PTL File.11 ゴンブロヴィッチ『ポルノグラフィア』(1960)その二
タイトルだけ見てこのページに興味を持たれたのなら、申し訳ないが期待にお応え出来る自信がない。
ポルノでもエロでもない、不可思議な小説世界をご紹介する記事だから、ご期待には添えないと正直に申し上げる。
この長編の冒頭で語り手は、「別のわが冒険の物語を語ろう」と語り始める。ゴンブロヴィッチの後期3長編『トランス=アトランティック』『ポルノグラフィア』『コスモス』は、最初の行でこの作品が「わが冒険」であると措定され、作者ゴンブロヴィッチが語り手となる。これは、初期の『フェルディドゥルケ』でもそうだ。作家が自身の経験として、あることないことを書くのは、読者を素早く自作の世界観に引きずり込むための罠である。
ゴンブロは再び小説の筆を執るようになった時、50歳に垂んとしていた。そこから始まる物語をいずれも「冒険」と呼んだ訳だ。30代でものした『フェルディドゥルケ』にはそのような「冒険」の事上げは記されていない。
「冒険」という言葉のそぐわない初老に達して、わざと「冒険」と定義する。老いに身を任せるのではなく、自らの中に眠るかつての「(ゲイとしての)青二才」を呼び覚ます。それが、再びフィクションの世界に没入するための儀礼だったのだろう。
語り手はポーランドの田舎の村に、フリデリクという男と共に降り立つ。
この相棒のクリスチャンネームにご留意。ポーランドでフリデリクなんてありふれた名前なのだが、その名前で、外遊中に祖国で事変が起きて帰れなくなったゴンブロの大先輩のような人物がいるではないか。フリデリク・フランチシェク・ショペン。フランス流に呼べば、フレデリック・フランソワ・ショパン。言わずと知れたピアノの詩人である。
ポーランドは全欧各国のうちでも、18世紀以降、移民を沢山出した国として知られている。帰るに帰れないフリデリク。帰るつもりがなかったヴィトルド。そういうノマドなコンビが『ポルノグラフィア』の語り手なのだ。
戦時下のポーランド、1943年の出来事なのだが、おかしいな、ゴンブロはその4年前からブエノスアイレスで足止めを喰らっているはずだ。彼は故郷の人たちとは密に連絡を取っていた節があるので、聞書で大戦中の故郷を舞台に選んでいると思われる。前作『トランス=アトランティック』では、ブエノスアイレスが舞台だ。
彼の生地・マウォシチェと同じシフィェンティクシシュ地方の田舎、サンドミェシのヒポリト(ヒプ)という地主の家に、主人公ヴィトルドとフリデリクは仕事の用で呼ばれてゆくのだが、何の用だかはっきりしない。わざと書き落とされている。
小説の冒頭はワルシャワの喫茶店で語り手とフリデリクが出会う場面から始まるので、戦時下の物資不足で、田舎に闇物資を買い付けに行ったとも考えられるし、AK(ロンドンに亡命中のポーランド政府が率いる国軍)の人物も出てくるので、パルチザン的な活動とも思えなくもないが、ゴンブロ自身は作中で激しくナショナリズムを攻撃している。
ゴンブロが祖国を口を極めて罵るのは、何も今に始まったことではない。『トランス=アトランティック』で、祖国の急を告げられて帰る客船から降りた後の場面。
(前略)「行くなら行け、同胞諸君、海を越えてお仲間たちのところまで行け! それは何百年もの昔から息も絶えだえ、かといって息をひきとることもできないでいる、神聖にして、浅黒い化けものだ! 天然自然から見放され、産まれたかかったまま、産まれそこなっている諸君の聖なるできそこない! 行くがよい、行くがよい。生きるも死ぬもままならず、とこしえに存在と不在の中間で、宙ぶらりんになりに行くがよい。なんといってものらりくらりのありがたいお国柄だ。さぞかし蝸牛のように、ぬらぬらしていられよう!」(中略)「あの国は狂っている。血迷っているとしか言いようがない。諸君がありがたく思うなら、行け! しょせん、呪われた国だ。ぴょんぴょん跳ねたり、狂って見せたり、さんざん本領を発揮して責め苛んでくれよう! 血を流し、ううっと吼え立て、受難の醍醐味を味わわせてくれよう! 子供だって女房だって容赦なしだ! 最後はくたばるだけ、行く手には死が待ちかまえている。しょせん、くたばりかけた国だ。くたばる寸前の狂気を全開にして、たっぷり血迷わせてくれるだろう!」これだけの呪詛とともに、小生は船にくるっと背を向け、街への一歩を踏みだした。
(西成彦訳、国書刊行会)
凄まじい罵詈雑言である。ナチスに侵攻された祖国に対して、ここまでの言葉を放てるゴンブロのねじくれ方の壮絶さ。『ポルノグラフィア』ではここまで言わない分手ぬるいが、やはり、愛国心に燃える連中を嘲笑っている。ゴンブロは自身が政治的亡命者とは、微塵も思っていない。
