ』ってやんの、やめたほうがいいんじゃない?チャラいガイドだ、って思われるよ」
やらないよ、と翔太郎は苦笑する。
「アナザーホライズンって、どういう意味合いでつけたの?」
「………もうひとつの、地平線」
それはただの直訳だろ、と航太は呆れる。
「現実だけじゃなくて……仮想空間にも、太陽が昇って沈む景色がある。その異次元に広がる新世界っていう意味で、俺は解釈したんだけど……。違ってた?」
その瞬間、翔太郎は驚いた顔で航太を凝視した。素晴らしいよ、おまえは……と、航太の頭をわしゃわしゃと撫でまわしてくる。
「お客さんを案内するときは、そう答えることにするよ。実のところを言えば、なんとなくかっこいいからつけた、というのが正解だ」
それが翔太郎だよな、と航太は思わざるを得ない。
かっこいい、と彼を誉め称える人間は多い。特に女は。しかし、一番そばにいる弟の自分には、そのかっこよさが皆目理解できない。かっこいいと形容される男の言動を、翔太郎は一切とらないのだ。硬派ではない、と言えばわかりやすいだろうか。
その人柄は、おおらかで飄々としている。かっこつけたところなど微塵もない。歳の離れた長男だけあって、しっかりしている……と思いきや、かなり抜けている部分もある。
「なんか、すごい……こぢんまりとした街だね」
ウユニ塩湖への起点となるウユニの街だと、翔太郎は説明する。
郵便局、銀行、食料品店、ホテル、旅行会社、街を構成するのに必要最低限のものだけがあるような印象を受けた。見るべきものはない、と翔太郎は航太の意見に同調する。
行こうか、と翔太郎はランドクルーザーのハンドルを握った。
ウユニ塩湖が見えてきた瞬間、助手席で文句を垂れている航太の姿がある。
「『天空の鏡』とか言ってさ、全然綺麗じゃないじゃん。白いっていうより、薄茶色って感じだし。翔太郎が前に見せてくれた二次元の映像は、たまたまうまく撮れたってヤツなんじゃないの?」
運転席の翔太郎が、視線を向けてきた。
文句の多い弟に、気を悪くしている様子ではない。むしろ、逆だ。これから起こる出来事を予見して、楽しみで仕方ないという表情。そして、口許に笑みを浮かべたまま、思いきりアクセルを踏みこんだ。
途端に、景色が変わった。薄茶色から白へ。そして、純白へ。
薄茶色の正体は土だ、と航太は悟る。沿岸部は土と塩が混ざりあっているのだ。塩湖の中央部へと車を進めるにつれ、白さは純度を増していく。
そして、水が現れた。
僅か5センチ程に、薄く張った水。世界で一番平らな土地。高低差のない凹凸のない土地。風が吹いてはならない。波ひとつたたない穏やかな水面。
そこまでの条件が揃ったとき、塩の湖は果てしなく続く蒼空を映す『天空の鏡』となる。
「すごい!翔太郎!…… 車が、空飛んでる‼︎」
そのときの感動を、とても言葉に表すことなどできない。
見渡す限り『鏡』なのだ。世界を構成する色は、白と青だけ。この世界から他の色彩が消えてしまっても構わないと思えるほどに、鮮やかな白銀と蒼穹。
ランドクルーザーは、どこまでも続く塩原を疾走していく。
翔太郎は前を見据えたまま、沈黙を保っていた。その瞳が満足そうな光を湛えていることに、航太は気がついた。
「外、歩くことって、できるの?」
あまりのリアリティーに忘れてしまいそうだが、ここは仮想空間だ。外を歩きたいという航太の要望を、翔太郎はあっさりと承諾する。
車が停まった。航太はドアを開けて、恐る恐る塩の大地を踏みしめる。宙に浮いてる感じになるのかと期待していたら、……ならなかった。自分の足元は鏡にはならないのだ。透きとおった水面の先に白い塩の地面が見えている。
それでも、思いきり走りまわってみたかった。航太は自分の願望に忠実に、バシャバシャと水音をたてながら走りだす。子供みたいだと思われそうだが、構うものか。
航太が顔をあげると、翔太郎も運転席から地面に降りたつところだった。どこか感慨深いような表情で空を仰ぎみている。
「翔太郎は、現実にこの場所に来てるだろ?それと比べて、どんな感じ?」
翔太郎はランドクルーザーに寄りかかって、苦笑する。
「いや、こんなに綺麗だったんだな、と思って……」
