PTL File.3 ヴィダル『都市と柱』(1948)
1948年、アメリカ初のゲイノヴェルが誕生した。弱冠23歳の小説家が、第三作目として書いたものだが、全米で禁書扱い、新聞には書評掲載を拒否され、囂囂たる非難を浴びる。

彼の最初の長編は"Williwaw"(1946)という、暴風雨のアラスカを舞台とした軍隊小説だった。二作目も、同じ傾向の"In a Yellow Wood"(1947)。それがどうして、ゲイノヴェルを?
ヴィダルは父方の姓だが、ゴアも母方の姓で、1925年に生まれた時の名はユージン・ルーサー・ヴィダルJr.。母方の祖父はオクラホマ州選出の民主党上院議員トーマス・ゴア、歴代の正副大統領の、ジミー・カーター、アル・ゴアは親戚である。母の再婚相手を通してケネディ家とも姻戚となる。父親は士官学校の航空学教官だった。彼は主にワシントンD.C.とヴァージニアで育った。
華麗なる血統に生まれたヴィダルだが、彼に影響を与えたのは祖父のトーマス・ゴアで、晩年盲目だったトーマスは、時に重要人物との会見に孫を伴った。彼は祖父譲りの反帝国主義の視点で歴史小説を多く執筆した。
では、そんな政治や軍隊の影響のもとに育ったゴア(テネシーやカポーティら、親しかった者は彼をそう呼んだ)が、なぜ、小説家としての将来を棒に振りかねないスキャンダラスな作品を執筆するに至ったのか。
それはもしかすると、当時付き合っていた女友達の影響があったのかもしれない。
ゴアは前半生をバイセクシュアルとして生き、後半生はゲイとして、演出家のハワード・オースティンをパートナーとした。オースティンは2003年にゴアより先に亡くなっている。
1944年から48年までゴアは、22歳年上の作家アナイス・ニンと付き合っていた。ニンは女性性愛小説家として1936年以降執筆活動をしていた。彼女の作品(『近親相姦の家』や『人工の冬』など翻訳あり)は専ら秘密出版された。
ニンはバイセクシュアルであると言われ、また、結婚相手やパートナーがいても別に恋人を持つポリガミー的人物で、ゴアは彼女から刺激を受けたのだろう。有名なニンの日記にもゴアは登場するが、生憎、その部分は日本では翻訳されていない。
『都市と柱』の第五章には、ニンを彷彿とさせる歳上の魅力的な女性マリーアが登場する。あやうく、主人公は彼女に惹かれノンケになりそうになるのであるw
とは申せ、ジュネ程に過激な描写は、ひとつもない小説である。肝心な場面ではいつもボカシがかかる感じ。
それからボブはシャツを脱ぎ、ジムも脱いだ。脱いだほうがよかった。ジムは顔の汗をぬぐい、ボブは毛布の上でシャツを枕に大の字になった。炎の光で白い肌が輝いた。ジムはそばで大の字になった。「暑すぎるよ」と言った。「暑すぎて取っ組み合いできないよ」
ボブは笑い、突然ジムにつかみかかった。二人は互いにしがみついた。ジムはボブの体を意識して圧倒されそうになった。しばらく格闘しているふりをした。それから二人とも動かなくなった。だけど相手にしがみついていた。まるで中断するか、再開するか、どちらかの合図を待っているみたいだった。かなりの間どちらも動かなかった。すべすべした胸が胸に触れ、汗が混じりあい、一緒になってはあはあと息をした。
突然ボブが離れた。その瞬間、目と目があった。それから故意に、重々しく、ボブは目を閉じ、ジムはボブに触れた。夢の中でなんどもそうしていたように、言葉もなく、なにも考えず、恐くもなかった。目を閉じれば、真実の世界が始まる。
顔と顔が触れたとき、ボブは体をふるわせ溜息をつき、ジムを腕でぎゅっと抱いた。今二人は完全無欠で、二人の体が原始の激しい力でぶつかり、片方がもう片方となり、似たもの同士、磁石にひかれる金属にも似て、片割れが片割れにくっつき、完全な姿が復活した。
こうして二人はひとつになった。目は堅く閉じられ、関係のない世界を閉め出した。暖かい突風が吹き、木という木が揺すられ、焚き火の灰がまき散らされ、地面に陰ができた。
