北海道の絶景はどこですか?と聞かれて、僕は答えられなかった
こんにちは!皆さん。
今日は「北海道の絶景はどこですか?」と聞かれて、北海道出身の僕が戸惑ってしまった話を書きたいと思います。
つい最近、仕事中の少し落ち着いた時間に、同僚のスタッフと談笑していました。新しいプロジェクトの進行について話していたはずが、いつの間にか休日の過ごし方になり、気づけば「旅行に行きたい場所」へと話題が移り変わっていました。
雑談というものは、だいたい入口を覚えていません。川を流れる葉っぱのように、気がつくとまったく違う場所に着地しています。
すると、スタッフの1人からこんな質問をされました。
「北海道の絶景はどこですか?」
北海道で生まれ、25歳まで北海道で暮らしていた僕にとっては、それほど難しい質問ではないはずです。むしろ、少し得意げに答えてもよさそうな絶好の場面です。
「それなら、間違いなくここだね」
「秋の季節を狙うなら、こちらの湖だね」
「ガイドブックには載っていないけど、地元民だけが知る穴場があるんだよね」
そんな言葉が、流れるようにすらすらと出てきてもおかしくありません。北海道という巨大なブランドを背負っている以上、素晴らしいプレゼンテーションができるはずです。
ところが、実際の僕は違いました。
「北海道の絶景か……」
そこで言葉が完全に止まりました。何も浮かばなかったのです。頭の中にあるはずの「北海道観光案内所」が、突然の臨時休業に入ってしまいました。シャッターが下り、受付には誰もいません。
これは本当に困りました。北海道出身という立派な看板だけは掲げているのに、店内にはお土産1つ並んでいない状態です。
しばらく沈黙のあと、テレビや雑誌で何度も見た有名な花畑や、夜景の美しい山の名前はいくつか浮かんできました。
ただ、それは僕自身の記憶というよりも、どこかから借りてきた「情報」のように感じたのです。
僕が実際に足を運び、冷たい風を感じながら心から感動した場所として、自然に出てきたわけではありません。
北海道で25年も暮らしていたのにです。
少し恥ずかしくなり、曖昧な笑みを浮かべてその場をやり過ごしました。そして同時に、なぜ僕はあんなにも答えられなかったのだろうと、深く考え始めました。
#北海道出身 #地元民あるある #地元の観光地 #知ってるようで知らない
住んでいた年数と、知っている深さは別だった
よく考えてみれば、僕たちは「長く住んでいる場所のことは、当然よく知っている」と思い込んでいます。
地元の人なら、観光地にも詳しいはず。
地元の人なら、美味しいお店も知っているはず。
地元の人なら、その街の歴史や文化も、ある程度は説明できるはず。
しかし、これは必ずしもそうではないと思います。
その場所に「長く住んでいること」と、その場所を「深く知っていること」は、まったく同じではありません。
住んでいるだけで、勝手に知識がインストールされるわけではないからです。
たとえば、皆さんが毎日使っている駅の前に、誰かの銅像があったとします。
通勤や通学で何百回、何千回とその前を通っていても、それが誰の銅像なのか知らないことは珍しくありません。
毎日見上げている駅の名前の由来も知りません。
近所にあるツタの絡まった古い建物が、いつ、何のために建てられたものなのかも分かりません。
ただ「そこにある」ということだけは知っています。
知っているようでいて、実は何も知らないのです。
これは僕に限った話ではありません。
家の近くにある立派な神社にはお正月にすら行ったことがないのに、旅行先ではガイドブックを開き、小さな神社にもわざわざ立ち寄ります。
地元の川は毎日見ているのに、それがどこから流れてきて、どこへ海に注ぐのかわかりません。
近所の山には1度も登ったことがないのに、遠く離れた有名な山には、わざわざ時間とお金をかけて重いリュックを背負って出かけます。
人間とは、なかなか不思議な生き物です。
すぐ近くにあるものよりも、遠くにあるものの方がずっと魅力的に見えてしまう魔法にかかっています。
僕も、まさにその魔法にかかっていました。
