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無味メシ 第8話【虚飾】

 メガ盛りラーメンのすり鉢に顔を沈め、鼻から極太麺を垂らしたあの悪夢のタイムアタックから数週間。
 馬淵の胃袋と精神は、ようやく平穏を取り戻しつつあった。そんな折、後輩のレンから食事の誘いが入った。

『馬淵さん、この間は災難だったらしいですね。今度は俺の奢りで、今めちゃくちゃ話題になってる自然派のオーガニックレストランに行きませんか? 心も体もデトックスされますよ』

 奢り。そして「話題のレストラン」。
 貧乏な舞台俳優にとって、この二つの単語は魔法の呪文に等しい。それに、脂とニンニクの暴力で傷ついた馬淵の消化器官には「自然派」という響きがひどく優しく感じられた。素材本来の甘み、土の香りを感じる根菜の滋味。たまにはそういう静かな美食も悪くない、と馬淵は二つ返事で快諾した。

 しかし、指定された表参道の路地裏にあるレストランに足を踏み入れた瞬間、馬淵は強烈な「居心地の悪さ」に襲われた。

 店内は白と白木を基調とし、壁一面には過剰なまでの観葉植物が配置されている。まるで温室のような空間だ。
 そして何より異様なのは、客層と、そこに響く「音」だった。
 店のテーブルを埋め尽くしているのは、洗練されたファッションに身を包んだ若い女性や、モデルのような男たちばかり。そして店内には、食器の触れ合う音や歓談の声ではなく、絶え間ない「カシャッ、カシャッ」というスマートフォンのシャッター音だけが、まるで初夏の蝉時雨のように降り注いでいた。

(……なんなんだここは。誰も、飯を食っていないじゃないか)

 若い客たちは写真を撮り終えると、目の前の料理を無視してスマホをスワイプし、今撮った写真をSNSにアップロードしている。まるで「もう目的は果たした」とでも言わんばかりだ。

 馬淵が眉をひそめながら案内されたテーブルに向かうと、そこにはさらに大きな違和感が待ち受けていた。

「お疲れ様です、馬淵さん。ここ、めちゃくちゃ波動が高いんですよ」

 片手を上げて微笑むレンの姿に、馬淵は思わず二度見した。
 生成りの麻でできたゆったりとした民族衣装のような服を纏い、首からは巨大な謎の原石のネックレスをぶら下げている。手首には、数珠のような木製のブレスレットが何重にも巻かれていた。見るたびに雰囲気の変わっている男だが、さすがに今回はイメチェンの度が過ぎるだろうと、馬淵は訝しげにレンの向かいに座った。

「お前……なんだその格好。なんか怪しい壺でも売りつける気か?」
「いやだなあ、壺なんて売りませんよ。最近、自分の内なる声に従うことにしたんです。ほら、食事って結局『エネルギーの摂取』じゃないですか。肉とか添加物を摂ると、どうしてもチャクラが濁っちゃうんですよね」

 チャクラ。
 馬淵の辞書には存在しない、極めてスピリチュアルな単語。
 レンは真剣な顔でウンウンと頷きながら、運ばれてきたハーブティーらしき謎の緑色の液体を馬淵に勧めてきた。

「俺、最近ヴィーガンになったんです。大地のエネルギーを直接取り込むことで、演技のインスピレーションも、宇宙から直接降りてくる感覚があって……」
「お、おう……そうか。宇宙から、ね」
 馬淵は引き攣った愛想笑いを浮かべ、緑色の液体をすする。薄い草の味がした。ヴィーガンももう少しまともなものを食べてるんじゃないのか、と馬淵は思った。

「お待たせいたしました。『大地の恵みと、目覚めのフラワーサラダ』でございます」

 店員が、恭しく巨大な純白のプレートをテーブルに置いた。
 馬淵は息を呑んだ。
 その皿の上には、色とりどりの野菜のペーストが絵の具のように飛び散り、精密なピンセットで配置されたであろう紫や黄色のエディブルフラワー(食用花)が、まるで前衛芸術のアート作品のように飾り立てられていた。

