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長編小説|Another Horizon #15

#15 最終章 再生、そして


 流れ行く月日は人の心を癒すと言うが、おそらくそれは真実らしい。

 2047年10月。翔太郎がマンションを去ってから、3ヶ月が経過した。

 翔太郎に定められた2ヶ月を待たずに、航太はマンションを退去している。新居は、京急線金沢文庫駅近くのアパートだ。航太の所得で横浜駅近くの物件など望むべくもない。通勤時間は倍になってしまったが、仕方のないことだ。

(  まだ、休みか……  )

 航太の眼前にあるのは、夏期休業中の貼り紙。

 紬と出逢った、例の食堂だ。外出自粛要請が発令される夏期、営業をとりやめる飲食店は多い。特に自宅兼店舗である個人経営の店において顕著だ。横浜駅まで来たついでに寄ってみたが無駄足だったか、と航太はほぞを噛む。


「あれ?もしかして、航ちゃん……?」

 背後から、懐かしい声がした。和哉くんだ。

「あああーー‼︎ やっぱり、航ちゃんだ‼︎ もおぉぉー‼︎ あんなにしょっちゅう来てくれてたのに、突然来なくなっちゃってさぁー‼︎ 薄情者‼︎ 預かってるものがあるから、ちょっと待ってて‼︎ 」

 久しぶりだね、という航太の挨拶は、和哉の口から溢れてきた文句に掻き消された。そしてドタバタと店に入り瞬く間に出てきた彼は、水色の封筒を手にしていた。

「ごめんね。なかなか行けないうちに夏期休業になっちゃってさ」

「いいんだって。俺だって事情はわかってるからさ。ばあちゃんに言われたもん。航ちゃんは、あの綺麗な女の人に会うために来てるんだって。おまえみたいなちんちくりん、どうでもいいに決まってるじゃないってさ」

「あ、いや。別にそういうわけじゃ……」

「いいんだって‼︎ 男って、そういう生き物だからさ……。仕方ないよ」

 男って、そういう生き物……。この台詞を小学生に言わせてしまう自分はなんなのだろう。いや、別に紬と会うためだけではなく、食事も目当てだったのだが……。

 差しだされた封筒の筆跡に、航太は瞠目する。

 『雨宮紬』

「これ……、彼女が⁉︎ 」

「そう。なんか、航ちゃんの勤め先に迷惑かけてごめん、って言ってたよ。助けてくれてありがとうって。読んでみたら?」

 慌てて航太は、中身を取りだして読み進める。読み進めて……、あまりの内容に思わず便箋を握り潰してしまった。

 航太の勤務するホテルに対する感謝と謝罪。水色の便箋に流麗な文字。清楚で上品な印象とは裏腹に、その先は卑猥すぎる内容だった。

「え、まさか……。和哉くん。これ、読んでないよね……?」

 わけ知り顔でニヤニヤしてる和哉に、嫌な予感がする。読んだよ、と和哉は首肯する。なんてことだ、と航太は頭を抱える。道理で封筒が開いているわけだ。

「勝手に読んだわけじゃないよ!あのお姉さんが勉強なんかより役立つことが書いてあるから、読んでいいって言ったんだって‼︎ 航ちゃんだって、まさか俺くらいの歳のときに、赤ちゃんはコウノトリが運んでくるなんて信じてなかっただろ?」

 それとこれとは別だ!と、航太は心のなかで叫ぶ。

「なに考えてんだ……。あの人は……」

 呆れたように天を仰ぐ航太の背中を、和哉はポンポンと労るように叩く。

「航ちゃん、あの女の人にフラれたんだろ?元気出しなよ。女なんて、この世に星の数ほどいるんだからさ……」

 この子は、いったいどこでこんな言葉を覚えてくるのか。それに続いた言葉が、航太を沈黙させた。

「だってこれからさ、あれも絶滅する。これも絶滅するって言われて、もっと暑くなるんだぞ、もっとつらくなるんだぞって……。だったら、今が一番マシってことじゃん?じゃあ、今を楽しまなきゃ損じゃん?」