北海道で暮らしていた頃の僕は、北海道という土地を「知ろう」とはしていませんでした。
そこは僕にとって、新しく何かを学ぶ対象でも、ワクワクしながら旅をする場所でもありませんでした。
ただの、日常的な生活の場所だったのです。
#灯台下暗し #地元の魅力 #日常風景 #住むことと知ること
僕はいつも、外の世界ばかりを見ていた
北海道で生まれ、25歳までそこで暮らしていた僕は、学生時代から外の世界に強い関心を持っていました。
東京という大都会には何があるのだろう。
日本のほかの地域では、みんな一体どんな暮らしをしているのだろう。
海外で働くというのは、どんな感覚なのだろう。
知らない土地には、僕の知らない仕事があり、知らない文化があり、出会ったことのない人たちがいるはずです。
そんなことばかりを考えて、いつも海の外側に思いを馳せていました。
僕の視線は、ずっと地元の外側へ向いていたのです。
もちろん、外の世界に関心を持つことが悪いことだとは思いません。
知らない場所に興味を持ったからこそ、僕は北海道を離れる決断ができました。
東京へ行き、その後はさまざまな土地で暮らしました。
海外の厳しい環境で生活した経験もあります。
外へ出たことで学べたことは、本当に数え切れません。
それは間違いなく、今の僕という人間をつくっている大切な土台です。
とはいえ、外のまぶしい世界ばかりを見ていたことで、自分の足元にあるものをほとんど見ていなかったのも、また事実です。
僕にとっての北海道は、新しい世界へ向けて「出発する場所」でした。
いつかたどり着きたい「目的地」ではありませんでした。
ここには、決定的な違いがあったのだと思います。
旅行で新しい場所を訪れる時、僕たちはとても意識的に景色を見ます。
駅に着いた瞬間から、街並みの色を観察します。
面白い看板を探し、良さそうなお店を覗き込み、歴史のありそうな建物の写真を撮ります。
少し変わった細い路地があれば、迷うかもしれないとワクワクしながら、わざわざ入ってみます。
地元の人にとっては退屈な普通の風景でも、旅行者にとってはすべてが新鮮なエンターテインメントです。
一方で、自分が暮らしている日常の場所では、景色を見ることよりも「目的」を優先します。
学校へ間に合うために急いで道を歩きます。
仕事へ行くために最短ルートで駅を使います。
夕飯の買い物をするために、決まった商店街を通ります。
美しい景色を見るために移動しているわけではありません。
つまり、まったく同じ場所にいても、旅行者は「見る人」になり、生活者はただ「通り過ぎる人」になります。
僕は北海道にいた25年間、ずっと自分の街を通り過ぎていただけだったのかもしれません。
近すぎる景色は、景色として見えなくなる
有名な世界遺産や観光地で暮らしている人が、実はその観光地へほとんど行ったことがない、という話を聞くことがあります。
最初はすごく不思議に感じます。
せっかく歩いて行ける距離にあるのだから、いつでも行けばいいのに、と。
入場料だって安いかもしれないのに、なぜ行かないのだろうと疑問に思います。
しかし、この「いつでも行ける」という言葉は、私たちの行動を止める強力な呪文です。
いつでも行ける場所は、今日わざわざ行かなくても誰も困りません。
今日行けなければ、来週があります。
来週が忙しければ、来月があります。
来月が寒ければ、暖かくなる春があります。
そうして理由をつけているうちに、平気で何年も過ぎていきます。
「いつでも行ける」は、ときどき「結局、1度も行かない」に変わってしまいます。
高級なチョコレートや、お土産でもらった珍しい調味料を、冷蔵庫の奥に大切に取っておいて、気がつくと賞味期限を迎えて捨ててしまうのと少し似ています。
大切にしすぎて、日常で使う機会を永遠に失ってしまうのです。
地元の景色も、それとまったく同じなのかもしれません。
毎日そこにある雄大な山は、わざわざ足を止めて眺める対象ではなくなります。
「ああ、今日もそこにあるな」という記号になります。
毎年きれいに咲く花は、「今年も咲いているな」という季節の確認作業だけで終わります。
冬になれば雪が降り積もることも、美しい銀世界ではなく、ただの厄介な日常の一部になります。