「うわぁ、すごい! 完璧なマクロビオティックだ」
 レンが感嘆の声を上げ、当然のようにスマートフォンを取り出してシャッターを切り始めた。

 馬淵は、絵の具のようなソースと花びらを見つめながら、静かにフォークを握りしめた。
 チャクラだの、波動だの、写真映えだの。そんなことは俺の舌には関係ない。重要なのは味だ。料理である以上、そこには必ずシェフの情熱とこだわりが存在するはずだ。

 馬淵は、意を決して、紫色の花びらと謎のペーストをフォークで掬い、口へと運んだ。
 舌のコンディションは悪くない。極度の緊張もないし、致死量の唐辛子も口内に潜んでいない。馬淵の味蕾は、今度こそ純粋に料理と一対一で向き合う準備ができていたはずだった。

 しかし。

 馬淵はゆっくりと顎を動かした。
 シャクッ、という微かな花びらの歯ごたえ。そして、冷たくて滑らかなペーストの舌触り。物理的な食感は、確かに口内に存在している。それなのに。

 ……味が、しない。

 馬淵は目を白黒させた。
 これまで彼を苦しめてきた「味覚の喪失」とは、根本的に種類が違っていた。
 馬淵の舌は正常に機能している。味を感知するセンサーは、間違いなくフル稼働しているのだ。それなのに味がしない。

 塩気もない。酸味もない。素材本来の甘みすら、極限まで薄められている。ただの「湿った紙」と「冷たい絵の具」を噛み締めているような、絶対的な虚無がそこにあった。
 馬淵は信じられない思いで、皿の端に添えられた緑色のソースを舐めてみた。……ただの青臭い水だった。

(なんだこれは。料理人の鼻が詰まってるのか? それとも、俺の舌がジャンクフードに毒されすぎたのか?)
 馬淵は混乱しながら周囲のテーブルを見渡した。

 カシャッ、カシャッ。
 絶え間なく切り続けられるスマートフォンのシャッター音。
 洗練された服を着た客たちは、色鮮やかな無味のペーストを口に運びながら、誰も「美味しい」とは口にしなかった。「綺麗」「可愛い」「身体に良さそう」――飛び交うのは、すべて視覚と概念に対する賛辞ばかりだ。

 彼らが摂取しているのは、カロリーではない、記号だ。それを食べている自分自身の『洗練されたライフスタイル』を求めてここに来ているのだ。
 味というノイズなど、最初からこの空間には求められていない。味付けという行為自体が、最初から「ノイズ」として意図的に排除されているのだ。

「どうですか馬淵さん。優しいエネルギーを感じませんか?」
 目の前で、レンが恍惚とした表情で黄色の花びらを咀嚼しながら微笑みかけてきた。

 馬淵は、目の前の後輩の姿が、この皿の上の料理と完全に重なって見えた。
 かつては泥臭く舞台の上に立っていたはずのレン。だが今の彼は、意味不明なアクセサリーで自分を飾り立て、チャクラだの波動だのという「記号」を身に纏い、中身の伴わない虚像を演じている。

(……こいつは、この料理と同じだ。見た目だけを綺麗に飾り立てて、一番大切な「人間としての味」がすっぽり抜け落ちている)
 馬淵は、役者の先輩として、そして一人の表現者として、このまま黙って見ているわけにはいかなかった。表現の核を見失い、虚飾に塗れた後輩の目を、自分の手で覚まさせてやらなければならない。

「……レン。お前な」
 馬淵は、冷たい無味のペーストを胃の奥へ流し込み、静かに、だが強い決意を込めて口を開いた。
「お前もそんな、見た目ばっかり着飾ってないで——」

 馬淵が核心を突こうとした、まさにその矢先だった。

「——馬淵さん」

 レンが、馬淵の言葉を遮るようにスッと背筋を伸ばした。その顔からは先ほどのフワフワとしたスピリチュアルな笑みは消え去り、代わりに、ビジネスの最前線に立つ男の、妙に生々しく真剣な眼差しが覗いていた。