 ずいぶんと刹那的な思考だ。今の子供は、こんな発想をするのか。いや、せざるを得ないのか。

 ふと、自分と彼の年齢差を計算してみる。14歳差だろうか……。翔太郎と自分の年齢差と2歳しか違わない。2歳の年齢差は若い頃は大きいがそれにしても……。

 子供だ。圧倒的に子供だ。対等に話すことなど考えも及ばない、庇護するだけの対象だ。想像したこともなかった翔太郎の目線を垣間見た気がした。

「お店の営業はいつから?また、食べに来たいんだけど……。実は引っ越したんだ。だからもう頻繁には来られない。駅に用事ができたときには、必ず寄るよ」

 20日から、と和哉は答える。じいちゃんがぎっくり腰になっちゃってさ、休業延びちゃったんだ。そうか、じゃ、そのころにまた来るよ。

 彼に別れを告げて、紬と会っていた公園のベンチで握り潰してしまった手紙を開いた。

 卑猥な内容とはいかに。女性の身体を愛撫する方法と具体的な性感帯である。いや、それに費やす所要時間まで書いてある。赤裸々すぎる……。

 知ってるから‼︎ と、航太は人知れず胸の内で絶叫する。どれだけ性経験の足りない男だと思われているのだろう。穴があったら、入りたい……。

 この内容を飄々としるすことができるのなら、紬はきっと元気なのだろう。頑張りなさいよ、と彼女なりの激励なのだろう、と思うことにした。


♦︎♦︎♦︎

 結局のところ、航太は自暴自棄にもならず、酒浸りにもならず、仕事を辞めることもなく、淡々と日々を過ごしている。精神的に強かったわけではなく、周囲の人間の……具体的には晋平ともうひとりのおかげだろう。

 新居に引っ越した途端、晋平は勝手に押しかけてくるようになった。

「航ちゃんさ……、少しは自炊ってものを覚えたほうがいいよ。今どき料理のできない男なんていないよ?将来結婚したときにさ、粗大ゴミと同じ扱いになるよー?」

 そう宣言して、不要になったがまだまだ使える調理器具を航太のアパートの台所に置いていく。そして休日に、『晋平シェフの傑作』とやらを振る舞ってくれる。

 そのレパートリーのなかに、なんとあのマサラドーサがあった。

 高校生のときに『Another Horizon』で訪れた南インドで、航太が食べたくても食べれなかったあの料理である。実際食べてみた感想は、旨かった……。あと、非常に食べにくい料理だということだ。クレープ部分の隙間から、ジャガイモのカレー炒めが転がり落ちるのだ。

 ふたりで笑い転げながら食べて、もうこのまま晋平に惚れてしまうのではないかと危惧したころに、航太には彼女ができた。幸いにして、同性愛に走らずに済んだ。あ、いや同性愛が悪いと言っているわけではない……。念のため。

 もうひとり、とはほかでもない彼女のことだ。沢渡さわたり由岐。例のぬいぐるみの客室係の女性である。

 きっかけは、園田くるみの傘の返却を依頼したことだ。

 もう、くるみとは挨拶と必要最低限の仕事の会話しか交わさなくなっている。航くんと呼ばれていたのが皆月さんに代わり、言葉の端々はしばしに見受けられた宮崎弁は、隙のない標準語に置きかわっている。自分の招いた結果だ。

 そして、その由岐に3回も告白された。人生初のモテ期だ。いや、同じ女性から告白されているのだから、モテ期とは呼ばないかもしれない。

 最初はもちろん断った。くるみの親しい同僚というのは、あまりにも節操がなさすぎないか?そして2回目も断った。同じ職場の女性と恋愛関係にあることが、そもそもわずらわしい。3回目は、さすがにしつこいな、と腹が立った。腹が立ったついでに、『セフレならいいよ』と言ってみたら、なんと承諾されてしまった。

 怒ったような顔をした由岐に腕を掴まれて、京急線に乗り彼女の部屋に連行された。金沢八景駅。航太の最寄り駅の隣の駅だ。

 部屋に大量のぬいぐるみがあった。帰ります、とも、やっぱりなかったことにして下さい、とも言えずになかばヤケになって、ぬいぐるみに囲まれながらセックスしてしまった。

 例の紬の手紙は……参考にはしていない。多分……。ただ彼女の反応がよかったことだけは、声を大にして紬に報告しておきたい。

 事を終えるなり、『帰らないの?』と由岐に冷たい声を浴びせられた。

 帰る?こんな夜中に?……そうか、セフレだからか、と腑に落ちた航太は、帰りたくないです、と反論する。ベッドから突き落とされそうになったので、ヘッドボードにしがみついて抵抗した。