旅行者が「わあ、すごい!」と歓声を上げて写真を撮る景色を、地元の人は「明日の朝の雪かき、面倒だな」とため息をつきながら見ていることもあります。
目の前にあるものは同じでも、見えているものがまったく違うのです。
旅行者は、切り取られた「美しさ」を見ています。
生活者は、その先にある「現実の日常」を見ています。
これは、どちらが正しいとか、どちらが豊かだという話ではありません。
そこで暮らしているからこそ分かる、深い現実もあります。
綺麗な写真には決して写らない不便さもあります。
季節によって表情を変える自然の恐ろしさもあります。
観光地として見る顔と、生活の場所として見る顔は、別物です。
僕は北海道を、「絶景のある場所」として見ていませんでした。
学校へ通い、働き、友人と会い、笑い、悩みながら日々を過ごす「生活のキャンバス」として見ていました。
だから、「北海道の絶景はどこですか?」と急に聞かれた時、生活者の目線から観光客の目線へと、うまくスイッチを切り替えることができなかったのだと思います。
長く暮らしていたから詳しいのではありません。
長く暮らしていたからこそ、すべての景色が日常に溶け込み、透明になってしまったのです。
#観光客目線 #生活者目線 #いつでも行ける場所 #見慣れた景色
絶景という言葉にも、少し戸惑ってしまった
もう1つ、僕が答えに詰まった決定的な理由があります。
それは「絶景」という言葉そのものの持つ圧力です。
絶景と聞くと、多くの人が圧倒的な大自然や、息をのむようなスケールの風景を想像すると思います。
どこまでも広く青い空。
地平線までまっすぐに続く緑の大地。
視界をすべてオレンジに染める夕日と海。
高い展望台から見下ろす、宝石箱のような街の明かり。
確かに、そうした風景は誰もが認める美しいものです。
ただ、ふと考えます。「絶景」とは、誰にとっても同じ、共通の正解があるものなのでしょうか。
僕は、少し違うような気がしています。
ガイドブックや観光案内に載っている、プロのカメラマンが撮った景色だけが、絶景ではありません。
たとえば、子どもの頃に友人とふざけ合いながら歩いた帰り道も、大人になってから振り返れば、かけがえのない特別な景色になります。
冬の凍てつくような朝、誰も歩いていない真っ白な雪道に、自分の足跡だけがギュッ、ギュッと音を立てて残っていく風景。
部活動を終えて、疲れきった体で自転車をこぎながら見た、少し切ない赤色の夕焼け。
実家の窓から毎日見えていた、名前も知らない裏山。
当時はなんとも思わなかった、1円の価値も感じなかった景色が、そこを離れて時間が経ってから、急に胸を締め付けるように思い出すことがあります。
それも、その人にとっての立派な「絶景」ではないでしょうか。
絶景は、場所の視覚的な美しさや、スケールの大きさだけで決まるものではないと思います。
誰と一緒にそれを見たのか。
人生のどんなタイミングで見たのか。
その時、どんな気持ちを抱えていたのか。
そうした個人的な記憶や感情が幾重にも重なることで、ただのありふれた風景が、世界に1つだけの特別なものに変わります。
僕がスタッフから聞かれた時、無意識のうちに「北海道を代表する、誰もが文句なしに納得する、ポスターになるような絶景」を探してしまっていたのかもしれません。
北海道には、果てしなく広大な土地があります。
季節によって見える景色も、空気の匂いも劇的に変わります。
その中からたった1つだけを選び、「ここが北海道の絶景です」と自信満々に答えることに、どこか嘘をついているような違和感がありました。
少し大げさに言えば、「この世で1番好きな食べ物を、1つだけ選んでください」と言われるようなものです。
新鮮な魚介のお寿司も好きです。
スパイスの効いたカレーも好きです。
寒い日に食べる熱々のラーメンを外すわけにもいきません。
そこで急に「1つへ絞れ」と刃を突きつけられても、胃袋の中で喧々諤々の緊急会議が始まり、結論は出ません。
絶景もこれと同じです。
世間一般で有名な場所を1つ、適当に答えるだけなら簡単です。
