PTL File.4 カポーティ『遠い声、遠い部屋』(1948)その一
現代の海外作家でだれが一番好きか、と問われたら、私は多分、カポーティの名を挙げるかもしれない。現代と言っても亡くなって四十年は経っているのだが。
セレブの仲間入りした作家は数あれど、上流の出でもないのにここまで登り詰めた人も珍しいのではなかろうか。そして、衝撃的な堕ち方も、本人には申し訳ないけど面白過ぎる。彼の生涯を語るだけで、手練れなら本が一冊書けるだろう。実際、彼についての本は、内外で山のように出ている。
「サザーン・ゴシック」という文学の系統がある。アメリカ南部出身の非リアリズム系の総称で、幻想文学の大家でミステリの創始者であるエドガー・アラン・ポオの影響下にある、ゴシック・ロマンーー恐怖や幻想を主眼とする作家たちを指す。
人種多彩な地域。かつ、人種差別も深刻な社会背景。マーク・トウェイン由来の南部気質のほら話的なものも含む。この地域はフォークナーやウェルティなども輩出している。
カポーティは、そんな文学的伝統の濃厚なアメリカ南部ニューオーリンズに1924年9月30日に生まれた。前回のゴア・ヴィダルよりひとつ歳上だ。生まれた時の名は、トルーマン・ストレックファス・パースンズ。
アーチ・パースンズとリリー・メイ・フォークが両親だが、27歳と18歳の若い夫婦はトルーマンの生後数ヶ月で破局し、七年後に正式に離婚した。
「カポーティ」は、後に母が再婚した相手ジョーの姓である。実父と養父、二人の父は彼の生育にはほとんど関らず、後にトルーマンが成功した暁、金目当てに名乗り出て来て、トルーマンを落胆させた。
若くして子を授かったリリー・メイは華やかな美人だった。都会に出て行き男に入れあげて、まともにトルーマンを育てられず、アラバマ州モンローヴィルの実家フォーク家に預けた。
この田舎町での暮らしは、トルーマンにとっては唯一の幸福な幼年時代だった。名品「クリスマスの思い出」「誕生日の子どもたち」や『草の竪琴』に、その満ち足りた多幸感は漂っている。
従姉妹(本当は遠縁)のスックという老嬢は天真爛漫な性格で、トルーマンを「バディー」と呼んで可愛がった。彼はスックとその兄弟に育てられた。
トルーマンは死の間際にも、自分を捨てた母親と、愛するスックのことを呼び続けていたと言う(『カポーティ』ジェラルド・クラーク、文藝春秋)。
しかし田舎暮らしは続かず、都会に暮らす母のもとに引き取られる。リリー・メイは改名してニーナとなっていたが、奔放な性格のニーナがまともに育児に勤しむ訳もなく、ホテルの部屋にトルーマンを閉じ込めて男と遊びに行くなどざらだった。再婚後も息子に割く時間よりは夫に割く時間の方が多かった。
ニーナはやがてアルコール中毒に陥り、53年の年の瀬にニューヨークで睡眠薬自殺した。
孤独な少年は文学に慰めを求めて、「八歳のときにものを書き始めた。本気でものを書き始めた」(『カポーティとの対話』ローレンス・グローベル、文藝春秋)。読解力が異様に早熟だったトルーマンは、作家として立つ決心をする。
ひと一倍孤独を知っていた少年は、愛に飢え続けた。小柄で金髪の可愛い見た目が歳上の男たちを魅了することを知悉して、男たちを誘惑し籠絡することに喜びを覚えた。
彼がゲイになったのは、父親不在の生い立ちだったからかもしれない。歳上の父親タイプの男を愛することが多かった。最初の恋人ニュートン・アーヴィンや、生涯のパートナーのジャック・ダンフィー、最後の恋人ジョン・オーシェイ、みな歳上である。
トルーマンはハイスクール時代に既に才能の片鱗を見せており、初期の習作群が『ここから世界が始まる』(新潮文庫)として邦訳されている。
1943年頃、トルーマンは《ニューヨーカー》にコピーボーイとして採用されて、出版業界への足がかりにしようとした。この時期からトルーマンの社交界好きは始まっていて、アルバイトにも関わらず派手な言動で、高級雑誌の名物となった。
だが、翌年、ヴァーモント州の大学キャンパスで行われた作家会議に参加した折、高名な詩人ロバート・フロストを怒らせる発言をし、《ニューヨーカー》を首になった。同時期に執筆していた長編『真夏の航海(サマー・クロッシング)』も頓挫し、挫折を味わった。
結果的には、『遠い声、遠い部屋』や短編の執筆に専念することになったのだが。