 翌朝も、由岐は冷たかった。『セフレに出す朝御飯なんてない』と彼女は、けんもほろろだ。

 鍋から味噌汁の匂いがする。フライパンにあるのは、ふわふわのだし巻き卵だ。インスタントではない味噌汁と、焼きたてのだし巻き卵なんて、独り暮らしの自炊しない男が喉から手が出るほど欲しているものだ。逃してなるものか。

 彼女の隣にひざまずいて、謝罪する。そしてセフレから彼氏への昇格を願い出た。

『皆月くん、優しいのが顔に滲みでてるのに。なにかっこつけて、悪い男ぶってるんだろうって。ちょっと、おかしかった』

 彼女が膝に抱いている黒い猫のぬいぐるみの手が、ポンポンと航太の頭を撫でる。

 セフレなんて柄にもないことを求めるべきではない、と航太は反省する。それと同時に心に刺さっていた、いくつもの棘が静かに抜けていくのを感じていた。

 有り難くも朝御飯を頂戴して、彼女と公園を散歩した。そこで航太は、『犬にやたらとモテる』という何の自慢にもならない、履歴書にも記入できない特技を由岐に披露する。飼い主と散歩している犬がことごとく航太に寄ってきて、引きちぎれそうなほど尻尾を振るのだ。

 それを見た彼女は、ショッピングモールにある『豆柴カフェ』なる場所へ航太を連れていった。

 そこで航太は、幼少期以来久しぶりに、もふもふの大群に囲まれるという大変しあわせな体験をすることとなる。

 なにをやっているんだろうな……、と自分でも呆れてしまう。

 節操がない、とはこのことだ。散々人を傷つけておいて、こんなにも容易く幸福になっている。
血の繋がった兄を殺しかけておいて、それでも由岐は、航太の性根を優しいと評価する。

 女の言う『優しい』は『物足りない』の同義語だ。かつては嬉しくなかったその称号を、今の航太は心から歓迎する。優しくないよりは、遥かにいい。

 そんなふうにして、時を過ごすうちに短い秋が瞬く間に過ぎ去って、冬が訪れた。

 冬物のコートを羽織る季節になってようやく、航太の胸には翔太郎に面会に行く勇気が芽生えていた。


♦︎♦︎♦︎

 翔太郎の病室から、くるみの声が響いてきたので、驚いた。

 いつのまにそんな関係に?と、航太は硬直する。悪いとは思いつつも、聞き耳を立ててしまう。話が進むうちに、航太の早合点であると判明する。

 翔太郎が入居しているのは、鶴見にあるリハビリ施設だ。総持寺の青磁色の伽藍がらんを横目に眺めながら、海にほど近いこの場所まで歩いてきた。

「航太の同僚の女の子というのは、君のことだろう?この場所は、弟から?」

 翔太郎の口調は柔らかいが、どこか冷たい。

 違います、とくるみは否定する。

 この施設に友人が勤めているんです。皆月さんらしき人がいるって教えてもらって……。彼女も『Another Horizon』を利用しているんです。

「そんなに有名になっていたとは、知らなかったよ。それで、その友人というのは、ここの看護師?患者の情報を漏らすなんて、個人情報の漏洩に該当するんじゃないのか?正式に病院に抗議させてもらうが……」

 ごめんなさい、とくるみは泣きそうな声で謝罪している。

「どうしても、もう一度会いたくて……。会って直接謝りたかったんです」

「何を謝る必要がある?君が、おぞましいものを見る目で俺を見ていたことか?実際、おぞましい姿だったんだから、仕方ないだろう」

「そうじゃなくて。皆月さんの身体がこんなふうになってるって知らずに……。友達にも薦めてしまって、それでその友達がSNSで拡散してしまって。良かれと思ってやったことが、負担になってるとも思わずに……」

「それに関しても、謝る必要はない。むしろ、こちらが宣伝していただいてありがとうと感謝するべきだ。俺の身体に関しては、自己管理を怠っていただけだ。お客さんである君が、心配する必要はないよ」

 翔太郎の態度は、徹底して冷淡だ。温厚な人柄を承知しているだけに、少し驚く。取りつく島もない彼の態度に、くるみは困惑したようだった。

「VRのなかで話すときと、ずいぶん違うんですね……」

「ガイドをしているときの態度と違うと言いたいのか?当然のことだろう?VRのなかでは、君は金銭を払って来てくれている客だ。丁重にもてなすに決まっている。今はそうじゃない。客の立場を越えてプライベートにまで領域侵犯をしているのは、君のほうだ」

 言外に迷惑だと告げている。帰ってくれ、とも。

 すみませんでした、とくるみが立ちあがる気配がしたので、航太は慌てる。こんな場所にいては、鉢合わせしてしまう。

 園田さん、と翔太郎がくるみを呼びとめる声がした。

「航太を……、ゆるしてやってくれないか?」

 航太は、息をとめる。赦す……?