「馬淵さん、よく聞いてください」

 説教する気満々で口を開いていた馬淵は、その真剣な表情に気圧され、完全に固まっていた。

「劇団を辞めて、俺と一緒に海外に行きませんか」

 レンは短く、はっきりとそう告げた。

「……は?」
 馬淵が持っていたフォークの先に乗っていた紫色の花びらが、ポトリと落ちた。

 ……海外? 劇団を辞める? 何を言ってるんだこいつは?
 目を泳がせて固まっている馬淵の姿を見て、レンはあたかも予想していたかのように説明を続けた。

「実は今、海外資本の配信ドラマの企画が動いてるんです。大自然を舞台にした、人間の業を深く掘り下げる群像劇で。東南アジアの山奥に巨大なセットを組んで、一年間、キャストもスタッフも完全な泊まりがけで撮影に没頭するプロジェクトなんです」

 レンは、首から下げた巨大な原石のネックレスを弄りながら、淡々と言葉を続ける。

「そのドラマの中で、主人公の師匠にあたる、泥臭くて狂気を孕んだ男の役があるんです。監督が『無名でもいいから、どこかに本物の芝居バカはいないか』って探してて。俺、宇宙の導きを感じたんです。それで、馬淵さんを激推ししたんですよ。そしたら、馬淵さんの過去の舞台映像を見た監督が、『この男でいこう』って」

「俺が……一年間、海外ドラマのメインキャスト……?」

 三十代、売れない小劇場俳優。
 オーディションの書類選考すら通らない日々を送ってきた馬淵にとって、それは宝くじの特賞を直接手渡されるような、ひどく現実離れした言葉だった。

「一年間拘束されるんで、今の劇団やバイトは辞めてもらうことになりますけど……環境は保証します。それに、これ」

 レンは、生成りの麻服の懐から、分厚い茶封筒を取り出し、無味乾燥な野菜ペーストが広がる皿の横にドサッと音を立てて置いた。
 分厚い。異様に分厚い。馬淵の貧弱なアパートの家賃なら、何年分払えるか分からないほどの厚みと質量がそこにあった。

「契約金の前金です。向こうのプロデューサーが、馬淵さんの生活の心配をなくすためにって、すでに用意してくれました。もちろん、全編撮り終わったら、この桁がもう一つ増えます」
「…………」

 カシャッ、カシャッ。
 周囲のテーブルからは相変わらず、虚栄心を満たすためのシャッター音が響き続けている。
 しかし馬淵は、そんな音は耳に入らず、目の前に置かれた茶封筒から目を離せなかった。

 数秒前まで、レンのことを「中身のない、味のしない役者」だと軽蔑し、説教を垂れようとしていた。チャクラだの波動だのというスピリチュアルな虚飾を嘲笑い、芸術のなんたるかを語って反省させてやろうと思っていた。
 しかし、目の前の後輩が提示してきたものは、そんな薄っぺらいプライドを木っ端微塵に粉砕するほどの、圧倒的で、暴力的で、抗いがたいほどの『旨味』だった。

 目の前には、究極に無味乾燥な料理と、圧倒的な旨味。

 馬淵はゆっくりと顔を上げた。
 数珠を巻き、謎の石をぶら下げたレンの胡散臭い姿が、今はまるで、自分を泥沼から救い出してくれる後光の射した大天使のように見えていた。

「……レン」
 馬淵の喉が、ゴクリと大きく鳴る。
「……その、海外のロケ地っていうのは……飯は、旨いのか……?」
 レンはまたも質問を予想していたように、穏やかに笑った。
「最高ですよ。専属のシェフが毎日一人一人の好みに合わせた食事を作ってくれます」

 完璧だ。馬淵は思った。
 いや、正確には、思うよりも前に、彼の右手はすでに分厚い茶封筒の方へと、ゆっくりと伸び始めていた。 


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