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PTL File.5 カポーティ『遠い声、遠い部屋』(1948)その二

 カポーティの完成した最初の長編小説。この一作は唯一無二の、比喩に満ちた幻想的な文体で書かれているが、以後の作品では平易な文体に移行している。
 この作品を一言で要約するなら、少年が思春期を迎えて、自分が何者であるかを知る物語である。通過儀礼、イニシエーションがテーマなのだが、その自己形成の場所が問題なのだ。

 アメリカ深南部、アラバマかミシシッピ州の奥地に佇む、時代に取り残された屋敷「スカリーズ・ランディング」。スカリーはそこに暮らす一族の姓だが、言葉をそのまま訳せば「髑髏の地所」である。穏やかではない。
 E・A・ポオが「アッシャー家の崩壊」に描いた、朽ちて沼に沈み行くアッシャー家。それをなぞるかのような、滅び行くスカリー家で、主人公のジョエルは暮らすことになる。
 "picturesque"という形容詞がある。おどろおどろしい廃墟や打ち捨てられた風景を指す。アッシャー家もスカリーズもまさに、そのピクチャレスクな光景を地で行くような場所だ。

 母を病気で亡くし、ニューオーリンズの叔母のもとに身を寄せていたジョエル・ノックスは十三歳。そこに、生き別れた父から手紙が来る。父のエド・サンソムが再婚して暮らす館に、ジョエルを引き取ろうと言う。
 その父からの手紙というのが不穏で、「乾いた血のような錆色インク」で書かれており、「いったいどこのどんな男がそんな字を使ってものを書くだろう?」と思われるような、華奢な装飾字体だった。後に分かるが、ジョエルの父には手紙を書けるはずがなかった。
 罠のような手紙に導かれて、ジョエルはひとり、見知らぬ土地に旅立つ。

 館の最寄りの町であるヌーン・シティーが、まず交通機関がなくて辿り着けない。近辺を担当するトラック運転手のサム・ラドクリフに乗せてもらって、ヌーン・シティーに行けることになるのだが、普通(ストレート)の中年男であるサムは、ジョエルの様子が気に食わない。

 ラドクリフは、ビール・グラスの縁越しにその少年をじっと見たが、その見かけがもうひとつ気に入らなかった。彼は「本当の」男の子がどんな外見をしているべきか、彼なりの考えを持っていたし、その少年の外見はそれにおおむね反していた。少年は顔立ちが良すぎたし、デリケートそうで、あまりに色白な肌をしていた。顔の造作のひとつひとつが繊細な正確さをもって形作られ、少女のような優しさが、そのとても大きな茶色の目を柔和なものにしていた。短くカットされた褐色の髪には、混じりけのない黄色の房が幾筋か混じっていた。そのほっそりとした顔には、訴えかけるような疲れた表情がうっすら張り付き、両肩の力ない下がり方には少年らしさがうかがえなかった。

『遠い声、遠い部屋』(村上春樹・訳、新潮社)
『カポーティ』(越智博美、勉誠出版)より

 ジェンダーの曖昧な、見るからに異質な「少年」が、ディープサウスの町に現れたのだ。サムの戸惑いが見て取れる。ジョエルの身体的特徴は、ほぼ少年期のカポーティ自身に重なる。男は男らしく女は女らしく、が求められがちな田舎で、これじゃあね、と思ってしまう。
 ジョエルの方もそんな反応に慣れているのだろう。ヌーン・シティーへの道すがら、サムの持ち物から弾丸をひとつくすねる。一発の銃弾はジョエルの宝物になるのだが、彼の父のエドの人生を破滅させた銃弾を後に想起させる。
 ヌーン・シティーから先の足が、また見つからない。そこでジョエルはとある少女に出会う。

「さあ、道路の先の方を見るんだ。赤い髪の小さな女の子が見えるな?」
 男の言うところのものをジョエルは目にした。そこには燃えさかるような赤毛のおかっぱ頭の女の子がいた。背丈はジョエルと同じくらい、茶色のショートパンツに黄色いポロシャツを着て、丈の高い奇妙な空き家の前を勢いよく行ったり来たりしていた。そして床屋に向けて親指で鼻をぎゅっと押し上げ、憎々しげなしかめっ面をつくっていた。「いいか」と床屋は言った。「あの根性悪の娘をおれのためにとっ捕まえてくれたら、この五セント玉はおまえのものだ。ああ、ほら! 気をつけろ。またこっちにやって来るぞ……」
 西部のインディアンのようにほうほうと声を上げながら、赤毛の女の子は勢いよく道を突進してきた。そしてそのあとを、年若い取り巻きたちの一群が叫び声を上げながら、走ってついてきた。ジョエルの立っている向かいまで来ると、彼女は手にたっぷり握りしめた小石を投げつけた。小石は凄まじい音を立ててばらばらと床屋のブリキの屋根に落ちた。片腕の男は卒中を起こしそうに顔を赤く染め、怒鳴った。「おまえを捕まえてやるからな、アイダベル! きっと間違いなく捕まえてやる。待ってろよ!」

前出

 個性的なボーイ・ミーツ・ガール。だが、ジェンダー的に混乱している。女の子みたいな男の子。男の子みたいな女の子。とりかへばや。床屋の親爺を怒らせている男勝りの娘が、声も男の子のようにハスキー・ヴォイスな、アイダベルだった。
 アイダベルは双子の妹で、姉フローラベルは普通の女の子。ランディングの近くに住んでいるので。また後で現れる。

