創作大賞応募作品| 寧々 《第7話》
《第7話》 暗黒の思春期
透哉の眼前には、見てはいけないような……できれば見たくなかったような……シュールな風景が繰り広げられている。
俊さんと柊生が、添い寝しているのである。
まず、一晩飲み明かすと宣言した張本人である俊さんが潰れた。年齢には勝てなかったらしい。そのあとは、自分の許容量を考慮せずに無茶な飲み方をしていた柊生が。
フローリングの床に豪快に寝転んで鼾をかきはじめた俊さん。柊生は壁に寄りかかるようにして眠りについていたはずが、寝ている最中に移動してきて、気がつくと俊さんに擦り寄るような姿勢になっている。
ひとりで飲むことにも飽きて、透哉はスマホを取り出して、いつものルーティーンを完了させる。位置情報検索アプリ。寧々の現在位置を示すアイコンが、自宅を示していることに安堵する。
寧々は眠っているはずだ。だが、透哉には眠りは訪れない。よほど酒に強い体質なのか一向に酔いはまわらず、酩酊することもなく今に至っている。
酒は嫌いではないが、酒の席は嫌いだ。
仕事の話題ならまだ耐えられるが、女の話となると、透哉はその場から逃げ出したい思いに駆られるのである。理由は明白だ。恋愛弱者であるからに他ならない。
♦︎♦︎♦︎
恋愛ができなかったのではなく、恋愛をしてこなかったと思うのは、負け犬の遠吠えに聞こえるだろうか。
寧々に長い年月、懸想しているから。報われない思慕に身を焦がしているから。それもある。
はじめて性行為をした女は、12歳も歳上の女性だった。大学生のときに、バイト先の喫茶店で知り合った。小学生の女の子を育てている、シングルマザーだった。
歳上の女性が好みだったわけではない。ただ彼女なら、壊れないだろうという確信があった。
『Fragile』の札が貼られていない女性。
いやもっと率直に言うならば、既に汚れていそうな女性を選んだ。経産婦が汚れているなんて、今思えばとんでもなく失礼なことを考えていたと反省する。
『透哉くんは、女の子を傷つけるのが怖かっただけでしょう?まあ私だったら……、逞しいとか、頑丈だから、叩いても壊れないだろうみたいな、そんな感じ?』
彼女は複雑そうな、諦念を含んだ笑みを浮かべていた。
あの日、透哉はまだ9歳の子供だった。
寧々が学校に行かなくなり、合格していた高校への進学を取りやめ、部屋に閉じ籠るようになった。透哉が性の知識を得ていく過程は、「寧々がなにをされたか」の想像が具体的かつ凄惨になっていくことと同然でもあったのだ。
当然のことながら、透哉の性に対する認識は歪みに歪んだ。愛情と結びつけることができない。何故、同一の行為がふたつの側面を所有するのか理解できない。
『こいつさあー、女の裸にまるで、興味示さねえんだよ、おかしいだろ?』
今でも殺意を覚える、同級生の声。
あれは、いじめ以外の何物でもなかった。異物の排除。自分たちと同等の価値観を持たぬ者に対する粛清。『治療』と称して、透哉のスマホに大量のポルノ写真が送信されてきた。
巷に溢れるグラビアアイドルのものではない。同級生の女子の写真をAIで加工したものだった。即、削除した。送信した同級生のアドレスをブロック。すると、他の男子のアドレスから。
女の裸に興味を示さない ── 実際にそこまで潔癖な精神を保っていられたのなら、まだ救われただろう。あれほど自己嫌悪の感情に塗れることもなかっただろう。
『治療』は有効だった。同級生の女子には興味がなかったが、写真の女子の顔を、脳内で寧々に置き換えてしまった。下半身が反応した。欲望の赴くままに自慰をして、ベッドに突っ伏して嗚咽した。
自分はこのまま、堕ちるとこまで堕ちていくのだと。寧々に厭われる汚れた化物に成り果てたのだと。
思春期にありがちな苦悶と呼ぶには、深刻だった。それから脱却できたのは、シングルマザーの彼女のおかげでもある。
実際に肌を重ねて、愛情もしくは限りなく愛情に近いものを感じることができたのは、悪くなかったように思う。少なくとも、性行為が女を汚す行為という極端な価値観からは、抜け出せた。
♦︎♦︎♦︎
雀の囀る声が、微かに聞こえた。
朝だ。こんな都会にも雀はいるのか、と透哉は小さな感動を覚える。声の主の姿を一目見たくなって、ベランダに続く窓を開く。
降り注ぐ陽射しに、柊生が目を覚ます気配がした。床から起き上がり伸びをして、そして、うげっ!と悲鳴をあげる。
「なんで俺、俊さんに抱きついて寝てんの?」
眩しそうに目を細めながら、柊生は透哉の傍らに並ぶ。
「言っておきますけど。柊生さんが、寝てる最中に転がって俊さんに抱きついたんですよ。俊さんは、最初からあの場所で寝てましたから」
「うへー、そうですか。最初からって……、おまえ、一晩中起きてたの?」
眠れなくて、と透哉は告げる。
あの日、寧々が轢いてしまったという雀の死骸の話を思い出していた。雀の死骸と、生きている人間では重みが違う。根本からして違う。
「柊生さん……、轢いてしまったのって、子供ですか?」
静かに尋ねる。柊生が目を見張るのが視界に入ったが、怖気付くことはなかった。尋ねる権利も資格も自分にはあると、何故かこの朝だけは思えたのだ。
うん、そう……、と柊生は頷く。
「その駅、ホームドアが設置される寸前でさ。その子供……男の子だったけど、自殺じゃなくて事故。友達とふざけてて足を踏み外したのか、突然飛び込んできて防ぎようがなかった」
そうですか、と答えて、透哉は紺碧にはなりきらない都会の空を見上げる。
ごめん、嘘……と、柊生は微かに笑う。
「俺、今、ものすごく重要な部分省略した」
オーバーランしてたんだ、と柊生は呻くように告白する。寝不足でぼんやりしててさ、と。
「ホームに進入するスピードが速すぎた。人の姿が見えて、慌てて主幹制御器操作したけど、間に合わなかった。だから……」
そうですか、と透哉は繰り返す。オーバーランを起こしていたことで自責の念に駆られる柊生の気持ちは、わからなくもない。だが、事故は避けられなかっただろう。
もしかしたら異なるのは、遺体の状況か。人肉ハンバーグとは……、どこまで彼の潜在意識は残酷で悪趣味な夢をもたらすのか。
彼を救う言葉を、透哉は持たない。柊生も欲してはいないだろう。言葉で救われることはない。
電線にとまっていた雀が、羽ばたく音がした。反動でゆらゆらと電線が揺れた。電線に切り取られた空は、やはり紺碧ではなく汚れ燻んでいた。