そして何故か、語り手はフリデリクを危険な男だと称賛する。ここでふと、作家自身の性的な興味対象は誰だったのだろうと頭を抱える。
描写で言えば、10代の少年に対してその肉体への欲求を感じているのは明らかだが、フリデリクという、さして魅力的にも描かれない中年男もまた、作者の興味を惹いているのではないか、と思い至る。フリデリクは「中年の浅黒い、ひからびた、ワシ鼻の男」と冒頭に描かれるような人物だが、彼は街中の喫茶店に独特の臭気を放って現れた。「野うさぎの毛皮四枚と靴の底皮が一枚」を携えて。
戦争前は演劇人だったというフリデリクと語り手は意気投合するが、どこかで性的な興味をぼかしているような描写もある。ヒプの招きに応じる前の場面。
出かける? 二人で? 二人で行くについては、私のなかにもやもやした懸念がしきりに湧いた……なにしろ、連れていくとなると、田舎にいってからも、ずっと彼のゲームを続けさせることになる……それに、彼の体、あの肉体は……あんな《特製》なのにか?……あの倦くなき《沈黙しつつ絶叫する淫らさ》を承知の上で同行するのか?……《だめになっていて、そのため人をだめにする》ような男をしょいこむのか?……あのしつこい《対話》に身をさらすのか、その話し相手は実はだれか? やつのあの《達人》ぶり、それも何の……? あの厚かましさ? あの狡さ? そうなんだ、どれも甘い顔を見せてはいられないことばかり、(後略)
(工藤幸雄訳、河出書房新社)
この独白には考え込んでしまう。後にフリデリクは操り魔となり、人を破滅に追いやる。作家にとっての内なる攻撃性の化身がフリデリクなのだ。語り手である自分はあくまで安全圏にいるための方便でもある。
ワルシャワから100キロ以上遠ざかった田舎町のヒプの家に、ヒプの娘のヘニアと、管理人の息子・カロルという、十六、七歳の「(少年)」「(少女)」がいる。とりたてて際立った美貌ではないが、若さゆえに語り手と相棒のフリデリクの目を惹きつけ、フリデリクがこの少年少女をそそのかして、危ない企みを仕掛ける。
語り手たちはヘニアとカロルが似合いのカップルだと思っているが、ヘニアにはヴァツワフという弁護士の許嫁がいる。歳の離れた禿げかけた美男子だ。ヒプとマリア夫人はこの婚約を喜んでいる。ヘニアも上辺は婚約を受け入れているようだが、果たして。
ヘニアとカロルが若さの傲慢ゆえに犯す最初の罪は、カロルのズボンの裾をまくり上げることだった。そのことを語り手は「肉感的な四重奏」と呼ぶ。大袈裟な表現だが、中年男二人が少年たちの隠された欲望を露わにする。
ヘニアの婚約者のヴァツワフがヒプ家を訪ねて来るが、この大人の男の出現でカロルの欲望に拍車がかかり、水汲みしていた近所の老婆に痴漢行為を働く。そんなカロルを尻目に、ヘニアと婚約者は仲睦まじい様子を見せる。
しかしその一方で、カロルとヘニアはミミズを踏み潰すという共同作業に心を昂らせるのだった。
一家と行動を共にする中年男たちは、近郊ルダのヴァツワフの家に挨拶に出かける。そこには、ヴァツワフの母親、アメリア老夫人がいる。老夫人は何故かフリデリクにご執心。まるで発情したかのよう。それが決定的な惨劇へつながる。
作品は第一部と第二部に分かれており、第二部の冒頭で惨劇が起こる。老夫人がナイフで刺し殺されるのだ。盗みに入った暴漢の少年もまた、彼らの目を引いた。
暴漢のユジェク少年はカロルに似ていた。彼はナイフを持って先に襲いかかってきたのは老夫人の方だと訴える。確かに少年の方も大きな傷を負っていた。老夫人の方から襲ったとなると、もしかするとフリデリクの影響の最初の餌食になったのが、この老夫人かもしれない。
戦時下で警察も機能していないので、始末に困った彼らは殺人犯の少年を連れて、ヒプの邸へと帰る。ユジェクは監禁され手当を受けることになる。
やがて、フリデリクの企みで、ヘニアとカロルが庭の池にあるベンチでこっそりと逢引しているのを、ヴァツワフに見せつけるのに成功する。弁護士は最初は動じなかったが、徐々にその事実に打ちのめされてゆく。
それにしても、ゴンブロは自身も法学出身なのに、法曹家に恨みでもあるのだろうか(前回話に出た短編「クライコフスキ弁護士の舞踊手」を見よ)。
母親が何故か発狂して殺され、婚約者が幼馴染といちゃつくのを見せられて、ヴァツワフはじわじわと壊れてゆく。フリデリクの企みは順調に進んでゆく。
