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無味メシ 第4話【強制的なシャットアウト】

 これまでの三つの悲劇――息の詰まる割烹、爆音のパーティー、そして灼熱の中華円卓。それらを経て、三十代の舞台俳優・馬淵は、ついにひとつの真理にして到達点へと至っていた。

「——他者はノイズだ。美食とは、徹頭徹尾、孤独の中でこそ完成する」

 他人の目、同調圧力、見栄。そうした味覚以外の情報を極限までシャットアウトし、ただ目の前の料理と一対一でのみ対峙する。己の味蕾という繊細なセンサーの感度を最大まで引き上げるには、一人きりの空間で、周囲のありとあらゆる雑音を脳から締め出す「完全なる没入」が必要なのだ。

 深夜。馬淵がその「絶対的な孤独の美食」を実践する場として選んだのは、駅前にある、煌々と明かりを灯す二十四時間営業の牛丼チェーン店だった。
 「ウィーン」という安っぽい電子音とともに自動ドアが開くと、甘辛い醤油と煮込まれた牛肉、そして玉ねぎの匂いが混ざり合った、この国に生きる者なら誰もが知る特有の香りが、馬淵の空腹をダイレクトに鷲掴みにした。

 店内を見渡すと、コの字型のカウンターには、過酷な労働で生気を吸い取られたようなスーツ姿のサラリーマンや、飲み会帰りで顔を赤くした大学生たちが点在していた。彼らは皆、一様に死んだような目をしながら、あるいはスマートフォンの画面を無機質にスクロールさせながら、ただ「胃袋を満たす」という作業のために牛丼をかき込んでいた。
 彼らにとって、深夜の牛丼はただの燃料補給。肉の旨味も、出汁の染み込み具合も、彼らの脳には届いていない。

(哀れな奴ら……。お前たちは、この一杯の牛丼が持つポテンシャルの、ほんの一割も引き出せていない)
 馬淵は、彼らを心の中で見下し、哀れみながら、空いているカウンター席の奥へとゆっくり腰を下ろした。

 馬淵の視界は澄んでいた。彼は、ただ「食事」というノルマを果たしにここを訪れたのではない。この、一杯たった数百円というありふれた牛丼に宿る、ダシの深み、玉ねぎの甘み、そして薄切り肉の脂の旨味を、日本中の誰よりも深く、真摯に味わい尽くすという覚悟で訪れたのだ。
 彼は、狭い店内のカウンターの隅に、他者の介入を一切許さない絶対的な孤独の要塞を築き上げた。

「ゴチュウモン、オキマリデスカ?」
 名札にカタカナで名前が書かれた、東南アジア系の若い外国人アルバイトが、お冷をコトリと置いて尋ねてきた。
「牛丼の大盛り。……以上で」
 馬淵は、短く、力強く注文を告げた。余計なサイドメニューは要らない。卵のまろやかさすら、今の馬淵にとってはノイズだった。

 アルバイトが去ると、馬淵は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
 有線放送から流れる流行りのJ-POPも、隣の客が箸を動かすカチャカチャという音も、すべてを脳内から「強制シャットアウト」する。彼が今感じているのは、自らの舌の上に広がるわずかな唾液の感覚と、これから胃袋へと迎え入れる「完璧な牛肉」への強烈な渇望のみだった。

 馬淵はカウンターで目を閉じ、静かに「その時」を待っていた。
 厨房から微かに聞こえる、肉を煮込む小気味良い音。それが人類にとって、至福のファンファーレであることを、なぜみんな気づかないのか? ありふれた日常の中の一コマにこそ、今まで研究に研究を重ねて作り上げられた「究極の一杯」がある。五感を研ぎ澄まし、余計なノイズをすべて自ら遮断した今の自分の舌なら、そのポテンシャルを最大まで引き出し、最大級に感動できるはずだ。

「オマタセ、シマシタ。ネギタマギュウドン、デス」
 コトリ、と目の前に黒いプラスチックの丼が置かれた。
 馬淵がゆっくり目を開けると、そこにあるのは、飴色の玉ねぎと牛肉が黄金比で折り重なる、美しい大盛り牛丼ではなかった。

(あれ?)

 馬淵の視界を埋め尽くしたのは、一面に広がる「緑色」だった。
 丼の上には、牛肉を完全に覆い隠すほどの青ネギが、これでもかと乗せられている。ご丁寧に、生卵とコチュジャンベースの甘辛ダレまで添えられていた。

(……違う。俺が頼んだのは、『普通の大盛り』だ。こんな邪道なメニューじゃない)
 馬淵は、完璧な食事の計画に生じたノイズを素早く修正すべく、静かに口を開いた。

「あの、すいません。ネギ玉牛丼じゃなくて、私、普通の大盛りを頼んだんですけど——」

 馬淵が、若い外国人アルバイトに向かってそう言いかけた、まさにその瞬間だった。

 厨房から物凄い勢いで飛び出してきた中年男が、若いアルバイトの耳元に身を乗り出して叫んだ。
「また間違えたのかてめえっ!!!! ふざけんな、殺すぞっ!!!!!!!」

 それは、客商売の裏側で交わされる小言などという生易しいものではなかった。明確な殺意と、日頃のストレス、そして弱者への鬱屈した暴力性が限界突破して弾け飛んだ、鼓膜を突き破るような「本物の怒号」だった。

