急に具合が悪くなる理由(貧血)と予防N
シャガールの絵に描かれた、灰色がかって不鮮明な「裁きの天使」のように、放射性降下物の灰は風と雨によって、まだこの時にも拡散されていたのだ。シャガールの雲にあるヘブライ語の文字ではなく、元素の周期律表の文字が放射性ヨウ素、セシウム、ルテニウム、プルトニウム、ストロンチウムなどと、毒性の混合物を描いている。天使は羽ばたき、その影はベラルーシの地図の大部分を暗くし、南へ、東へ、そしてシャガールの故郷ヴィツェブスクに向かって北上していった。


抗がん剤の副作用による肺間質へのダメージ(間質性肺炎など)や、心肺機能の低下、そして何より造血幹細胞の抑制による「貧血」が、体内からのCO排出と酸素運搬を絶望的に困難にします。健康な人(トレーニングをしている人)であれば、標高1000mでの VO2max の低下は数%程度であり、安静時にはほとんど影響を感じません。しかし、がんの進行や抗がん剤によりヘモグロビン(Hb)値が正常の半分(例:14 g/dL から 7 g/dL)に落ちている患者の場合、平地にいる時点ですでに「標高3000m〜4000m」に相当する酸素運搬能力の低下を起こしています。その極限状態において、低気圧(台風や爆弾低気圧で 970 hPa 程度まで下がる)が到来することは、健常者がいきなり富士山の山頂にワープさせられるような深刻なインパクトを持ちます。初期の高山病に似た症状(頭痛、強い倦怠感、息切れ、あくび、思考力の低下)は、この「ギリギリの酸素供給」が低気圧によって閾値を下回った瞬間に一気に表面化。


ヨハネ目次録には、「この世の終わり」に「苦よもぎ」という名の星が落ちてくるという記述がある。「苦よもぎ」をチェルノブイリという

一九八六年、チュルノービリ(チェルノブイリ)で原子炉火災が起きたとき、彼(※アナトリー・グラシュチェンコ)は有害な放射性ガスを吐き出している原子炉の排気口のひとつに、砂とコンクリートをヘリコプターで投下する任務についていた。原子炉をセメント漬けの石棺に変える任務だ。彼はおそらく、頭のてっぺんからつま先まで、鉛の防護服で覆われていたはずだが、放射能は防護服を貫いて彼の身体へ達し、そして骨髄へ到達した ※引用者加筆.

アインシュタインは次のように書いている。「人が芸術や科学へ向かう最大の動機の一つは、ひどくがさつでどうしようもないほど憂鬱な日常生活から逃れることだ。・・・・・一人一人がこの宇宙とその構造を自分の感情の中心に据えることで、混沌とした狭い個人的経験では得られない安心と安全を見つけるのだ」


シャガールを最初にピカソに紹介したのは詩人のアポリネールだったようだ(中略)キュビスム時代のピカソ側からすれば、シャガールは「詩人」なのである。これは揶揄の言葉で、絵の内容に「文学的なもの」を見てしまってこれを嫌っているのである(中略)デイヴィット・ロックフェラーは一九六〇年に亡くなった父を記念して、ハドソン・ヴァレーのポカティコ丘陸にある、一族ゆかりのユニオン教会のステンドグラス窓のデザインを担当する芸術家を探していた。

画家と詩人は、同じグループに属していることが少なくない。

「彫刻的だ、というのは画家が述べる最高の賛辞である」というピカソ(中略)ピカソは常に詩を求め、詩人たちを引きつけていた。ピカソと初めて会った時にアポリネールが驚かされたのは、この若いスペイン人の「言葉の障害を飛び越え」、朗読された詩の肝心な部分を理解する能力である。

ピカソはシャガールとも知り合ったが、よそよそしい態度を崩さなかったのは、シャガールがドローネー、メッツァンジェと連携する立場をとったからだろう(中略)ピカソはいつでも他の画家の考えていることを徹底的に調べ、必要とあらば他人のやり方も試してみようという意欲満々だった(中略)他のキュビスト ジャン・メッツァンジェ、アンリ・ル・フォーコニエ、マリー・ローランサン、フェルナン・レジェ、アルベール・グレーズ、ロベール・ドローネー(中略)(※ファン・)グリスはキュビスムの開拓者として、ピカソやブラック (グリスはブラックの「フランス的な」絵描きらしさを妬み半分に尊重した)と肩を並べるまでにはいたらなかったにせよ、努力を重ねて第三の男になりおおせた (※グリスは洗濯船で暮らしていた)。※引用者加筆.

