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無味メシ 第10話【感動】

 初夏の心地よい風が吹き抜ける、五月。
 度重なるトラブルを乗り越え、馬淵が自らペンを執り、主演を務めた劇団の公演は、無事に下北沢の小さな劇場で幕を開けた。
 そして今日、ついに千秋楽を迎えていた。

 昼公演を終え、熱気と埃、そして安物のドーランの匂いが充満する狭い楽屋。
 パイプ椅子に深く腰掛けた馬淵は、鏡越しのひどく疲労した自分の顔をじっと見つめていた。劇団員たちは買い出しや舞台の転換作業で出払っており、この古びた楽屋には、今は馬淵一人しかいない。

 カチ、カチ……。
 壁掛け時計の秒針の音が、妙に大きく響く。
 馬淵の膝の上には、画面の割れたスマートフォンが置かれていた。そこに表示されているのは、とある海外エンタメニュースの短い記事。
 ——『超大作配信ドラマ、東南アジアの巨大セットにて本日クランクイン』。

 馬淵は、目を閉じて深く息を吐き出した。
 今日。この千秋楽の日こそが、あの日、馬淵が分厚い茶封筒とともに手放した「狂気を孕んだ師匠役」の、撮影開始日だったのだ。

(……今頃、海の向こうの広大なセットでは、俺の代わりの役者が最高の芝居を打っているんだろうな)

 大自然に囲まれたロケ地。世界中から集まった一流のスタッフたち。そして、一生食っていけるほどの莫大な契約金。
 もしあの日、仲間たちとの貧乏鍋に背を向け、ベランダでレンのオファーを受けていれば。今頃自分は、この埃っぽい地下の楽屋ではなく、太陽の光が降り注ぐセットで、海外のレッドカーペットへ続く道を歩き始めていたはずなのだ。

 本当にこれでよかったのだろうか。
 仲間と一緒に、不味くて泥臭い飯を食いながら這い上がると、啖呵を切って残ったものの、役者としてのタイムリミットは確実に迫っている。自分にこれから先、あんな美味しいチャンスが舞い込むことなど、二度とあるのだろうか。いや、あるはずがない——。

 後悔の念が、胃の奥底からドロドロと湧き上がってくる。
 自分が書き上げた台本で、仲間たちと舞台を作り上げる喜びは確かにあった。しかし、それだけですべてがうまくいくほど、この世界は甘くはない。5年先、10年先……いや、1年先でさえも、同じように公演が打てるという確証はどこにもないのだ。
 現実の重みに押し潰されそうになりながら、馬淵が両手で顔を覆い、深い溜息をついた、まさにその時だった。

「………随分と、湿っぽい顔をしてるじゃないか」

 楽屋のドアが開き、場違いなほど重厚で、静かな威圧感を伴った低い声が楽屋に響いた。
 馬淵は弾かれたように顔を上げた。

 そこには、一人の初老の男が立っていた。
 仕立ての良さが一目でわかるダークスーツ。白髪交じりの短髪に、鷹のように鋭く、しかしどこか底知れない深みを持った眼光。
 それは、日本演劇界の生ける伝説、黒鉄巌男だった。

「く、黒鉄……さん……!?」

 馬淵はパイプ椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、直立して完全に硬直した。
 黒鉄巌男が、こんな小さな劇場の、しかも無名の貧乏劇団の千秋楽を訪れるなど、演劇界の常識では絶対にあり得ない、異例中の異例の事態だった。

 「く、黒鉄さん……ど、どうして、このような狭い劇場に……?」
 馬淵が震えた声で尋ねると、黒鉄の後ろから、プロデューサーの佐伯がひょっこりと顔を出す。彼は得意げに鼻の下を擦って言った。
「言っとくけど、俺が誘ったんじゃないぞ。今度馬淵の舞台があるって言ったら、黒鉄さんの方から『是非一度見ておきたい』って言ってくださったんだ」

 馬淵の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
 まさか、黒鉄巌男という男が、自分のような一介の無名俳優の芝居に、自ら関心を持って足を運んでくれたというのか。

 黒鉄は、狭い楽屋をぐるりと見渡し、壁に貼られた手書きの香盤表や、無造作に置かれた安物の小道具に目を留めていた。その目には、かつて自分が身をやつした泥臭く破滅的な日々への、言いようのない郷愁が滲んでいた。

 それから黒鉄はもう一度馬淵の方に向き直り、その目を真っ直ぐに射抜いた。

「…………泥臭くて、脂っぽくて、洗練とは程遠い舞台だった」

 黒鉄の重低音の響きに、馬淵は思わず身を固くした。その先の言葉を聞きたくなかった。自分が優れた役者ではないことなんて理解している。でも、自分にできることはこれしかないのだ。自分の持てるすべてを投じたものが、目の前の圧倒的な才能に完膚なきまでに否定されるのが、怖くてたまらなかった。