しかし、自分にとって本当に特別な場所、心が震えた場所を誠実に答えようとすると、急に難しくなります。
当時の僕には、その答えをつくるための「風景の記憶」が足りませんでした。
正確には、記憶がないのではなく、目の前の風景を「特別な景色」として心の引き出しに整理してこなかったのだと思います。
シビックプライドを語る僕に、見事なブーメランが戻ってきた
僕は過去のnote記事で、「シビックプライド」という言葉について何度か書いています。
これをものすごくざっくり言うと、自分が暮らす街や、仕事で関わる地域を「自分ごと」として考え、愛着や誇りを持つことです。
地域の隠れた魅力を知ることが大切です。
そこに住んでいる人自身が、自分たちの街の価値に気づくことが大切です。
外から観光客を呼ぶ前に、まずは地元の人がその魅力を理解し、語れるようになる必要があります。
僕は、偉そうにそんなことを書いてきました。
文章だけを切り取って読むと、地域を愛する素晴らしい人物のように見えます。
ところが実際の僕は、生まれ育った街のことをほとんど知りません。
北海道の絶景を聞かれても、しどろもどろになってすぐに答えられません。
地元の歴史や、特有の文化について聞かれても、胸を張って詳しく説明できる自信はまったくありません。
見事なブーメランです。
僕が投げたはずの立派な言葉が、かなり大きな弧を描いて、僕自身の後頭部に綺麗に戻ってきました。
本当にお恥ずかしい話です。
ただ、今回の出来事を通して、シビックプライドというものについても少し考え方が変わりました。
地域への誇りや愛着は、「私の地元はこんなに素晴らしい!」と大きな声でアピールすることから始まるのではないと思います。
まずは、「自分は地元のことを、実は何も知らないんだ」と素直に気づくことから始まるのかもしれません。
自分が知らないことを認めるのは、少し気まずく、痛みを伴います。
地元のことを聞かれて答えられないと、自分には郷土愛がない、冷たい人間のように感じることもあります。
しかし、知らないことと、愛着がないことは同じではありません。
たとえば、家族の幸せを心から願い、大切に思っていても、家族の趣味や悩みのすべてを知っているわけではありません。
長く一緒に働いている信頼する仲間でも、休日の過ごし方など、知らない一面はたくさんあります。
毎日暮らしている街についても、それと同じです。
大切に思う温かい気持ちがあっても、知らないことは山のようにあります。
むしろ、あまりにも身近で空気のような存在だからこそ、改めて知ろうとする機会を失っている場合が多いのです。
僕は、自分の地元を知らない自分を恥ずかしいと思いました。
その居心地の悪い気持ちは、今もあります。
ただ、恥ずかしさだけで思考を止めて終わらせる必要はありません。
知らないと気づいたその時から、少しずつ知ることを始めればよいのです。
年齢を重ねてからでは、少し遅いかもしれません。
しかし、一生始めないよりは、ずっとよい豊かな人生になるはずです。
#シビックプライド #郷土愛 #地域ブランディング #地域活性化
地元への誇りは、知識の量では決まらない
ここで、この記事を読んでくださっている方の中にも、少し心配になる人がいるかもしれません。
「言われてみれば、自分も地元のことをほとんど知らない」
「県外の友人に名所を聞かれても、気の利いた場所を答えられない」
「地元の歴史的な背景なんて、1度も勉強したことがない」
だから、自分には地元への愛情が欠けているのではないか。薄情な人間なのではないかと、不安に考えてしまうかもしれません。
僕は、そこまで厳しく自分を責める必要はないと思っています。
地元への本当の気持ちは、すらすらと観光案内ができるかどうかという「知識量」だけで決まるものではありません。
観光名所を10か所言えたからといって、その地域を心から大切に思っているとは限りません。
歴史の年号を1つも覚えていなくても、子どもの頃から続いていた地元の小さなお祭りがなくなるニュースを聞いて、涙が出るほど寂しく感じる人はいます。
