PTLゴンブロヴィッチと戯れて
PTLの次回はポーランド出身のヴィトルド・ゴンブロヴィッチの『ポルノグラフィア』(1960)です。
ゴンブロヴィッチは1910年生まれのジュネとボウルズよりさらに歳上の、1904年生まれの作家です。従って小説では、同性愛者である痕跡はボウルズ以上に巧みに隠されています。
1939年、彼が南米旅行中にナチスがポーランド侵攻を開始し、彼はその後二度と故郷に帰りませんでした。物理的に帰れないこともさることながら、彼には元から放浪者ノマド的な一面があったようです。
ゲイは、一休宗純(マンガの一休さんのモデル)が説くところの偈「人生は食て寝て起きて糞垂れて子は親となる子は親となる」というサイクルに当てはまらない存在です。
一人前の男、社会的強者、家父長的側面、そういう役割ロールを否定する志向がゴンブロヴィッチにも濃厚にあって、彼は生涯「青二才」というスタンスを取り続けました。65歳でフランスで客死するまで。
ポーランド時代の代表作『フェルディドゥルケ』(1938)では、成熟を拒絶する主人公が連発する幼児語「おちり(お尻)」が頻出します。「天頂高くかかった酷薄なおちり」「赤く燃え、しだいに熱くなりまさるおちり」「巨大な地獄的なおちり」。
太陽を「お尻」の幼児語で喩えるという不遜。それこそが、未成熟の証だと言わんばかり。クレヨンしんちゃんのお尻のようなおちり=太陽が、空いっぱいに光を降り注ぐナンセンスの極み。ゴンブロヴィッチの真骨頂です。
そもそも大人の主人公が、冒頭いきなり誘拐され、小学生にメタモルフォーゼさせられて、悪ガキどもの中に放り込まれるという発端の小説で、彼はいったい何を訴えたかったのでしょうか。
最後の一文に、こんなふざけた罵倒が載っています。読者に唾を吐きかけているのですね。
あばよ、ちばよ、あかんべえ、
読んだやつのあほうづら!
W・G
成熟して子孫を残すサイクルに属さないゲイとしてのアイデンティティが、そこにはあると私は睨んでいます。彼は言葉巧みに「ポーランド人の心性の探求」などと嘯いていますが、なんてことはない、ゲイの社会的浮遊感を体現するための表現に過ぎないのではないかと。
二重三重にヴェールをかけたゴンブロヴィッチのテクストは、表面的に読むとナンセンスの極みですが、ゲイ表象としてはかなりねじくれています。これを読み解き、従来の論説を覆すのは大変です。
『ポルノグラフィア』もポルノグラフィーにさにあらず。ゴンブロヴィッチがそこにいたはずのない、大戦中のポーランドの寒村で繰り広げられる、美しい少年と少女の冷笑的な企み。なかなかに胸糞悪い小説ですw。
しかし、そこに紛れもなく、ゲイとしての叫びの表出が存在する、と私は思っています。
次回の記事まで、もう少しお時間をいただくより他ありません(二ヶ月ほど苦戦している)。なので、今回も苦し紛れの近況をお知らせする次第。
赤江瀑も書き溜めたストックが途切れてしまいました。基本的には短編小説の作家なので、また折に触れ再読して、紹介記事を書きたいと思います。