「洗濯船」には驚くほどさまざまな人々が住んでいた。画家、彫刻家、詩人、洗濯女、八百屋・・・・・・。文無しであることだけが彼らの共通点だった。助け合い、議論し、噂話をし、ある時には情熱的なドラマがくりひろげられた。

(※ピカソは)ジャコブと出会うまでフランス文化の迷宮を案内してくれる知り合いをもたなかった。それが今になってようやく、興味深い話の宝庫のような案内役と巡り合った(中略)ピカソが不自然でもなければ、ウィットにも富み、ときには雄弁にも聞こえるフランス語を (強いスペイン語訛りは消えなかったとはいえ)なんとか話せるようになったのは、ひとえにマックス・ジャコブの個人指導の賜物だった(中略)詩人(※ジャコブ)はピカソと初めて出会ったときのことを、かなり詳しく書き残しているけれども、絵描き(※ピカソ)と恋に落ちたことだけは黙して語らない(中略)ジャコブは頼まれれば歌手にも歌の先生にも、ピアニストにも、喜劇役者にもなれたし、パーティーとなればひとりで雰囲気を盛り上げました。よく即興でちょっとした芝居を演じ、主役はいつもでも本人が務めるのです(中略)ジャコブはどんなオペレッタも、どんなオペラも知っていたし、ラシーヌとコルネイユの悲劇も、喜劇もみなそらで覚えていました(中略)ピカソと出会ったころ、ジャコブはフルール河岸の屋根裏部屋(床はスケートリンクのようにつやつやしていた)で極貧生活を送っていた(中略)ピカソは素晴らしいシルクハットを被っていて、のちにこれをわたし(※ジャコブ)にくれた。ピカソはいつも好んで安価な服を身につけ、それを力仕事に従事する労働者向けの商店で買うのを常としたが、シルクハットはお洒落の最後の仕上げにあたる(中略)(※ジャコブとサルモンは〔洗濯船〕)という渾名の名づけ親とされる。ジャコブは初めてこの建物を訪れたとき、窓の外に並ぶ果てしない洗濯物の列を見て、この名を思いついた。サルモンのほうは、がらんとした屋形船の趣から連想したという(中略)ガスも電気もなかった。事故も珍しくなく、とくに冬は頻繁に起こった。アトリエのなかはしんしんと冷えて、グラスに入れた水も凍るほど。天窓に積もった雪を払おうとして屋根に上り、誤って排気口に落ちて死亡したドイツ人画家がいた。その穴には何人もの酔っぱらいが落ちて死んだとピカソは言う。※引用者加筆.

一九五〇年までにはピカソとマティスの関係性は、ある傍観者によると、「いうなれば、王様同士の関係だった」(中略)一九五〇年春、シャガールたちは引っ越した(中略)シャガールは自分より有名なふたりの隣人ピカソとマティスの芸術のみならずライフスタイルを痛いほど意識するようになる(中略)(※シャガールは)ピカソとマティスの中間点に住みながら、不安と嫉妬にさいなまされた。その間、(※シャガールの娘)イダは懸命にふたりの老画家(※ピカソとマティス)の誘惑にかかった。娘がマティスによる素描の連作のためにモデルを務めたことをシャガールは誇ると同時に嫉妬した(中略)フランスソワーズ・ジローの言では、「イダはパブロ(※ピカソ)のために魅力を全開し、いかに彼の作品が自分にとって意義深いかを語ってきかせました。 ・・・・・・なかなか肉感的な姿態で、豊満な曲線を誇っていて、パブロを崇拝しているように彼にかしずきました。しまいには、パブロ は彼女の意のままに扱われ、自分がシャガールをどんなに好きかを彼女に語りだす始末でした」(中略)(※ピカソは)ジローにこう述べる。「マティスが死んだら、色彩の何たるかがほんとうにわかる画家はシャガールだけになる。雄鶏だのロバだの空飛ぶヴァイオリン弾きだの、あの民話的モティーフは好かんが、あの男のカンヴァスは単にいろいろ放り込んでいるわけじゃない。真に描かれているんだ。最近のヴァンスで制作した作品を見ると、シャガールほどの光りへの感覚を持ち合せた画家はルノワール以来だとの感を強くした」(中略)マティスはピカソよりもずっと愛想よくつきあった(中略)シャガールはピカソをめったに褒めなかった (ジローにはこう述べた。「あのピカソってやつはなんという天才だ(中略)一九六三年、デイヴィット・ロックフェラーはヴァンスのシャガールの家を訪れ、一族の教会のために「善きサマリア人」を主題としたステンドグラス窓を依頼した(中略)シャガールは生涯、マティスを尊敬しつづけ、ジャン・カスーによると、ふたりの友情は穏やかで微笑みに満ちていた。年長の画家がくれた大きな灰色の白の猫でさえ、レ・コリーヌ荘で厚遇され、多くのペットの中で一匹だけ名前を与えられ、つねに「マティスの猫」と呼ばれた(中略)マティスはカトリック教会相手に長年闘い、ステンドグラスの専門家で指導的立場の改革者のドミニコ会修道士マリ=アラン・クチェリエ師の助力を得てはじめて勝利した(中略)クチェリエは進歩的な考えを抱き、「信仰なき天才は才能なき信仰者に勝る。偉大な芸術家はそれぞれの方法で偉大な精神を備えた存在であるからして」「 われわれはありのままの彼らを認めねばならぬ。 ・・・・・・ほとんどキリスト教徒とはいえないにせよ」と公言(中略)共産主義者やユダヤ教徒や無神論者や上記を兼ね備えた一握りの芸術家たちによる装飾がすでに施されていた。※引用者加筆.