『遠い声、遠い部屋』の執筆経緯については、トルーマンのエッセイの集成である『犬は吠える』の分冊『ローカル・カラー/観察記録』(ハヤカワepi文庫)所収の「雲からの声」(1969)に詳しい。
1945年、《ストーリー》に「ぼくにだって言いぶんがある」、《マドモワゼル》に「ミリアム」と「銀の壜」、《ハーパーズ・バザー》に「夜の樹」を発表。翌年「ミリアム」でO・ヘンリー賞を受賞する。
トルーマンは、世界大戦後の新たな若き才能として注目を浴び、まだ著書が一冊もないのに1947年に《ライフ》で特集を組まれた。親友となるテネシー・ウィリアムズ、カーソン・マッカラーズ、そして後々の仇敵ゴア・ヴィダルと親交を深めたのもこの頃だった。
マッカラーズを通してトルーマンはランダムハウス社と契約をし、その後の全作品を出版することになる。
『遠い声、遠い部屋』は、若干23歳の作家のデビュー作として、1948年初頭刊行された。


鳴物入りで出版された『遠い声、遠い部屋』は、同年に刊行されるゴアの『都市と柱』ほどにあからさまではないものの、同性愛を匂わす雰囲気と、本の中身とは関係のない裏表紙の著者のポートレイトで物議を醸した。
一見して女の子にも見えなくない美少年が、気怠く寝椅子に横たわり、こちらを挑発するように見ている。ハロルド・ハルマというゲイのカメラマンが自宅のパーティで撮ったものだ(『トルーマン・カポーティ』ジョージ・プリンプトン、新潮社に収録の、フィービー・ピアース・ヴリーランドの証言)。
ある人は「美しい」と嘆息し、ある人は「自意識過剰」と謗る。ポートレイトに負けず劣らず小説も毀誉褒貶に曝された。同性愛嫌悪の書評家は口を極めて罵り、文体の美しさに魅了された者は絶賛した。
日本でも1955年に新潮社の「新鋭海外文学叢書」から河野一郎の訳で翻訳されている。現役の文庫本(近々、村上春樹の新訳に置き換えられるだろう)として今でも読まれているこの翻訳だが、訳者解説は正直、疑問に思える箇所がある。
一九四七年もおしつまったころ、奇妙な一枚の写真が、全米の週刊誌・新聞紙上に現われはじめた。蝶ネクタイを結び、縞のチョッキを着こみ、つのぶち眼鏡を片手にソファに寝そべった一人の少年が、深海魚のように無気味な目を光らせている。その太い吊り上がった眉は、どうやら演出効果をねらって描かれたものらしい。一度見たが最後、どうしても記憶から拭い去ることのできない、悪夢そのもののような写真である。
『遠い声 遠い部屋』新潮文庫
は? あなた、先程の画像を見て、「悪夢」だと思いますか? 「記憶から拭い去ること」が出来なくなりますか?
この手の紹介文は、カポーティにはついて回るのだ。最後の恋人ジョン・オーシェイ(ここではオシェーと表記)との関係についても、
両親がアイルランド移民のジョン・オシェーと関係が出来たのは一九七三年六月末、四十四歳で小銀行副社長の彼は、五人の家族持ち。トルーマンの男になることから運が開けると踏んだ彼は、トルーマンの税金逃れのトンネル会社「バイユウ・ボーイズ」の常務副社長という名目で、年俸三万ドルをもらう。ジョンは銀行員らしく万事に抜け目がなく、トルーマンの身辺から財産管理、電話・手紙にいたるまで、彼を通さなければいっさい受けつけないという徹底ぶりで、この男との結びつきは、トルーマンにとり運の尽きとなった。以後二人の仲は、くっついては争い、離れてはまたくっつくという腐れ縁の連続で、はたから見れば笑止の沙汰だが、トルーマンは死の寸前までジョンの魔手から逃れきることができなかった。男色二人の愛欲物欲と恨み復讐の葛藤の一部始終はすさまじい。トルーマンは自制心を失い、弱くなり、頑是ない子供のようになっていた。作家としては異例の富と名声を得、大スターに成り上がった彼は、常に憎んできたアルコールと薬に溺れ、絲の切れた凧みたいに、いずこへともなく飛んで行く。
《ユリイカ》1989年4月号「特集カポーティ」
稲澤は1970年に日本で最初のカポーティ研究書を上梓した第一人者である。なのに「笑止の沙汰」だの「男色二人の愛欲物欲」だの、露悪的な言葉を言いたい放題ではないか。さも、ゲイであることが悪徳であるかのような言い草。
確かに、トルーマンとジョンの関係は、他の恋人たちに比べて暴力的で人騒がせだった。だが、トルーマンの父性への渇望が理解出来ていれば、そんな言い方はしないだろう。