ところが時は戦時中、ヒプは地域で重要な任務(おそらくドイツ軍に対する防諜活動)を負っているようで、シェミャンという男が訪ねてくる。だが、しばらくの逗留の間に、シェミャンが任務を放棄して日常生活に戻りたいと言い出して、ヒプは彼を始末することにした。
婚約者の不貞に悩むヴァツワフ、自分が始末されそうなことに薄々気づいているシェミャン、それぞれが語り手に心のうちを打ち明けてアドバイスを所望する。そこに、語り手とフリデリクの悪だくらみが交錯する。
やがて最後の血に塗れた惨劇へと…
欲望の遂行者たる中年男たちと、若さゆえ冷笑的な少年少女。彼らのカルテットが田舎の村にもたらす悪徳は、表現としてはそんなに過激ではない。ヘニアとカロルが二人がかりでミミズを踏み潰す場面も不快感を催すが、それ以上に、のちのち彼らの策謀に陥る犠牲者たちの姿を予見しているようで不穏である。
1904年生まれのゴンブロは、1910年生まれのジュネやボウルズよりも歳上である。ジュネのように、性描写を大胆に描いて人の目を惹きつけるような所業は出来ない。しかし、倫理的なポルノグラフィーとして、視姦者である語り手に代弁させた。殺しや姦淫の獲物を付け狙う視姦者としての「私」。
そしてその裏に、獣の匂いを芬々と撒き散らすメフィストフェレスのようなアルター・エゴを生み出した。語り手と、そのもう一人の自己であるフリデリクとは、肉体関係以上にしがらみがあるのだ。
ポルノの常套手段は分身とのセックスであると、『花のノートルダム』の項で述べたが、ゴンブロもまた、その轍を踏んでいるのだと言える。作者の願望はとても控え目に、うっかり読み落としてしまいそうに、密やかに埋め込まれている。
これが、好色場面が皆無なのにも関わらず、本作が『ポルノグラフィア』と名付けられた所以である。「倫理的ポルノグラフィー」というものがこの世にはあるのだ。
こけおどしのタイトルなのは、後年、作者本人も認めているがw。
曰く、「当時としては悪くない題名だったが、ちかごろではポルノの氾濫のせいで平凡になってしまった、訳書では《誘惑》と改題して出した国もいくつかある」そうだ(『ポルノグラフィア』訳者あとがき)。
今回、ゴンブロヴィッチに関しては読書ガイドを付けるほどにはわが国では読書界に膾炙していない。なので、ここに作品リストと簡単なガイドを記しておく。ポーランド語の原題を記すと特殊アルファベットが表示されない可能性もあるので、割愛させていただきます。
長編小説
◎『フェルディドゥルケ』1938年(米川和夫訳)
集英社・現代の世界文学。1970年。
集英社・ギャラリー世界の文学・東欧。1989年。
平凡社ライブラリ。2004年。
◎『トランス=アトランティック』1953年(西成彦訳)
国書刊行会・現代文学の冒険。2004年。
◎『ポルノグラフィア』1960年(工藤幸雄訳)
河出書房新社・人間の文学。1967年。
河出書房新社・エトランジェの文学。1975年。
河出書房新社。1989年。
◎『コスモス』1965年(工藤幸雄訳)
恒文社・東欧の文学。1972年。※ブルーノ・シュルツの短編集『肉桂色の店』『クレプシドラ・サナトリウム』と合冊。
※なお、1939年に別名で連載された『憑かれた人々』という新聞小説の長編もあるが、未訳。
短編集
◎『バカカイ』1957年(工藤幸雄訳)
河出書房新社。1998年。※1933年に本国で出版された『成熟途上の記録』に、その後国を離れるまでに書いた3作を足して、全短編集として刊行。
戯曲
◎『ブルグント公女イヴォナ』1938年(関口時正訳)
未知谷・ポーランド文学古典叢書。2015年。※アン=スキの『ディブック』と合冊。
◎『結婚』1948年(米川和夫訳)
白水社・現代世界演劇。1971年。※『詩的演劇』巻に収録。
※未訳の『オペレッタ』(1966)という戯曲も発表されている。
日本で読めるゴンブロヴィッチ関連書
◎『個体化する欲望・ゴンブロヴィッチの導入』
西成彦、朝日出版社・エピステーメー叢書。1980年。
※日本で読めるゴンブロヴィッチの唯一の研究書。西は『東欧の想像力』などでもゴンブロを取り上げている。
◎『語らず、歌え』
島田雅彦、福武書店。1987年。のち、福武文庫(1991年)
※世界で唯一、ゴンブロに影響を受けた作家によるゴンブロ論が収録されている。
最後に、ゴンブロの終焉を。
彼は結局、冷戦下のポーランドには一度も帰ることなく、1963年にドイツに移住、1969年にフランスで客死した。
長年彼の作品はポーランドでは発禁扱いだったが、冷戦の終結と共に、1985年、祖国で八巻の選集が刊行され、復権を遂げた。