一九一〇年にパリにきたシャガールは回想している。モディリアーニもまた、自分が異邦人でアウトサイダーであることを鋭く意識していた(中略)「食いすぎは僕にとって唯一の薬なんだ」 彼(※モディリアーニ)は彼女にそういった。彼が自分の病気について話すのはこれがはじめてだった(中略)「人生はほんの一握りの人間から大勢の人間への贈り物だ。持ち、知る者から、持たず、知らざる者への。」モディリアーニ自身のことばではないとはいえ、これは彼自身を象徴することばであり、ルニアもおそらく彼と同じような考えを抱いていたのであろう(中略)「君も絵を描いているんだろう」ルノワールは穏やかにいった。モディリアーニはうなずいた。「絵は楽しみながら描くもんだ。女を抱くときの楽しさと同じだ。僕は絵を描く前には、何時間も尻を観察するんだ・・・・・・ 」───ルノワール(中略)ピカソは、モディリアーニの無法ぶりをとがめて頻繁に拘引した警官が、葬列がゆっくりと通りすぎるのを直立不動の姿勢で見送ったのを見て、「見たかい。 モディは今復讐したんだ」とカルコにささやいた(中略)ブレーズ・サンドラールは「私は彼のことが非常に好きだったから、この愛情を彼の娘に振り向けよう」と述べている(中略)モディリアーニはお洒落を楽しみ、どんなにみすぼらしいぼろ服でも印象深く見えるような、なにげない流儀で着こなす術を心得ていた。 彼が「身だしなみを知っている唯一のパリの芸術家である」とはピカソの評である(中略)彼は人に覚えられるために、お洒落をしたり他人のまねをする必要はなかった。愚かなことには皮肉で答えるが、彼はウィットに富み、元気と活力に満ちた魅力的な友人となった。当時彼を知る者は誰一人として、彼がロマンティックな伝記に出てくる悲劇の英雄だとは思わなかったであろう(中略)パリで有名な近代的な芸術家たちが労働者の上っ張りを着ているなどということはつゆ知らなかったのである(中略)画家ヴラマンクは、モディリアーニは決してその気高さを失うことはなかったと主張している(中略)モディリアーニは貧乏には違いないけど、貴族的な雰囲気を持っているんだ」バクストはモディリアーニをあたかも燃え盛る炎で顔を照らし、走り抜ける馬車のごとく誉めたたえた(中略)モディリアーニは宗教を実践することはなかった。※引用者加筆.





