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『海に眠るダイヤモンド』と「長崎」の問題

今日は先日完結した『海に眠るダイヤモンド』について考えたい。

この作品は野木亜紀子が脚本を、塚原あゆ子が演出を担当することで、テレビドラマのファンコミュニティの間では放送前から大きな注目を集めていた。そして放送中も視聴率的には苦戦したようだがその内容についての評価は概ね高く、僕も毎週楽しみに観ていた。批評家であることを忘れ「いずみ」の正体は誰なのかとか、結ばれないことは分かっているのだけど鉄平と朝子に幸せになって欲しいとか、そういったことばかりを考えながら観ていたのだけれど、今日は少し冷静になってこの作品を振り返ってみたい。

今回僕が考えてみたいのは、この作品における「戦後的なもの」の扱いだ。『海に眠るダイヤモンド』の主な舞台は50年代末から60年代なかばにかけての端島(軍艦島)だ。僕は2年前に、70歳くらいの母親(僕が子供の頃に長崎に暮らしていた)の希望で彼女を端島見学ツアーに連れて行っているので、なんというか劇中と同じようなシチュエーションを味わっているのだが、それはまあ、いいだろう(笑)。

話を戻すと、同作では最盛期の端島を舞台にそこに暮らす人々の群像劇が描かれる。炭鉱夫とその家族、経営側の社員たち、彼らの生活を支えるお店や施設の人々など、ごく小さな島に数千人が暮らす当時の端島をこの作品はある種のユートピア(への挑戦)として描き出す。このユートピア性は、島全体が一つの産業(炭鉱)に従事して、それを支える「家族」的な連帯感(「一島一家」の精神)として示される。そこに暮らす人々には出自や過去の経歴を問わない暗黙の了解があり、労使対立もこの「家族」的な個人間の「情」によって解消される。

しかし歴史が教える通り、石炭から石油へのエネルギー移行により端島は閉山となり、この家族的な共同体のもたらすユートピアは失われる。その象徴として描かれるのが、過去編の主人公・鉄平だ。炭鉱夫の子どもとして端島に生まれ、大学卒業後には端島に戻り会社側の職員(総務的な業務)となった彼は、端島のこの家族的な共同体をメンテナンスする役割を担い、ちょっとした人間関係のトラブルから労使関係の調整までを一生懸命こなしていく。しかし鉄平は60年代の、ちょうど端島が斜陽になりはじめたころに謎の失踪を遂げる。物語の後半は現代(2017年設定)において、かつての鉄平の恋人であった朝子とその家族たちが、鉄平の失踪の真相に迫ることで展開していく。

要するに、この物語は戦後のポジティブな可能性をその疑似家族性に求めている。ここで描かれている端島のまるでスペースコロニーのような人工国家的な社会とその上に築かれた疑似家族的な共同体は、戦後日本の(美化された)自画像だと考えればよいだろう。敗戦を経て、たくさんの「傷」を引きずりながら、いろいろなことを表面的には「忘れたフリ」をして、お互い支え合いながら経済成長に邁進する。前に進むことで、物質的に豊かにすることで、「傷」を慰め、「忘れたフリ」をほんとうの「忘却」に近づける。そのために疑似家族的なつながりで支え合う……というわけだ。この書きっぷりから分かる通り、僕はこういったものに批判的なのだが、それは一度置いておこう。大事なのは、この作品でこの「端島」が象徴していた「戦後的なもの」がどう位置づけられていたか、だ。

それは結論から言えば「失われたもの」だが、現代の自分たちの世界の形成に寄与した「素晴らしいものでもあった」というものだ。それは劇中で「石炭」がどのような比喩で扱われていたかを考えると明白だ。石炭は植物の死骸である。しかしそれが地中深くに堆積して、石炭となり現代の生活を支えるエネルギーになる……。そう、本作は「あの頃」の日本の達成を「石炭」として位置づけ直しているのだ。

そしてここで立ち止まって考えてみたい。本当にそれでいいのだろうか、と。そしてこの疑問はもう一つの物語上の疑問に結びつく。この疑問は鉄平と朝子の結末はあれで良かったのだろうか、という疑問と同義なのだ。

鉄平が失踪したのは、炭鉱事故で死亡した兄(慎平)の遺児・誠を守るためだ。兄の妻・リナは福岡でヤクザとトラブルになり、大金を持ち逃げして端島に逃げてきた過去がある。ヤクザはリナに報復ための刺客を送るが、その刺客は慎平に返り討ちに遭って殺害される。このシーンの慎平を演じた斎藤工の演技がカッコよすぎるのだが、それもまあ、横に置いておこう。慎平の事故死後、ヤクザはさらに報復の刺客を送る。リナと誠を守るため、鉄平は二人を連れて端島から失踪する……というのが、ことの「真相」だ。

要するに鉄平=端島=「あの頃」の日本は、高度成長の終わりとともに失われたのだ。しかし、それは無駄ではなく、まさに「石炭」のように現代の僕たちの生活を支えている……ということなのだろう。単に「あの頃は良かった」と単に美化するのではなく、それが失敗したプロジェクトであることは認めたうえで、その犠牲の上にいまに世界があることに感謝する……というポジションからこの作品は「あの頃」を描いているのだ。

もちろん、明らかに同作の主眼は青春群像にあり、イデオロギッシュな昭和の評価やノスタルジーの喚起による視聴者のヒーリングにはない。したがって、僕が今指摘したことは、「日曜劇場」という昭和ノスタルジアを麻薬的に求める中高年層を主要な視聴者に持つ放送枠への、迎合しすぎない対応として選ばれた態度なのだと思う。しかし、それだけに問題の本質を結果的に、制作者たちの意図よりも深いレベルで露呈させてしまっているように思えるのだ。端的に述べれば、あれがユートピアとして機能するのは、ビニールハウスの中に入れてもらえた人たちだけだった、という問題だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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