訳者の河野一郎(1930年生まれ)も、研究者の稲澤秀夫(1928年生まれ)も、昭和初年代生まれの典型的なヘテロセクシュアルの価値観で、カポーティを断罪してしまっている。彼らこそ本来なら、作者の一番の理解者であって然るべきなのに、茶化したりこき下ろすのは感心しない。
『ティファニーで朝食を』『夜の樹』『冷血』の旧訳を手がけた龍口直太郎(1903年生まれ)も、『ティファニー』以前の作を「あまりに幻想的であり、倒錯的であったためか、私にはついていけないものがあった」と記している(『ティファニーで朝食を』新潮文庫旧版)。
カポーティ文学が早くから日本に紹介されてきた弊害だろう。少なくとも、『都市と柱』に関しては、このような無理解な物言いはなかったのだから。ジュネの時には、勝手に「倒錯者の断章」と邦題をつけられた事例は以前記した通りである。ゲイの作家は、時には意図せずとも翻訳者に裏切られるのだ。
『遠い声、遠い部屋』の評価の件に戻ると、同性愛に関する表現が『都市と柱』ほどは直截的でなかったのが幸いし、トルーマンが作家生命を棒に振ることはなかった。有望な新人作家として持て囃され、『草の竪琴』『ティファニーで朝食を』(どちらも新潮文庫)と順調に成功させた。
1966年に出版された大作『冷血』(新潮文庫)は、中西部カンザス州で起きた一家惨殺事件に取材した「ノンフィクション・ノベル」で、一躍、時の人となった。ベストセラーになり映画化され、絶賛の嵐を浴びた。70年代に勃興するニュー・ジャーナリズムの走りとも言われ、多くの作家に影響を与えた。
その年の11月28日、『冷血』の完成を祝して、マンハッタンのプラザホテルで伝説の「黒と白の仮面舞踏会」が開催された。黒と白のドレスコードに仮面を付けた500人の招待客が一堂に会し、全マスコミが揃って報道した。アメリカ中のセレブが招待され、この夜に名を連ねなかったセレブは偽物とまで言われた。間違いなく、アメリカ文学史上最大のイベントである。
トルーマンは今や、社交界の人気者である。その毒舌から「タイニイ・テラー(恐怖のチビッコ)」と呼ばれ、メディアに引っ張りだこ。孤独な生い立ちから人心掌握に長けた彼は、社交界のトップの女たちと仲良くなり、彼女たちを「スワン」と呼んで崇めたてた。白鳥たちもゲイでウィットに富んだトルーマンに心を許し、夫にさえ言えない秘密をガールズトークとして、トルーマンに喋った。
そのガールズトークのはしたない中身を、ある時トルーマンは「ラ・コート・バスク、1965」(1975)という短編に仕立てて発表した。プルーストを思わせる大作『叶えられた祈り』の一章となる予定の作品だった。雑誌《エスクヮイヤ》の求めに応じての切り売りである。
「ここだけの話・内密のガールズトーク」が白日の元に曝され、悪意ある噂の対象人物が予め送られたゲラを読んで自殺し、一夜にしてトルーマンは社交界から締め出された。本当に一晩のうちに真っ逆様に転落した。
多くの友人たちを失い、どん底に突き落とされてもなお気丈に振る舞おうとするが、その行動は段々と奇矯になり、テレビやタブロイドを賑わす存在になってしまった。ジョン・オーシェイ他との数々のスキャンダルもこの頃である。
1984年8月25日、ロサンゼルスで、最期まで面倒を見てくれた友人ジョアン・カーソン宅で、ジョアンに看取られて死んだ。過度の飲酒とドラッグで体が衰弱し切っていたのだ。ジョアンの手元にあった遺灰の一部が彼女の死後の2016年、オークションに出されるという事件もあった。
そして結局、現代アメリカ版『失われた時を求めて』と本人が喧伝していた『叶えられた祈り』(新潮文庫)は、既出のたった三編の短編しか残されていなかった。
あと一つのパーツである「モハーベ砂漠」は、先に1980年に『カメレオンのための音楽』(ハヤカワepi文庫)に収録されていた。『冷血』を超える大作、と本人が繰り返し語った原稿は、影も形も無かったのだった。
没後も大スター作家としての奇跡は起きる。2004年、ニューヨークのサザビーズの競売に、トルーマンの未発表原稿が出る。1940年代にトルーマンが引っ越しに際し処分した机の中に眠っていたのだ。ランダムハウス社はそれを買い取りカポーティの真作かどうかを鑑定の上、刊行する。それが『真夏の航海(サマー・クロッシング)』(講談社文庫、開文社出版)である。