ピカソのパリ時代の最初の恋人、フェルナン・オリビエは、モディリアーニの下宿の様子を著書『ピカソとその友達』にこう記している(中略)カーテンはなかった。



世界レベルのアスリートたちにインタビューする機会に恵まれた。世界有数のランナー、スキー選手、ロードレーサー、サーファー、カヤック選手、登山家など、そうそうたる顔ぶれだ。だがブラッドの予想に反して、彼らの日々の習慣は千差万別だった。熱心にヨガをやる人もいれば、ストレッチなどやったことがないという人もいる。グルテンフリーを実践するベジタリアンもいれば、赤身肉を中心とした食生活を送る人もいる。氷水を張ったバスタブ(アイスバス)につかる人もいれば、温熱療法を好む人もいる。しかし、全員に一致する点が一つだけ見つかった。睡眠だ



二〇一七年、世界でもっとも高価なボトル入り飲料水はなんと七五〇ミリリットルで六万ドルだった。この「アクア・ディ・クリスタッロ・トリビュート・ア・モディリアーノ」という水は、イタリアの芸術家モディリアーニによる作品をモデルにしてデザインされた、二四金製のボトルに入っている。水自体はフィジーとフランスのナチュラル・スプリングウォーターとアイスランドの氷河の水をブレンドしたもののようで、さらに5ミリグラムの金粉が入っているという(中略)数年前、アメリカのスノーボーダーであるオースティン・スミスとブライアン・フォックスは、「ドリンク・ウォーター」という会社を立ち上げ、もっと水を飲むようみなに呼びかけた。これは、エナジードリンクのメーカーがスノーボード選手のスポンサーになることが多くなり、そうした企業によるマーケティング活動に不信感を抱いていた彼らがそれに対抗してはじめたことだ(中略)まず「水を飲もう」というメッセージを自らスノーボードに書き入れるとともに、ステッカーをつくった。そしてついには、このメッセージの書かれた数々のスノーボード用品を販売(中略)おそらく彼らはボトル入りの飲料水も販売したのだろう、とあなたは思ったのではないだろうか? だが実際には違った。いわく「けっして水は売らないと決めている。僕たちは水道から水を飲むことを選んだんだ」と本人たちは言う

問題を起こすのは「ならず者」である


将棋に「成る」というルールがあります。上級者は、あえて「成らず」という手も使います。成らないことで、香車や桂馬や銀は、金よりは、動きが制限されますが、その駒独自の動きを、生かすことができるのです。成金になれる時でも、あえて「成らず」を選べば、人生の有段者。


ネット上の縦社会では、貧しいほうの勝ちとなります。


あなたが生まれた日に、神様がコインを投げて賭けをしたとしよう。表が出たら、あなたは生涯究極の正直者を通すが、あらゆる人々からならず者だと思われる人になる。裏なら、常習的なうそつきなのに、模範的な人物と見なされる。さああなたは、どちらの人生を選ぶだろうか? 西洋哲学史で、人類にもっとも大きな影響を与えてきた書物の一つ、プラトンの『国家』は、表を選ぶべきだとする議論を長々と展開している。彼によれば、徳が高く見えるより、実際そうであるほうが重要なのだ。


「アカデミック」という言葉は、講義や討論のために学者が私的に集まったオリーブの木立にちなむ、プラトンの「アカデメイア」に由来

プラトンは自身が主催するアカデメイアの扉に、次のような言葉を彫らせていたいう。「幾何学を知らざる者、入るべからず」

ユートピアという言葉は、プラトンの『国家』(岩波文庫)に想を得たトマス・モアの本のタイトルにちなんだものだ。ユートピアという言葉はギリシア語で、「どこでもない所」または「いい場所」などと訳される。