自分の住む街の名前の由来を知らなくても、旅行から帰ってきて駅に降り立ち、その街特有の匂いや空気を感じた瞬間に、ふっと肩の力が抜けて安心する人はいます。
知識と愛着は、確かに関係しています。
しかし、イコールではありません。
僕が思うシビックプライド、地域への誇りとは、地元を手放しで褒め続けることではありません。
ポジティブな良いところだけを無理に並べ立てることでもありません。
交通の不便なところや、もっとこう変わってほしいと願うネガティブな部分も含めて、その街を「自分と深く関係のある場所」として考えることです。
好きだからこそ、粗が気になります。
愛着があるからこそ、変わっていく風景を残念に思うこともあります。
何でもかんでも褒めちぎることだけが、愛情ではありません。
これは人間関係や、恋愛にも似ています。
本当に関心がなければ、相手に良くなってほしいとも思いませんし、腹も立ちません。
地元について何か文句を言いたくなる時点で、すでに自分との間に強いつながりがある証拠なのだと思います。
とはいえ、「気持ちだけで地域の魅力が勝手に伝わる」わけでもありません。
自分の地元について、大切な誰かに自分の言葉で話したいのであれば、やはり「知る努力」は必要になります。
それは、図書館にこもるような大げさな勉強でなくてもよいと思います。
地元の小さな歴史が書かれたパンフレットを1冊読んでみる。
昔よく通った通学路を、初めて訪れた旅行者のつもりでゆっくり歩いてみる。
毎日看板だけ見ていた、入ったことのない古い喫茶店へ思い切って入ってみる。
地元の友人に、「この街で1番好きな景色はどこ?」と聞いてみる。
それだけの小さな行動で、見慣れたはずの街の見え方は劇的に変わるはずです。
地域への誇りは、完成したパッケージの状態で突然手に入るものではありません。
知ることと、気づくことを少しずつ繰り返しながら、時間をかけてゆっくりと自分の中で育っていくものだと思います。
離れたからこそ、地元を見られることもある
僕は25歳で北海道を離れました。その後、本州のさまざまな地域で暮らしました。
新しい土地へ行くたびに、その土地特有の文化や習慣に驚き、触れてきました。
自分がずっと「日本の常識」だと思っていたことが、別の地域ではまったく当たり前ではないと知りました。
スーパーに並ぶ食べ物も違います。
交わされる言葉のイントネーションも違います。
人との心の距離感も、街に流れる時間のスピード感も違います。
外の世界へ出たことで、自分が育った場所の「特徴」や「輪郭」が、少しずつ客観的に見えるようになりました。
箱の中にいる時は、箱の外側と比べる対象がありません。
自分の暮らしが、世界の唯一の基準になります。
しかし、別の土地で暮らしてみると、その基準が1つだけではなかったと痛感します。
自分の地元を本当に理解するためには、1度その地元から物理的に離れることも、必要なステップなのかもしれません。
離れることで、初めて見えるものがあります。
毎日当たり前のように食べていた家庭料理の味を、遠く離れてから無性に懐かしく感じることがあります。
意識もしていなかった方言の響きを、都会の雑踏でふと耳にした時、泣きたくなるほど安心することもあります。
以前は「何もない退屈な場所だ」と嫌悪すらしていた風景が、急に恋しくてたまらなくなることもあります。
距離ができると、ぼやけていた景色に明確な輪郭が戻ってきます。
近すぎる時にはピントが合わず見えなかったものが、少し離れることで、ようやく全体像が見えるようになります。
ただし、離れただけで自動的に地元に詳しくなる魔法はありません。
ここは、今回の僕自身が見事に証明しています。
僕は北海道を離れて長い時間がたち、距離を置いたにもかかわらず、絶景を聞かれて答えられませんでした。
距離は、地元を見るための「きっかけ」をつくってくれます。
しかし、そのきっかけをどう使うかは、結局自分次第なのです。
外へ出て、新しい世界を知って終わりではありません。
いつか、足を止めて振り返る必要があります。
僕はこれまで、ひたすら前ばかりを見て走ってきました。
次の新しい場所。
次の大きな仕事。
次のエキサイティングな経験。