だがそれから風がやんだ。焚き火は燃え尽き炭になった。木々は静まり返った。暗くすばらしい空を彩る彗星もなく、あの瞬間は過ぎ去った。二つの心臓がひとつになり、どきどきと鼓動を打つなか、あの瞬間は終わった。
(中略)
「いいか、おれたちがやったことは子供っぽいことだ」
「そうだと思う」ジムはひと息置いた。「でもぼくは好きだよ」秘密の夢を現実のものにした今、ジムには大きな勇気があった。「君は好きじゃない?」
ボブは黄色い火に向かって顔をしかめた。「女の子とやるのとは違ったな。正しいことじゃないだろう」
「どうしてさ」
「そうだな。男同士こんなことするとは誰も思っていないからな。自然じゃないよ」
「自然じゃないかもね」ジムは火の色に染まったボブの体を見た。長く筋張って、筋肉質だった。新たに見いだした勇気を奮い、ボブの腰に腕を回した。再び興奮し、二人は抱き合い、毛布に倒れ込んだ。
『都市と柱』の主人公ジム・ウィラードの、初体験の場面。長編の第二章で描かれる。
ジムは一学年上のボブ・フォードを愛しており、ボブが高校を卒業して街を離れる前の週末、二人は川沿いに打ち捨てられた小屋でキャンプをする。キャンプファイアの燃える中、二人は結ばれるのだが…
描写も慎ましやかだが、行為自体も大したことはしていない。せいぜい兜合わせぐらいだよね。だが、この相手にジムは生涯、執着し続ける。後にジムは、この時の思いを遂げようとして…
ジムはとてもハンサムで学校いちのテニスプレイヤー。ボブも女好きのする人気者。そんな二人のラブシーンだから、一幅の絵のよう。
家庭に難のあるボブは故郷を捨てて海へ行き、船乗りになると言う。平凡なエリートの家庭に育ったジムは、そんなボブの後を追って、一年後、親を騙して都会へ行き、そのまま船乗りになる。だが、ボブの足取りは杳として知れない。
ジムのゲイ人生のはじまりはそんなところだが、この稚拙な愛の描写で注目して欲しいのは、「片割れが片割れにくっつき、完全な姿が復活した」という一文だ。
プラトンの『饗宴』のあの有名な、人間球体発祥説を踏まえている。
『饗宴』の当該箇所(第五章「アリストファネスの話」)をかいつまむと、人類は三種類、男、女、アンドロギュヌス。ひとつの球体を成し、意志が強く力もあり、やがて神に反抗する厄介者になった。ゼウスは人間を弱体化するため、球体を半分に引き裂き、それぞれ一個の生き物とした。だから、子孫繁栄や愛情獲得のため、片割れを探すのだと。
私は数十年ぶりにプラトンを読んだのだが、少し勘違いをしていた。人類は三種類、の段でてっきり、「男と女」「男と男」「女と女」のペアリングになっていると思っていたのだが、そうではなかった。プラトンもそこまで同性愛者に都合の良い発想は持ってはいなかった。もっとオーソドックスなものだった。
しかし、ペアリングの疑義はあれ、運命の相手=ベター・ハーフを探し求めるのが愛の本質である、という点に、このゴア・ヴィダルの牧歌的な描写は則っているのである。
ジムは結局、己の片割れであるボブを探し求めて、遠い遠いところまで行くことになる。その悲しい遍歴がこの長編の骨子となっている。
親離れして初めてのクリスマス、船乗り仲間に誘われて女漁りに行くも、女を相手にしたくないジムは、仲間に「おかま野郎(クィア)」と嘲られ、結局船を降りる。
そして現代のソドム、悪徳の都・ハリウッドに辿り着く。
ホテル住み込みのテニスのインストラクターの職を得たジムは、素行の悪いベルボーイたちに誘われて、映画スターのロナルド・ショウのパーティに出る。そこでショウに見そめられて、彼と暮らすようになるのだが…
このロナルド・ショウという銀幕スターについては、『ハリウッド・バビロン』(ケネス・アンガー)をあたれば、誰がモデルかすぐにわかりそうなものだが、生憎、取り出せる場所にないので、その辺の穿鑿は出来ない。ステロタイプのハリウッド・スターであるとだけ言っておこう。
肉体美で全米の女たちを虜にし、その仮面の裏で、ジムのような青年を囲っては、盲目的な愛情のようなものを吹き込む。だが、それも、ナルシシズムの為せる業。常に愛人の代わりは幾らでもいる。浮薄な人物だ。