 あのとき彼の傍らで航太とくるみが交わしていた言葉の内容を、翔太郎は知らないはずだ。いや、すでにログアウトしていたのか。VRゴーグルをはずしていないだけだったのか。

「あいつは俺から離れたくて、俺を君に押しつけようとしたんだろう。それが叶わずに、君を傷つけた。女をつくれとは言われたが、まさか本当に連れてくるとは思わなかったよ」

 いいえ、とくるみはやんわりと否定する。

「私が、皆月さんに会いたそうな素振りをしていたんです。実際に皆月さんを目にして話が違うとは思ったけど。おぞましい……とかじゃなくて、そうじゃなくて……。怖かったんです。依存性なのかなって。私もなりかけたことがあったので」

「VRに対する依存性のことか?」

 私の場合はAIです、とくるみは説明する。

 子供の頃にいじめられて、AIの生成した友達としか話さない子供になっていたそうです。来る日も来る日も、生身の人間を怖れてヘッドフォンを装着してタブレット端末に向かって話しかける日々だったと。

「機械の友達としか喋れない……。VRのなかでしか生きられない俺は、君がなっていたかもしれない成れの果ての姿というわけか。キツいことを言うね……。それで、どうなった?」

「怒った父親にヘッドフォンをむしり取られて、タブレットを叩き壊されました」

 翔太郎の笑い声がした。いいお父さんだね、と。

「やることの過激さにおいては、うちの弟も負けてはいないな。自分の足で歩け、と介護ロボットを破壊されたからね。あれ、高かったんだよな……」

「お父さん、お母さんに怒られて、タブレットの代金弁償させられてました。お小遣い全額没収だって」

 なにやら、風向きが怪しくなってきた。このまま帰ろうか、と航太はその場を離れようと試みる。ロンの代金を弁償しろ、なんて話になりかねない。

 身体お大事にして下さい、とくるみの声。

「マラリアは、大丈夫だった?」

「はい、おかげさまで。重症化せずに済みました」

 そうか、良かった。元気で、と翔太郎が別れを告げる声がした。


♦︎♦︎♦︎

「航太。……そこにいるんだろう?入っておいで」

 翔太郎が入室を促す声がした。くるみと顔を合わせるのを避けたくて、御手洗いに避難していたのだ。そこから部屋に入るのを躊躇したまま、今に至る。

 翔太郎に促されて、観念した航太は病室に足を踏み入れた。

 半年ぶりに再会した翔太郎の姿に、瞠目する。

 髪が短くなっている。白髪は混じっているが、昔の翔太郎の髪型だ。痩せこけた頬の肉づきがよくなって、多少は老けたものの若い頃を彷彿とさせる彼の姿があった。

 突然頬を伝わり落ちた涙に、航太は狼狽する。

 何を泣いているのか。慌てて、コートの裾で乱暴に涙を拭う。だが拭っても、航太の意思とは裏腹に涙は溢れてきてしまう。翔太郎の傍らのテーブルに、乱雑にお見舞いのケーキの箱を置いて窓際に近寄った。

