動かない少年が突き返す視線――『ユンボギの日記』は、感動を拒否するために作られた映画である
原作を読み上げる小松方正の語りとスチール写真で構成された大島渚の1965年の短編映画『ユンボギの日記』とは何か。
韓国、というよりは朝鮮半島の民衆の貧困にカメラを向けるべく乗り込んだ大島渚は、貴重な人材といえば人材。一息で言えば本作は、「貧しさを描く映画」ではなく、「貧しさを〈見てしまう側〉を暴き出す映画」である。
この点で本作は、同じく朝鮮人(正確には在日朝鮮人)をテーマにした日本映画『キューポラのある街』と、はっきり呼応している。
ただしその関係は、共感ではなく緊張関係としてだ。
『キューポラのある街』は、
軽やかなテンポ
群像の躍動
白黒画面の格調
の中に、在日朝鮮人であることの重さをさらっと紛れ込ませる。
牛乳を盗む者と盗まれる者。修学旅行を躊躇する心。貨物列車の轟音の下で耐え続ける少年の身体。それらは決して声高に叫ばれない。だが、観客の胸に遅れて罪悪感として沈殿する。後から効いてくる痛みである。
一方、『ユンボギの日記』――とりわけ大島渚による日本版は、その「遅れてやってくる感動」すら最初から封じる。
動かないスチル
日本語による朗読
沈黙したままのユンボギ
ここにいるのは、健気に働く少年でも、成長する物語の主人公でもない。
「こちらを見返すことすらできない被写体」である。
『キューポラのある街』が(あるいはこの系譜にある日本映画:「月はどっちに出ている」や「パッチギ!」が
「今より貧乏になりやしねえからな」
という笑顔で、観客を物語の内側へ迎え入れる映画だとすれば、『ユンボギの日記』は、その入口を完全に閉ざした映画だ。
だからこの二作は、
どちらも貧困を描き
どちらも子どもを中心に据え
どちらも1960年代の社会を映している
にもかかわらず、到達点が真逆なのである。
つまり
『ユンボギの日記』は、
〈かわいそう〉と感じた瞬間、その感情そのものを疑わせるために存在する映画だ。
韓国映画版(저 하늘에도 슬픔이 (1965년 영화))が「社会はまだ回復可能だ」と語り、『キューポラのある街』が「それでも生きていくしかない」と笑わせるなら、大島渚の『ユンボギの日記』は、「あなたはいま、どの立場でこの少年を見ているのか」という問いだけを残して、無言で立ち去る。
その沈黙の重さこそが、本作のすべてである。
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