ジムにとって、ショウはある意味、メンターだった。かなり歳の離れたスターは、ジムが愛情を返さなくとも、生活の糧を与えてくれる。時には、撮影現場にジムを伴い、その威光を見せつけたりもする。ジムは相変わらず、最初の男であるボブへの思いから、ショウに心を開かない。メンターの言いなりに、人なかでの立ち回りが上手くなってゆくだけ。
そんな虚しい関係も、新しいメンターの登場で終わりを告げる。ニューヨークから来た小説家のポール・サリバンだ。ハリウッド人種に軽蔑を抱いている、知的で少年のようなポールに、ジムは惹かれる。ポールの脚本家としての契約期間が終わると同時に、ジムはショウの元を去る。
新しい恋人のポール。だが、ジムは相変わらず心を委ねない。心はあくまでボブのため、と思っているからで、ジムはショウやポールを、セックスと快適な関係を与えてくれるだけの相手と思っているふしがある。至高のボブとの関係を崇めるあまり、彼は精神的に不感症となっていた。
ジムが立派な外見から、簡単に安売りしない「トレード」(売り専、と訳語がついているが、どうだろう? 計算高いオカマ、くらいの意味では?)と周囲から見做され、ジムが好む相手もまた、余りこの世界に染まっていない一見ストレートのような男たち。要は「喰われノンケ」を相手にしていたのだ。ボブも女好きのする男の子だった。
ポールがやがて酒浸りになるのも、わからないでもない。
彼らはニューオーリンズやメキシコに滞在して、ゲイ生活を謳歌する。その中で、先程触れた、ポールの友人マリーアとも出会う。マリーアはジムが唯一心を許す女友達と言っても良いかもしれない。
やがて、時代は対日戦争となり、ジムは陸軍に志願、ポールも記者として軍務に就く。ジムはコロラドの空軍基地で勤務となった。冬の寒さが身に染みる土地だ。そんな場末にもご同類がいることにジムは気づいた。
おそらく、兵士の中のゲイの描写は、『都市と柱』に浴びせかけられた非難の中でも、とりわけ激烈な物だったと思われる。以前、「ジュネ先史」で記したように、米軍は今でもソドミー法を敷いており、軍隊の中のオカマは「あってはならない存在」だったのだ。規律を乱し、統制を崩し、戦意を下げる存在として。
ジムはそこで、ケンという同年輩の少年兵に出会う。ボブとはまた違った激しい欲望を彼に抱くが、ケンはノンケなのか靡かない。そのうち、色目を使ってくるのでジムが避けていた曹長が、ちゃっかりケンをものにしているのを知り、失望する。男たちを魅了してきた自分の魅力が通用しなかったのだ。
結局、戦地に行くこともなく、ジムは厳しい寒さに耐えられず溶連菌感染で生死の境をさ迷い、関節リウマチも発症して除隊が決まった。
ジムは、病中の無聊もあって、除隊した後の身の振り方を考えて、関係のあった人たちに手紙を書く。だが、いちおうに彼らはつれない。みんな、自分の人生を続けて行くのに必死なのだ。時代は戦争中なのだから。
除隊してニューヨークへ向かったジムは、そこで、売名のため軍隊入りして将校となったショウと再会する。ショウはハリウッドでいた時よりもあけすけになり、気前良くニューヨークのゲイたちにジムを紹介してくれた。
だが、やはり、ジムはボブの影を追い続けて、女っぽいオカマたちを相手にしない。
ポールが記者を辞めて帰ってきて、よりを戻しても、ジムの心は特別な誰かを探し続けているのだった。
そんな中、ジムはボブの消息を母から知らされる。ボブは高校時代の彼女と結婚して子供も産まれた。商船の船員をしていて、クリスマスに戻って来ると。ポールが半年、アフリカ取材でいないので、ジムは故郷バージニアに数年ぶりに帰省した。そこで会ったボブは変わっていなかった。しかし、自分の現在の幸福に浸り、ジムとの川べりの小屋での出来事は思い出したくないようだった。
ボブが船を降りてニューヨークに立ち寄った日、ジムはあの夜の続きを願った。だが、酒に酔ったボブは途中までジムを受け入れたが、キスをすると、かつてジムが屈辱を味わったあの言葉を投げた。
「おれから離れろよ、このおかま野郎(クィア)」