 病室からの景色を眺めている振りをして、航太は涙を止めようと躍起になる。背後から、翔太郎の視線を感じた。病室に入るなり泣くなんて、挙動不審にも程がある。

 そのうちに、ガサゴソと音がした。

 航太の持参したケーキの箱を、翔太郎が勝手に開けている。見舞いの品だから構わないのだが、一言ぐらい断れよ。そう言いたくても、まだ涙がおさまらない。

 パリン、パリン、とキャラメリゼを砕く音が響いた。しまった、と航太は涙をごまかすのも忘れて振り向く。

「翔太郎、てめえ……。俺のぶんまで、割るなよ」

 そこにあるのは、キャラメリゼが無惨に砕かれたクリームブリュレ。

 ん?と、翔太郎は口にスプーンを咥えたまま、涼しい顔をしている。割ってみたかったんだ、と悪びれることなく主張する。

「まさか、こんなことでおまえが泣くとは思わないじゃないか。泣くほど、キャラメル部分を割りたかったのか?」

 割りたかった、と航太は頷く。俺の泣いている理由なんて察しているくせに。航太の涙を気にとめる様子もなく、翔太郎はたいらげたケーキのカップを凝視している。

「ケーキって……、ただの糖質と脂質の塊だよな。卵は、蛋白質か。今度来るときは、蛋白質の豊富な食い物を持ってきてくれないか?」

 は⁉︎ と、航太は目を剥く。人の見舞いの品にケチをつけるとは何様のつもりだ。

 そして、翔太郎のベッドの脇にある大容量のプロテインパウダーが視界に入る。筋肉愛好家の同僚が飲んでいるのと、同じ銘柄だ。

 翔太郎はその視線を辿って、航太が硬直した理由を悟ったらしい。

「おまえの考えてることは、わかるよ。筋肉を蓄えた俺が、おまえをボコボコに殴るんじゃないかと心配しているんだろう?」

 確かに、俺を殴れとは言った。だが、筋肉質の身体をつくってから殴れとは断じて言っていない。翔太郎は、不穏な沈黙をしている。そんなこと俺がするはずがないだろう。航太の望む回答は得られなかった。

「それもいいかもな……」

 同僚の通うトレーニングジムの入会金は、いくらだっただろうか。ロンの購入代金も請求されるかもしれない。それに家賃、光熱費、食費……。

 破産だ、と航太は頭を抱える。その隣で、翔太郎は笑いを堪えていた。



 車椅子を自ら動かしていた翔太郎は、何故か屋上の柵から少し離れた場所で止まった。

 高所恐怖症だったっけ?と航太は首を傾げながら、自分は柵に近づいて景色を眺める。

 黄昏どき。赤銅色に染まる空に、高潮警報が鳴り響いている。

 この施設は浸水想定区域にあるのだ。航太の視線の先にあるのは、かつては京浜工業地帯と呼ばれていた地域だ。湾岸沿いの工場は廃墟と化している。火力発電所、製鉄所。突き出た煙突から吐き出される煙はない。運河を辿った先にあるのは大海原。

「とんでもない、ディストピアだ……」

 航太は、率直に感想を述べる。自分の構築した美しい世界に閉じ籠もってきた翔太郎が、10年もの歳月を経て眺める現実の景色がこれか……。

 浸水が始まっている。海の方角からじわじわと押し寄せる水。建物の1階部分は閉鎖され、シャッターが降りて土嚢どのうが積まれている。

 高台から、黒い物体がいっせいに飛翔するのが見えた。

 遠目には鴉の大群のようだ。その正体は、宅配ドローンである。浸水区域にある地域への宅配手段が、地上から空中へと設定が切り替わったのだ。AIが配達先の住所を識別して優先順位を判断している。

 一体のドローンが、まっすぐに航太たちのいる屋上に飛翔してきた。

 病院も最優先配達先に識別される。ドローンの到着と同時に、屋上の自動扉が開いた。そこから現れたのは、ロンにそっくりの介護ロボットだ。ドローンが落下させた荷物を咥えて、元来た道を戻っていく。翔太郎は興味深そうに、その光景を眺めていた。

「羽田空港も、今ごろ水に浸かっているだろうね」

 そうかもな、と翔太郎は頷く。かつては、何度も利用したはずだ。

 この場所から、羽田空港まで僅かな距離である。10年前であれば、離陸して大空を旋回する機体がこの屋上から一望できたであろう。

 今では、第一ターミナルを残して閉鎖されている。広大な敷地にとり残された空を舞うことのない航空機。『飛行機の墓場』として写真家の垂涎すいぜんの的となっている。

 そのとき、翔太郎が腕に力を込めた。車椅子の肘掛けを押すようにして立ちあがるのを、航太は呆然として眺める。そうやって立ちあがって地面に踏み出すと、一歩ずつ歩いて航太の隣に並んで、柵にもたれかかる。

 背が高い。忘れていたが、航太より背が高いのだ。長いあいだ、見おろしてばかりだった翔太郎の顔を、航太は見あげる。

「何を驚いているんだ?自分の足で立て、と言ったのはおまえだろう?」

 ぽかんとしている航太に、翔太郎は苦笑する。泣くなよ、と念を押された。泣かないよ、と航太は口を尖らせる。

 翔太郎は髪を風に靡かせて、空を仰ぐ。もう飛行機の飛び交うことのなくなった、暮れなずむ黄昏の空を静かに見つめていた。

                                                                                                                                     ───  完  ───


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