ギリシャの人は現在のギリシャ本土やイタリア南部にいくつもの都市国家を築いていた。しかしそこは片田舎にすぎず、ギリシャ文明の中心地は、ギョベクリ・テペやチャタル・ヒュユクから西に数百キロしか離れていない現在のトルコのイオニア地方だった。ギリシャの最先端の文明は、エーゲ海やさらには地中海につながるラトムス湾に面した、ミトレスという都市で花開くこととなる(中略)紀元前六〇〇〇年にはミトレスはいわば古代のニューヨークとなり、よりよい生活を求める貧しく勤勉な移民がギリシャ全土から集まるようになった(中略)ミトレスは、単なる交易の中心地というだけでなく、考えを共有する場でもあった。この都市では何十もの多様な文化の人々が出会っては言葉を交わし、ミトレス人もさまざまな地へ旅して多様な言語や文化に触れた(中略)このようにいくつもの好条件が組み合わさったことで、ミトレスは国際的で洗練された楽園であると同時に学問の中心地となり、思考の革命に必要なあらゆる要素を完璧な形で生み出したのだった(中略)真実と思われる事柄の一つは、ピタゴラスはミトレスから湾を隔てたサモス島で育ったということだ。また古代の伝記に共通する記述として、ピタゴラスは一八歳から二〇歳のあいだに、年老いて死期が近づいていたタレスのもとを訪ねた(中略)四〇歳のとき、暴君ポリクラテスのもとでの生活に耐えられなくなったピタゴラスは、サモス島を離れ、現在のイタリア南部にあったクロトンへたどり着いた(中略)偉大なギリシャ人学者の中でも、その後の科学の発展にとって飛び抜けて大きな影響力を発揮したのは、その方法論を考え出したタレスでもなければ、そこに数学を持ち込んだピタゴラスでも、さらにはプラトンでもなかった。それは、プラトンの弟子でのちにアレクサンドロス大王の個人教師となる、アリストテレスだった。ギリシャ北東部の町スタゲイロスで生まれたアリストテレス(中略)プラトン以降、「アカデミー(※アカデメイア)」という言葉は学び舎を意味するようになったが、当時は単に、アテナイ郊外にある木立が並んだ公共の庭園の名前でしかなかった。プラトンとその弟子たちはその庭園によく集まり、アリストテレスも二〇年にわたって通いつづけた(中略)アレクサンドロスが侵略した頃、近東には何千年も昔からウルクなどいくつもの都市が点在していた(中略)この地域の中央には大地の長いくぼみが走っていて、そこをチグリス川とユーフラテス川およびそれらの支流が流れ、豊かで肥沃な平地を作っている。その平地を、古代ギリシャ語で「川のあいだ」を意味するメソポタミアという(中略)ペルシャ湾の奥に広がる湿地のすぐ内陸に建設されたウルクは、初期の都市の中でももっとも繁栄していた(中略)考古学者が発見した建造物や遺物から見て、ウルクの人口は五万から一〇万、チャタル・ヒュユクの一〇倍に増えていたと思われる。現代なら小さな都市にすぎないが、当時はニューヨークやロンドン、あるいは東京やサンパウロのような存在だった(中略)革新的なブレークスルーを起こすには、誰もが真実だと信じている事柄に逆らって、古い考えを新しい信頼できる考え方に置き換えようとする意欲がどうしても必要である(中略)ガリレオは医学よりも数学に興味を持ち、エウクレイデスやアルキメデス、さらにはアリストテレスの著作を教える個人授業を受けるようになった。※引用者加筆.


タレス(※ソクラテス以前の哲学者)を裕福にしたのは、根拠に基づく農業予測だった。彼はイオニアのミトレス地域の気象パターンを研究 ※引用者加筆.



気象に関する深い知識が必要だ(中略)観天望気とは、雲の形や動き、空の様子、風の方向や強さ、気温の高低などから天気を予測すること(中略)気象条件は、ある程度決まっているので頭に入れておこう。


映画『3月のライオン』と甲田医師の記憶力に学ぶ——私たちが「note」を活用すべき理由
映画『3月のライオン』では、主人公がカーテンのない部屋で生活する描写があります。そして物語の後半、豊川悦司さん演じる父親が、一度は途中で投げ出された将棋の棋譜を記憶をたどって並べ直し、「まだ挽回する手があったのだよ」と諭す印象的なシーンが登場します。

この圧倒的な記憶力の演出を目にしたとき、私は甲田光雄医師の姿を思い出しました。甲田医師もまた、メモすら見ずに細かな数字をすらすらと言いながら書き写すほどの驚異的な記憶力の持ち主でした。
しかし、私たち凡人は違います。だからこそ「記憶力に頼らない仕組み」としてnoteを活用するべきなのです。特に持病やご病気を抱えている方は、ご自身の病気や体調についてのまとめや記録を自分で書いて残すことをおすすめします。記録するプロセスそのものが、理解を深め、記憶を整理することに繋がるからです。
かつては、プログラムが書けなくても専門家に外注したり指導を受けたりしながら、コードをコピーして苦労してWebサイトを立ち上げていました。プロの写真家から素材を購入して動画やサイトを用意するなど、ひとつの発信・記録媒体を作るだけでも大変な労力とコストがかかる時代だったのです。
それに比べれば、今は誰もが簡単に文章や記録を残せる非常に恵まれた時代です。この便利で素晴らしいツールを活用しない手はありません。
シャガールの名画が登場する映画↓