ジムは絶望して、その場でボブをレイプする。あの日の思い出が穢され、ジムの恋い焦がれてきた全てが終わった…
『都市と柱』は、1965年に改訂版が出ている。今、翻訳されているのはこの改訂版の方だが、実は、1948年の初版とは色々と書き換えられている。ジュネの時の初版問題とはまた異なり、おそらく、改訂版の方が作者の意図に沿った展開だろう。初版ではクライマックスを書き直して出版されていたのかもしれない。
初版では、ジムは愛を拒絶したボブを殺害する。男同士のレイプ場面が、殺人よりも穢らわしいと判断されてのことである。男同士の性愛は許され難いタブーだった。現代では考えられない差別だ。いや、現代でも果たしてその謬見は、完全に無くなったのだろうか…
例えは悪いが、男が女に痴漢を働いたというニュースよりも、男が男に、という場合の方が醜い言葉を浴びせかけられるものだ。
現行版ではジムは、ボブを犯した後、何年も何年もひたむきに愛してきた体を見下ろし、愛が潰えたのを知り、「あの夢が完全に終わってしまうまで」バーで飲み明かすことにした。ジムの人生を今まで支えてきた至上の愛が、永遠に失われてしまったのだ。命を奪うよりも悲しい幻滅(福永武彦的に「まぼろしきゆ」とルビを振りたいところだ)が彼を襲う。
この長編には「J・Tに捧ぐ」という献辞がある。「J・T」が誰なのか、長年取り沙汰されてきたが、自伝"Palimpsest"(1995)でゴアは、「J・T」は高校時代の同級生ジミー・トリンブル(ジムだ!)であると白状している。
トリンブルは1945年に硫黄島で戦死している。ゴアはその自伝で、自分が精神的にも肉体的にも愛したのは、トリンブルただ一人だけだと告白している(自伝は未訳につき、Wikipediaによる)。パートナーいるのに、そりゃないよって気もするが…
彼がボブのモデルであることは間違いないのだが、一度は再会出来たボブと違い、戦死したジミーとは二度と再会出来なかった。ボブ=ジミーと思いを遂げたかったジムは、おそらくゴア自身だったのだろう。
若い頃からの友人だったテネシー・ウィリアムズは、冒頭に引用した写真の掲載された『回想録』(1975)で、「知り合った頃のゴアは美青年だった」と述べている。
受動的で一本気なジムと違い、ゴアはアナイス・ニンと関わったり、親友カポーティと後に壮絶な法廷バトルを繰り広げたりする。自己顕示欲も強く喧嘩上等で、沢山の相手と論争になった。あくまで、ジムはゴアの人格の一部分を剔出したものなのだ。
後年、作家として成功して政界にも進出しようと試み、アメリカン・セレブリティの一員となるゴアは、映画にも時折出演していて、1997年の美しきSF『ガタカ』では、ロマンスグレーの渋い姿を見せている。ゲイの隠喩に満ちたこの映画でゴアの演じる役は、ある意味、大変示唆的である。
小説のタイトル、『都市と柱』"The City and the Pillar"が何を意味するか、今までのPTLの記事を読んでいて下されば、推察できるはず。「都市」はハリウッドやニューヨークのことだが、「柱」は、小説のエピグラフとしても引用されている聖書『創世記』の、ソドムとゴモラのエピソードに出て来る、ロトの妻が神の怒りに打たれて変えられた塩の柱なのだ。
ロトの妻と同じく塩の柱にされたのは、誰なのか。出版された当時にこの長編を読んだ大方の読者は、塩の柱にされたのはジムだと思っただろう。同性愛という嫌悪すべき「習慣」に染まり、家庭や結婚や信仰を捨てた男が、神の怒りに触れ塩の柱になるのは当然だと。
ソドムを振り返ったロトの妻のように、ボブとの過去を振り返り過ぎたジムは、確かに振り返ることで破滅したのかもしれない。だが、他の男たちの愛を利用して、ボブとの愛を夢見たジムは、自らの過ちを恥じて塩の柱となったのだ。神はそこに介在しない、と私は思う。
初版はさまざまに同性愛嫌悪の描写が目立っている、と訳者はあとがきで語っている。ならば、今読んでいるテキストに書き換えられてホモフォビアも和らぎ、本来の意図に沿った展開となっているのなら、ジュネの場合と異なり、改訂されることも決して悪いことではない。