どういう意味だろうか。この景色を見て、綺麗だと思わない人間がいるのか。
「高山病だったんだよ。頭痛と吐き気で、息も絶え絶えでカメラをまわしていたからね。綺麗なのは承知していたが、一刻も早く低い土地に降りて高山病から解放されたかったというのが本音だ」
「旅するのも、楽じゃないんだね」
そうだな、と翔太郎は首肯する。
「この場所に辿りつくまでの行程も過酷だし。高山病にならなかったとしても、今のおまえみたいに走りまわるなんて危険なんだ。標高が高くて、空気が薄いからね。紫外線が強すぎて、大量の日焼け止めを塗りたくる必要があるし。地面からの照り返しで雪眼炎になるからサングラスも欠かせない」
実際に訪れた者ならではの苦労を、翔太郎は語る。そして、航太を見て笑った。
「そういう意味では、労せずしてこの景色を見れるおまえが羨ましいよ。ある意味、ウユニ塩湖という場所は、VRでの旅行に一番向いているかもしれないね」
そうだろうか、と航太は胸中で反論する。実際に、その土地を訪れることに勝る価値はないはずだ。それは得がたい経験ではないのか。
「苦労して辿りついたからこそ、得られる感動っていうのもあるんじゃない?」
翔太郎は苦笑して、生意気を言うなと航太の頭を小突く。
そして、もうひとつ案内したい場所がある、と告げる。『HOTEL DE SAL』 塩のホテル、と。
♦︎♦︎♦︎
「え、これ……全部塩⁉︎ ベッドもテーブルも?」
そうだよ、と翔太郎は頷く。そして、ホテルの白い壁を叩いてみせた。
「屋根はさすがに違うが……、壁も塩からできたレンガ状のものを積み重ねて造られてるよ」
へぇー、と航太は感嘆する。
( 舐めたら、しょっぱいのかな…… )
胸に疑問が湧いた瞬間には、もう即行動に移していた。壁に顔を近づけて舌を思いきり出している弟の姿に、翔太郎は意表を突かれたようだった。
「なんの味も、しないよ……」
翔太郎は、笑いを堪えている。まさか、壁を舐めようとするとは思わなかったらしい。
「仕方ないだろ、VRなんだから。味覚を再現できるようなデバイスが開発されれば、味もわかるのかもしれないが……」
「そっか。翔太郎は、実際に舐めてみた?しょっぱかった?」
「するわけないだろ、そんなこと。……そもそも、壁を舐めようなんて発想が出てこないよ。味がどうこう以前に、汚いだろ。塩って言っても、食卓塩じゃないんだから」
おおらかで大雑把なくせに、妙なところで潔癖だ。はいはい、と航太は聞き流して、勝手に部屋の外に出る。
宿泊者の歓談スペースだろうか。塩で作られたベンチにクッションが置かれている。そしてその中央には塩でできた、熊のぬいぐるみ……とは呼ばないだろう。木彫りの熊ならぬ塩彫りの熊か。可愛らしい熊の彫像が鎮座していた。
「おまえの考えてること、当ててやろうか?」
熊と見つめあっている航太の背後から、翔太郎の声がする。
「せっかくなら兄ちゃんとじゃなくて、可愛い彼女と来たかった。そんなとこだろ?」
うう、と航太は心のなかで呻く。図星だ。
このホテルそのものが、女の子が喜びそうな空間なのだ。塩で作られているだけあって、クリーム色の色彩で統一されていて、雰囲気が柔らかい。ファブリックも茶色を中心とした暖色系で纏められている。
「別に、そんなこと言ってないじゃん」
航太は一応、否定してみる。振りかえると、翔太郎が大仰に泣き崩れる真似をしていた。
「そうだよな……。航太も年頃だからな。歳の離れた兄ちゃんよりも、彼女のほうがいいに決まってるよな」
そして、翔太郎はあっさりと泣き真似をやめると、ベンチに座りこんだ。何かを思案するような素振り。……が、どこかわざとらしい。ベンチの肘掛けに頬杖をつくと、悪巧みをするときの顔で航太を見あげてくる。
「彼女と、ここに来るか?」
もちろん、ふたりきりで、と翔太郎は保証する。いいの?と問いかえす航太に、彼は当然と言わんばかりに頷いた。
「おまえに見せたかった景色は、他にもあるんだ。このホテルはウユニ塩湖の中央部に位置しているから、夕陽も格別だ。鏡張りになるから、上と下から夕陽が近づいてきてひとつに重なりあって沈むんだ。その後は、満天の星だ。宇宙空間にいるような錯覚を味わえる」