「…………だがな」
 黒鉄は、ふっと目尻を下げ、これまでに馬淵が見たこともないような、穏やかで柔らかな微笑みを浮かべた。

「…………なかなか、味のある役者になったようだな」

 馬淵は口を半開きにして、その場に固まった。
 黒鉄の口から発せられたその言葉は、どんな華美な装飾よりも、どんな難解な演劇論よりも、わかりやすく、これ以上ないほどに馬淵の心を射抜いた。
 目先の虚飾を捨て、仲間たちとの不味くて泥臭い現実を選び取った馬淵の覚悟。それが、間違いなくこの舞台の演技に血肉となって宿り、この生ける伝説の心を動かしたのだ。

 馬淵の目の奥が、急速に熱を帯び始めた。
 後悔の念も、未来への不安も、黒鉄のたった一言ですべて洗い流されていく。自分の選択は、俺の芝居は、間違っていなかった。

「あ、あ、あ……」

 馬淵は号泣しそうになるのをぐっと堪え、なんとか言葉を紡いだ。

「ありがとうございます……! 光栄です……!」
 馬淵は深く深く頭を下げた。涙がこぼれ落ちそうになるのを必死で堪え、床を凝視する。

 そんな馬淵の視界に、黒鉄がスッと一つの小さな紙包みを差し入れた。
 上品な和紙で包まれ、桐の箱に収められたそれは、見るからに只者ではない品格を漂わせていた。

「千秋楽の祝いだ。受け取りたまえ」
「こ、これは……?」
 馬淵は涙を拭って桐の箱を覗き込む。

「本来、『一之瀬』は持ち帰りはやっていないんだがな。私から無理を言って、特別に包んでもらった。……自家製の、栗蒸し羊羹だ」

 『一之瀬』。
 あの日、馬淵が極度の緊張のあまり、すべての味を取り逃がしてしまった、あの最高峰の割烹。そこの大将が、黒鉄のためだけに特別に作ったという、まさに幻の甘味。

「さあ、冷めないうちに開けてみろ。……まだ温かいぞ」
 黒鉄に促され、馬淵は震える手で和紙の包みを解いた。
 中からは、湯気をうっすらと纏った、艶やかな琥珀色の栗蒸し羊羹が姿を現した。小豆のふくよかな香りと、新栗の素朴で上品な甘い匂いが、安物のドーランの匂いが染み付いた楽屋を、一瞬にして極上の茶室へと変えていく。

 馬淵は、添えられていた黒文字を震える指でつまみ、まだほんのりと温もりを残す琥珀色の栗蒸し羊羹に、ゆっくりと切れ目を入れた。

 スッ……と、吸い込まれるように黒文字が沈んでいく。
 極限まで滑らかに裏ごしされた小豆と、ホクホクとした大粒の栗。

(……この温もりは、黒鉄さんからの、そして俺の選んだ泥臭い役者人生に対する、最高の『ご褒美』……)

 馬淵は、こみ上げてくる熱いものを感じながら、切り分けた羊羹をひとくち、口へと運んだ。
 舌の上に、温かくふくよかな質量が乗る。

 さあ、来い。
 この一年間、幾度となく味わってきた無味乾燥の地獄を終わらせる、極上の甘味と至福の時間が——。

 馬淵は目を閉じ、ゆっくりと咀嚼した。
 上品な弾力。舌の上でほどけていく小豆の粒子。そして、ホロリと崩れる栗の食感。
 物理的な情報は、これ以上ないほど完璧に口内に広がっていく。

 しかし。
 馬淵の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。続いて、嗚咽が漏れる。

(……あ、ああ……)

 極度の緊張、疎外感、刺激と激痛、他者の殺意、死の恐怖、焦り……そして罪悪感。
 それらすべてのノイズを遥かに凌駕する、人生最大級のポジティブなノイズ――「圧倒的な感動」という名の濁流が、馬淵の心の中を完全に満たしていた。

「……ひっ、ぐずっ……あ、あああ……」

 馬淵は、肩を震わせ、子供のようにボロボロと涙をこぼしながら、口の中にある温かい羊羹を飲み込んだ。

 黒鉄は、涙を流して羊羹を咀嚼する馬淵の姿を、満足げに見下ろしていた。
 若き役者が、至高の美味と自身の言葉に感極まり、むせび泣いている。そう思っているのだろう。

 馬淵は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、黒鉄を見つめ返した。
 そして、鼻水をすすりながら、心の底からの真実を口にした。

「黒鉄さん……。味が、しません……!」

 ぴたり、と。
 楽屋の空気が凍りついた。
 あまりにも予想外すぎる馬淵のセリフに、後ろに立っていた佐伯も「は?」と素頓狂な声を漏らす。
 黒鉄は、わずかに目を見開き、馬淵の涙まみれの顔と、食べかけの『一之瀬』の羊羹を交互に見つめた。

 数秒の、恐ろしいほどの沈黙。

 やがて、生ける伝説・黒鉄巌男は、静かに目を伏せ、短く、心底呆れたような溜息をついて、たった一言だけ呟いた。

「…………ならんな」

 初夏の風が、地下の楽屋を静かに通り抜けていく。
 大金よりも、名声よりも、不器用で泥臭い役者の道を選んだ男。しかし彼は、生涯最大の感動の中で、またしても「味」を取り逃がしてしまったようだ。
 これからも、馬淵の「美食道」、そして「役者道」は、続いていく。

【完】


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