それは僕にとって、成長するための大切な生き方でした。
ただ、これからは少しだけ、立ち止まって後ろも見てみたいと思います。
振り返ることは、過去にすがりついて戻ることとは違います。
自分が一体どこから来て、何に形作られたのかを確認する作業です。
現在地を正確に知るためにも、自分の出発地点を知ることは、とても大切なことなのです。
絶景は、誰かに教えてもらって終わるものではない
今回の出来事のあと、僕はこっそりスマートフォンで「北海道 絶景」と検索すればよかったのかもしれません。
検索エンジンを使えば、美しく加工された有名な場所はいくらでも出てきます。
息をのむような写真も見られます。
効率的な行き方も、1番綺麗に見える見頃の時期も、5分で分かります。
それで、次にスタッフへ聞かれた時に、知ったかぶりをして答えることもできます。
しかし、それだけでは根本的に少し違うような気がしました。
僕が知りたいのは、検索結果のランキング1番上に出てくる、アルゴリズムが選んだ場所ではありません。
僕自身が自分の足で歩き、自分の目で見て、肌で感じて、自分の言葉で話せる景色です。
「あそこは有名らしいですよ」という伝聞ではなく、「僕は、あの場所で見たあの景色が好きです」と、主語を「僕」にして言える場所です。
この2つは表面上は似ていますが、本質的にはまったく違います。
「情報を知っていること」と、「経験を持っていること」の決定的な違いです。
誰かに何かを紹介する時、最終的に相手の心に伝わるのは、Wikipediaのような正確な情報の量ではありません。
その人が実際に何を感じ、どう心を動かされたかという「熱量」です。
仕事で誰かに何かを教えたり、提案したりする時でもまったく同じです。
マニュアルや資料を丸暗記して、立て板に水のごとく話すことは誰にでもできます。
しかし、自分が実際に苦労して体験し、深く考え、心から納得して紡ぎ出した言葉には、まったく別の次元の説得力が宿ります。
北海道の絶景についても、僕はネットから借りてきた綺麗な言葉ではなく、不器用でも自分の言葉で話したいと思いました。
そのためには、もう1度、自分の目で確かめに行く必要があります。
かつて生活者として暮らしていた場所を、今度は「旅する人の目」でじっくりと見てみたいです。
子どもの頃に走って通った道を、今度はゆっくりと歩いてみたいです。
当時は気にも留めなかった空の広さや、風の冷たさを、立ち止まって静かに眺めてみたいです。
そして、今も地元で暮らしている人たちにも聞いてみたいと思います。
「あなたにとっての絶景はどこですか」と。
有名な観光地の名前が返ってくるかもしれません。近所の名もなき丘かもしれません。
自宅の窓から見える、電線越しの夕焼けかもしれません。
誰も通らない、自分だけの秘密の散歩道かもしれません。
地元の魅力は、誰か1人の答えで完成するものではありません。
いろいろな人の、個人的でささやかな記憶が重なり合うことで、ようやくその地域らしさという大きな絵が見えてきます。
絶景とは、地図にピンが刺さっている1点ではなく、そこに生きる人々の記憶が集まり、交差する場所のことなのかもしれません。
地元を知らないことは、知り直す入口になる
今回、僕は北海道の絶景を聞かれて、無様に言葉に詰まりました。
最初は、ただ恥ずかしいだけのネガティブな出来事でした。
北海道出身だと名乗っているのに、何も知らない。
シビックプライドについて語っておきながら、自分の足元を説明できない。
言っていることと、やっていることが矛盾しているではないかと、自分を責めました。
ただ、ずっとそのことを考えているうちに、少しずつ見方が変わってきました。
答えられなかったからこそ、自分が地元をまったく見てこなかったという「事実」に気づけました。
痛い思いをして気づかなければ、これからもずっと、知ったかぶりをしたままだったと思います。
だから今は、あの時質問してくれたスタッフには、心から感謝しています。
本人は、ただ何気なく雑談として聞いただけでしょう。
しかし、僕にとっては、自分の過去と現在を繋ぎ直すための、非常に大きな問いになりました。