「ソドムとゴモラの悪徳」という宗教由来の偏見から、いったいいつになれば、私たちは逃れられることが出来るのだろうか。

この作品を発表してジャーナリズムから拒絶されたゴア・ヴィダルの、その後を。
ゴアは『都市と柱』以降も5作長編を出版するが、批評は芳しくなく、50年代半ばには一旦筆を折る。芝居を発表したり、エドガー・ボックス名義でハードボイルド(1954年『死は熱いのがお好き』がハヤカワミステリで邦訳されている)を何冊か執筆したり、映画の脚本を書いたりで糊口を凌いだ。
テレビ用に書かれたシナリオ『ある小惑星への訪問』(1957)は、コメディアンのジェリー・ルイス主演で『底抜け宇宙旅行』として映画化され、大ヒットした。
映画脚本ではこの時期、超大作『ベン・ハー』(シナリオ段階で揉めてノー・クレジット)、友人テネシー原作の『去年の夏突然に』、ダフネ・デュ・モーリアのサスペンス『スケープゴート』などを手掛けている(『大予言者カルキ』訳者あとがきによる)。
1964年、ローマ皇帝ユリアヌスに材を採った"Julian"で小説に復帰した。1968年の『ワシントンD.C.』(早川書房)からアメリカ史を「帝国の物語」サーガとして描き、後に7部作に発展した。
「帝国の物語」は他に1973年『アーロン・バアの英雄的生涯』(早川書房)、1976年『1876』(早川書房)、1984年『リンカーン』(本の友社)が翻訳されている。
PTL的に重要な作品はと言うと、1968年刊行の『マイラ』(早川書房)と、1975年刊行の『マイロン』(サンリオSF文庫)である。
目も覚めるような美女マイラ・ブレッキンリッジ。彼女の夫・マイロンは売れない映画評論家で、スタッテン島のフェリーから身投げして死んだ。マイラは夫の仇を打つため、夫の叔父、かつての映画スターで今はハリウッドで映画アカデミーを経営するバックのもとへ乗り込む。学校の立つ土地の半分は、夫が亡き母から相続するはずだったのだ。
マイラはうまくバックを丸め込み学校の講師になる。そして、着々と計画を進めてゆく。若い男女を知性と色香で翻弄し、意見が対立すると叔父の横面を張り倒すことさえ厭わない。マイラ無双である。
一方、アンクル・バックも、甥と結婚していたと言い張る美女に侮辱され、相続の件を持ち出されるのに腹を立てていた。本当にこの女は、オカマだった甥の結婚相手なのか? 密かに弁護士に彼女の素性を調査させて、マイラの首根っこを取ってやろうと目論むが…
『マイラ』は余計な先入観なしに読んで、面白さを堪能して欲しい。鼻っ柱の強いマイラと、彼女にマッチョな価値観をへし折られてゆく男たちの攻防が、痛快である。
それは、「続編」である『マイロン』にも言える。こっちは粗筋も言えないですよ。ネタバレするからw
ゴアは『都市と柱』の切ない生真面目さから、こんな遠くへ到達したのだな、と言う感慨を抱くだろう。
長らく絶版の憂き目を見ているが、そろそろどこかで復刊か新訳が出ても良いのでは? この二部作はケッサクなので、是非とも予備知識なしに読んで、面白がってもらいたい。復刊を切望する。
ゴアは再び小説の筆を執るようになった時、明らかに若書きの頃より鋭い風刺やシニカルな笑いを身につけた。『マイラ』はゴアのターニングポイントとなった作品である。20世紀の奇書と呼ばれベストセラーとなり、1970年にラクエル・ウェルチ主演で映画化もされている。
休筆前の1955年"Messiah"と、ブレイクスルー後の1978年『大予言者カルキ』(サンリオ)も見逃せない。どちらもカルト宗教を扱っている。ガイアナ人民寺院事件や、ブランチ・ダビディアン、オウム真理教のサリン事件などを予見したと言われている。
ゴア・ヴィダルについてのブックガイドはこんなものだろう。ゴアは今では、小説よりもエッセイ評論の方が、本国では高く評価されている。政治の時局についての著書や、先ほど触れた自伝など、多数の非フィクション作品もあるのに、日本ではほぼ紹介されていないが、あくまでアメリカ人が読めば面白い、のかもしれない。でも自伝くらいは訳して欲しいものだ。