 バイトリーダーらしき中年男は、目を血走らせて、外国人アルバイトを穴が開くほど見つめている。説教ではない。ただ「殺す」という意思表示をした上で、相手の出方を窺っているのだ。アルバイトの青年は目に涙を溜め、その場に立ち尽くして震えていた。

 店内は、重い沈黙と、終わりのない気まずさに満たされた。
 有線放送のJ-POPも、肉を煮込むコトコトという音もいつの間にか遠ざかり、怒鳴り声の残響と、ヒリヒリするような静寂だけが空間を支配していた。

 馬淵は、自分が怒鳴られたわけではないことはわかっている。ただ注文を間違えられただけの、被害者だ。
 しかし、脳では理解していても、目の前の人間が放出した「剥き出しの殺意」は、アルバイトの彼だけでなく、この店内の空間すべてを切り裂き、二度と回復不可能なものに変えてしまった。馬淵は自分の交感神経が急激に跳ね上がっているのを感じた。心臓がまるで警鐘のように激しく打ち鳴らされる。

(あ……?)

 馬淵は目をぱちくりとさせ、まるで自分が深い水の中にいるような感覚に陥っていることに気づいた。
 耳の奥で、「キーーーン」という甲高い耳鳴りが鳴っている。脳が、許容量を超えたストレスから身を守るために、強制的な感覚のシャットアウトを始めたのだ。それは馬淵が望んだ「集中するためのシャットアウト」ではなく、自然発生的な「ショックによる遮断」だった。

 目を見開いて、瞬き一つせず若いアルバイトを見下ろしていた中年男は、まるで糸が切れたかのように急に無表情になり、「チッ」と短く舌打ちをして、厨房へと戻っていった。

 アルバイトの青年は手で涙を拭い、申し訳なさそうに馬淵の方へと向かってきた。
「スミマセン……スグ、作リ直シマス……」
 震える声で丼を下げようとする彼に、馬淵は咄嗟に首を横に振った。
「あ、いや……これでいいです……大丈夫です……」

 これ以上、この空間に波風を立てたくなかった。ただ、一秒でも早くこの凍りつくような空気を払拭したかった。
 馬淵は、耳鳴りが鳴り響く中、震える手で箸を割り、山盛りのネギと牛肉を口に放り込んだ。
 冷たいネギの食感。肉の温度。タレの粘度。
 物理的な情報は口内にある。しかし、そのどれ一つとして、脳の味覚中枢には届かない。

 ………味が、しない。

 絶対的な孤独の中で味わうはずだった至高の牛丼は、他者の放った強烈な殺意によって、またしてもただの「無味乾燥な固形物」へと成り下がってしまった。

 店内に張り詰めた、ガラスの破片が散らばっているような沈黙。その中で、馬淵はただ一人、機械仕掛けの人形のように顎を上下させている。

 シャキ、シャキ……。

 生ネギを噛み砕く、生々しい繊維の音。それらは自分の頭蓋骨の内側で虚しく反響し、やがて「キーーン」という耳鳴りの音に吸い込まれていく。
 コチュジャンベースの甘辛いタレも、生卵のまろやかさも、そして主役であるはずの牛肉の旨味も、今の馬淵にとってはすべてが「ノイズ」だった。
 図らずも、馬淵は完璧な「孤独の要塞」を手に入れていた。この空間では、他者の存在や気配、色も光も味すらも感じることはできない。

(……早く、ここから出なければ)

 馬淵は、ネギ玉牛丼の半分を無理やり水で流し込み、ついに箸を置いた。限界だった。いくら馬淵といえど、もはやこれ以上食に向き合う気力は残っていなかった。
 彼は透明な水の中を泳ぐように、伝票を持ってレジへと向かう。
 会計の場に立ったのは、先ほどアルバイトの彼に怒号を浴びせた中年のバイトリーダーだった。彼はどこも見ていない目で、千円札を受け取ると機械的な手つきで釣り銭を出した。途端に口元がにこやかになり、「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げる。馬淵はまるで怪異を相手にするように怯えた手で釣り銭を受け取ると、逃げるように自動ドアを飛び出した。

 店を出てもなお、馬淵の感覚は正常に戻らなかった。
 足取りは覚束なく、視界は奇妙にぼやけている。何より、あの不快な耳鳴りが、まだ頭の奥に居座ったままだった。
(……早く、アパートに帰って、横になりたい)
 朦朧とした頭で、馬淵はふらふらと横断歩道へ足を踏み出した。

 その時。
 右方向から、深夜の幹線道路を駆け抜けてくるトラックの強烈なヘッドライトが目に入った。

 通常であれば、クラクションの音や、アスファルトを削るブレーキの摩擦音が、脳に危険を知らせるはずだった。
 しかし、馬淵の世界は「強制的なシャットアウト」によって、いまだ深い無音の底にあった。

(——え?)

 馬淵がゆっくりと光の方向へ首を向けた次の瞬間。
 一切の音を伴わない、強烈で圧倒的な衝撃が、馬淵の身体をあっけなく宙へと跳ね飛ばした。

 まるでスローモーションのように夜空を舞いながら、馬淵の意識は急速に薄れていく。
 アスファルトに叩きつけられる直前、彼の脳裏を最後に掠めたのは、ネギ玉牛丼の緑だった。



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