本当に良い質問とは、即座に100点の答えを返せる質問ではないのかもしれません。
その場では答えられず、持ち帰ってからお風呂の中や布団の中で、あとから何度も何度も反芻して考えてしまう質問こそが、人生を豊かにする良い問いなのです。
「北海道の絶景はどこですか?」
僕は、今もまだはっきりとは答えられません。
ただ、以前の僕とは少し違います。
答えを持っていない自分を、少し面白いと思える余裕が生まれました。
なぜなら、これから見つける楽しみができたからです。
「いい大人になってから、今さら地元のことを学び直すなんて遅すぎる」と思う人もいるかもしれません。
しかし、自分のルーツを知ることに締め切りはありません。
10代でその尊さに気づく人もいれば、30代で急に関心を持つ人もいます。
僕のように、ずいぶん時間がたって、遠くへ来てしまってから振り返る人もいます。
どれが正解ということはなく、それでよいのだと思います。
人は、自分にとって本当に必要なタイミングで、必要なものへ目を向けるようにできています。
10代や20代の若い頃の僕に、「地元をもっとよく見た方がいい」と説教しても、たぶん右から左へ聞き流したでしょう。
あの頃の僕の視線は、外の広い世界に向いていました。
あの時は、とにかく外へ飛び出すことが必要だったのです。
そして今は、外の景色をたくさん見てきたからこそ、ようやく地元を見直すための「準備」が整ったのだと思います。
人生には、その人にしか分からない絶妙な順番があるのです。
#大人の学び直し #自分のルーツ #良い質問 #人生のタイミング
というわけで
というわけで、今回は「北海道の絶景はどこですか?」と聞かれて、北海道出身の僕が戸惑ってしまった話を起点に、地域の見方について考えたことを書きました。
僕は北海道で生まれ、25歳まで暮らしていました。
それでも、北海道のことをほとんど知りません。
私たちの身近にあるものは、あまりにも当たり前すぎて空気に溶け込み、わざわざ知ろうとしなくなります。
地元の景色も、文化も、歴史も、ただ「そこにある」ということだけで安心し、あぐらをかいてしまいます。
しかし、当たり前にあるものが、ずっと永遠に同じ形で残るとは限りません。
景色は時代とともに変わります。
街の形も変わります。人も歳をとって変わります。
そして、それを見る自分自身の心も変わります。
だからこそ、見られる時にしっかり見て、記憶に留めておくことが大切なのだと思います。
自分の地元を知らないことは、一時的には恥ずかしいことかもしれません。僕もかなり恥ずかしかったです。
ただ、それ以上に大切なのは、「自分は知らないんだ」と気づいたあとに、どう行動するかです。
知らないと分かったなら、これから知ればよいだけです。
歩いてみればよいです。
詳しい人の話を聞いてみればよいです。
もう1度景色を見て、自分なりの言葉を持てばよいのです。
次に誰かから「北海道の絶景はどこですか?」と聞かれた時、僕はもう焦りません。
ガイドブックのランキングに載っている場所ではなく、自分が本当に好きだと思える、エピソードの詰まった景色を答えたいと思います。
その答えは、まだ見つかっていません。
これから時間をかけて探します。
もしかすると、僕にとっての絶景は、有名な観光地ではなく、昔から何度も通り過ぎていた見慣れた交差点や、名前もない原っぱにあるのかもしれません。
絶景が地元になかったのではありません。
僕が、日常の風景を「景色」として見ていなかっただけなのです。
地元を知るための旅は、飛行機に乗って遠くへ行く旅よりも、少し難しいかもしれません。
なぜなら、すでに見慣れてしまったものを、もう1度「新しい目」で見るという、視点の切り替えが必要だからです。
でも、その旅はきっと、どこへ行くよりも面白いと思います。
北海道で生まれた僕が、大人になってから北海道を知っていく。
ずいぶん遠回りをしましたが、なかなか悪くない順番です。
僕の本当の意味での地元探しは、どうやら今から始まるようです。
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