その景色は彼女と堪能すればいい、と翔太郎は告げる。ちなみに……、と翔太郎は突然、ガイドのような口調に切り替えてきた。
「お客さまの御要望があれば、このホテルの部屋をリザーブしておきますが、いかがなさいますか?」
VR空間なのだから、リザーブもなにもない。満室になるはずがないのだ。翔太郎の口調が揶揄する響きを伴っている。ただ景色を見るだけか。そのあとホテルに彼女を連れ込むのか。彼の言わんとしていることは、そういうことだ。
「…… お願いします」
航太は、渋々その一言を口にする。
「かしこまりました。部屋のタイプは、どうなさいますか?ベッドは、ダブルベッド、ツインベッドのどちらを御希望でしょうか?」
完全に、からかわれている。翔太郎は、揶揄するような笑みを隠そうともしていない。彼女とヤるつもりなんだろう?うまくいったら、兄ちゃんに感謝しろよ。翔太郎の心の声が聞こえてきそうだった。
突然、頭を撫でられた。ダブルだよな、と耳打ちされる。赤面して俯いてしまった航太を見て、いたいけな弟をからかいすぎるのは可哀想だと反省したらしい。
余裕綽々といった彼の態度が気に障り、航太は翔太郎の尻を思いきり蹴飛ばす。
あれ、と思った。かなり力を入れて蹴ったはずなのに、翔太郎はよろめかない。痛がる素振りもない。
VR空間だからだ、とすぐに理由を閃いた。背後から蹴ったから、翔太郎は気づいていない。触覚が再現されるのは、まず視覚で認識したことによる脳の錯覚なのだ。
そのとき、航太の心に浮かびあがってきたのは微かな忌避感だった。
♦︎♦︎♦︎
航太が高校生だった当時付き合っていた彼女の名は、茅野あかりという。
今現在の名字は知らない。知りたくもない。結婚して他の男のものになってしまった彼女と別れてしまったことを、10年経った今でも後悔している。
翔太郎のお膳立てのおかげで、彼女とともに時間を過ごしてきた。
地平線へと吸い込まれて重なりあうふたつの太陽。夜空に無数に煌めく星。標高が高く空気が澄んでいるから、見える星の数が桁違いだ。密集して競いあうように輝く。そしてそれを映す水面は、ひとつの小宇宙を創り出す。
そのあとは、紬に話したとおりだ。見飽きるまで景色を眺めたあと、塩で作られたベッドで抱きあった。現実の彼女の部屋に戻ってきてからも、実際に肌を重ねた。
まだ十代の男女の拙いセックス。聞き齧った性の知識を試すだけで、未熟な身体は快楽を拾う術を知らない。痛みを堪える彼女を気遣いながら、無我夢中で懸命に身体を繋げていた。
「ウユニ塩湖って、実際に行ける……?」
シーツに身を沈めながら、あかりが尋ねてくる。いつか、実際に行ってみたい、と。
「 ………… 」
翔太郎が、すごい行くの大変って言ってたよな。いや、そもそも南米までの飛行機代はいくらかかるのか。治安もかなり悪いはず。様々な懸念が、航太の胸を錯綜する。
このとき、彼女が欲していたものは、未来へと繋がる約束だったのだろう。
「いいよ。いつか、一緒に行こう……」
馬鹿な約束をした、と今でも笑ってしまう。率直に言えば、彼女の潤んだ瞳に負けたのだ。
果たされるはずのない約束。現実を知らない子供の、愚かで無邪気な夢。
このとき、航太が完全に失念していたことがある。問題は、南米までの距離や時間、それにかかる費用や治安の問題ではなかったのだ。翔太郎の見せてくれた世界は、彼が訪れた過去の映像をもとに構築されているのだ。
2037年、夏。ウユニ塩湖の『天空の鏡』は既に存在しなかった。
塩の湖の白い地面の下。そこには世界最大級とも評されるリチウムが埋蔵されているのだ。携帯電話、電気自動車、ありとあらゆる電化製品に必須とされるリチウム。その開発事業が停滞していたのは、皮肉にもあの絶景を作り上げていた『水』だった。
地球温暖化に伴い、ウユニ塩湖の降水量は極端に減った。水の張らない大地は、開発事業を促す契機となったのだ。ボリビア政府が南米の最貧国からの脱出を目標に掲げ、各国の企業が開発に名乗りをあげた。
世界最大のリチウム採掘場となったウユニ塩湖から、あの白銀と蒼穹の世界は消失した。