今でも作品は世界中で読み継がれている。作家としては不本意な終わり方をしたが、数が多いとは言えない作品のほとんどが今でも新刊で手に入る作家というのは、なかなかいないと思う。翻訳でも原書でも入手はたやすい。
そしてなにより、カポーティの「声」は、全米国民に今でも愛されている。短編「クリスマスの思い出」(1956)の作者自身による朗読は、トルーマンのキイキイと甲高い独特の声と、その物悲しい幕切れと相俟って、今でもクリスマスシーズンの定番なのだから。
先程引用した稲澤秀夫の短い一文の比喩「絲の切れた凧」もこの短編の最後の場面のものである。トルーマン=バディーが、幸せなアラバマ時代に仲良しだった老嬢スックの訃報を知るラストシーンである。ミス・スックは1946年に亡くなっている(『子供時代への懸け橋』マリアン・M・モウツ、英宝社)。
これが僕らがともに過ごした最後のクリスマスになった。
人生が僕らの間を裂いてしまう。わけしり顔の連中が、僕は寄宿学校に入るべきだと決める。そして軍隊式の獄舎と、起床ラッパに支配された冷酷なサマー・キャンプを惨めにたらいまわしにされることになる。新しい家も与えられる。でもそんなものは家と呼べない。家というのは友だちがいるところだ。なのに僕はそこから遥かに隔てられている。
彼女(※スック)は一人取り残されて、何をするともなく台所をうろうろしている。あとにはクイーニー(※スックの愛犬)しか残されていないし、そのクイーニーもほどなく姿を消してしまう(「親愛なるバディー」と彼女が僕に手紙を寄越す。ものすごく読みにくい金釘流の字で。「きのうクイーニーがジム・メイヤーの馬にひどくけられました。ありがたいことにそれほど苦しみませんでした。上等の亜麻のシーツにくるみ、荷車に乗せてシンプソンの牧草地まではこび、自分の埋めた骨といっしょにいられるように……」)。そのあと何年かは、十一月がくると、彼女は独力でフルーツケーキを焼き続ける。それほど沢山の数ではないけれど、いくつかは焼く。言うまでもないことだが、僕に「いちばん出来のいいやつ」を送ってくれる。そしてまた、どの手紙にもちり紙でくるんだ十セント玉が入っている。
「映画を観て、私にその筋を教えておくれ」。彼女はやがて僕と、彼女のもう一人の友達──一八八〇年代に亡くなったもうひとりのバディー──とを混同し始める。十三日以外にも、彼女がベッドから起き上がらない日が増えていく。そして十一月のある朝が訪れる。木の葉も落ち、鳥の姿も消えた、冬の訪れを告げる朝だ。しかし彼女が起きあがって「ほら、フルーツケーキの季節が来たよ!」と叫ぶことは二度とない。
まさにそのとき、それが起こったことが僕にはわかる。電報の文面も、僕の秘密の水脈がすでに受け取っていた知らせを裏づけたに過ぎない。その知らせは僕という人間のかけがえのない一部を切り落とし、糸の切れた凧のように空に放ってしまう。だからこそ僕はこの十二月の特別な日の朝に学校の校庭を歩き、空を見わたしているのだ。心臓のかたちに似たふたつの迷い凧が、足早に天国に向かう姿が見えるのではないかという気がして。
「クリスマスの思い出」村上春樹・訳
長々と引用してしまったが、私は今でもこの場面は涙無しには読めない。誰もが幼年時代に置いて来た、イノセントなものへの限りない哀惜の念に駆られ、涙が溢れてしまう。
カポーティにはこの種の短編がいくつもあるので、この一文に唆されてお読みいただけるのならば、こんなに嬉しいことは無い。
最後にひとつ、カポーティについて記しておきたいことがある。『カポーティとの対話』訳書の裏表紙に堂々と印刷されている彼の語録「私はアル中である。私はヤク中である。私はホモセクシュアルである。私は天才である」。
物凄く有名な言葉が一人歩きしているようだが、彼が実際に放言したものではない。これはあくまで、短編「夜の曲り角」(『カメレオンのための音楽』所収)の中で、トルーマンの見えないシャム双子の分身「T・C」が言ったジョークである。本気で自分が天才だと信じていた訳ではない。
彼は、仇敵ゴア・ヴィダルやノーマン・メイラーたち、同世代の作家と比べられるなんてゴメンだったのは確かだ。あくまで、プルーストやフォースターやワイルドといった、斯界の大先達と比較して欲しかったのだ。
作品論は次回に。河野一郎訳と村上春樹訳が両方入手可能であるので、その違いについても語らせてもらいたい。