 ランディングからの迎えを探し出し、黒人の老爺ジーザスがラバを操る馬車で、ジョエルは館に向かう。その途中、双子が現れるのだ。姉はジョエルの隣に腰掛けるが、妹は自由に走り回っている。
 ジョエルは最初、お淑やかそうな姉に惹かれ、粗暴な妹を嫌っているが、やがて行動を共にするのはアイダベルの方となる。
 遠路はるばる逢着した館は夜に包まれ、ポーチで中年女が待っていた。ミス・エイミー…彼の父の再婚相手だ。ジョエルの館での生活が始まる。

 ところがまあ、父に会いに来たのにエイミーは、サンソムさんは具合が悪くてとお茶を濁して会わせてくれない。この先しばらく会うことが叶わない。ジョエルの面倒を見てくれるのは、ジーザスの孫娘の美しいズー(ミズーリ)だった。
 ズーは、いつかこの屋敷を飛び出して北部へ行き、雪を見たいと話す。「あんた、雪を見たことあるかね?」と問われたジョエルは、生まれてこの方雪を見たことがないにも関わらず、「カナダで、ある嵐の夜のことだけど、ぼくは雪を見たよ」とでっち上げの話を始める。
 曰く、彼と母親が雪の洞穴に閉じ込められて、母親がずっと寒がっていた、と。騎馬警官が助けに来てくれた時、母親は凍死していた…
 さすがにズーはジョエルの出鱈目に気付いて、「あんたはまったくたいした嘘つきだよ」と反論してくる。「あんたのママは病気で死んだって、ミスタ・ランドルフは言ってたよ」
 ジョエルはもともと、周りから虚言癖の子供だと思われていたのだった。

 この屋敷には、使用人の黒人ふたりと、ジョエルの父、その妻であるエイミーの他にもう一人、エイミーの従兄弟であるランドルフもいるはずだが、彼も姿を見せない。
 食事を終えて一人になったジョエルは、屋敷をうろつき始める。ニューオーリンズ時代に友達と遊んだ「脅迫(ブラックメイル)ごっこ」だった。その頃、窓から覗いた様々な人間模様の中には、大人の男が二人で立ったままキスをしている場面もあった。
 屋敷の外を探検して回るうち、二階の窓にある人物を目撃してしまう。

 起き上がって、彼は家の黄色い壁をちらりと見上げた。そしてその二階の窓のどれが自分のもので、どれが父さんのもので、どれが従兄弟のランドルフのものだろうと考えた。そしてそのとき、彼は奇妙な女性の姿を目にした。彼女は左端の窓のカーテンを手で横に開き、彼に向かって微笑み、肯いていた。挨拶をするか、あるいは彼の存在を首肯しているみたいに。でもそれはジョエルが見たこともない女性だった。彼女の顔はぼやけて見えたし、そのふわふわしたマシュマロのような顔立ちは、あの小部屋の波打つ鏡に映った彼自身の歪んだ像を思い出させた。そして彼女の白髪は、歴史上の人物のかぶっている鬘のようだった。塔のように高くそびえ立つポンパドールと、そこからしたたり落ちるいくつもの分厚い巻き毛。彼女が誰であれ(ジョエルには見当もつかなかったけれど)、彼女の突然の登場は、その庭全体をトランス状態に陥れたみたいだった。ダリアの茎の上にとまっていた蝶々は、その翅をちらちら動かすのをやめ、マルハナバチたちの立てる耳障りな高音も、しぼむように消えていった。
 カーテンが唐突に下ろされ、窓が再び無人になったとき、ジョエルははっと我に返り、一歩後ろに下がり、鐘につまずいた。耳障りなひび割れた音があたりに響き渡り、熱のこもった静止状態を打ち砕いた。

前出

 ジョエルが与えられた部屋にある鏡には、歪んだ鏡像しか映らない。その姿と謎の女の漠とした様子が重なる。この女は実は、従兄弟ランドルフの女装姿であり、ジョエルの内面を映し出すものでもある。異性装になるかどうかはともかく、ジョエルがこの先、どんな人間に成長するのかを暗示している場面である。

 館の主とも言えるランドルフは、次の章でようやくお目見えだ。はっきりとした描写がされないランドルフは小太りで気分屋の中年男で、口がうまい。それに唆されて、ジョエルは例の謎の女のことを喋ってしまう。
 ランドルフとエイミーはジョエルの言葉を疑う。この子は虚言癖があるのではないか。やがていとこ同士が口論となり、ジョエルは一人で「遥か遠くにあるその部屋」に思いを馳せる。「その部屋」は、あの謎の女のいた部屋のことではない。

 ジョエルの内側はそっくり空っぽになった。半ズボンの中にこのままおしっこを漏らしてしまいそうだ。椅子から飛び上がって駆け出したかった。ジーザス・フィーヴァーのところでそうしたように。でも今回はそれができなかった。だからイチジクの葉が、風に吹かれて濡れたメッセージをぱたぱたと打ちつける窓をじっと見ていた。そして全力を振り絞り、「遥か遠くにあるその部屋」を見つけようと試みた。(強調は引用者)

前出

 この強調した部分を旧訳で見てみると、

彼は、無花果の葉が濡れた風まじりの伝言を叩いている窓のほうをけんめいに見つめ、何とかして遠いはるかな部屋を見つけ出そうとしてみた。

『遠い声 遠い部屋』(河野一郎・訳、新潮文庫)

So he looked hard at the window where fig leaves tapped a wet windy message, and tried with all his might to to find the far-away room.

"Other Voices, Other Rooms"《Penguin Books》

 "the far-away room"は唐突に出てくる言葉である。村上春樹訳では表記が括弧付きになっているが、旧訳の河野一郎訳ではとりわけ目立つように記されていない。原文でもボールドやイタリック体にはなっていない。
 その為、村上訳を読むまでは注目していなかったが、重要な言葉であると考えられる。村上は熱心な読者として、この言葉の重要性に気付いている。だから括弧を付けたのだ。
 この「部屋」はつまり、少年ジョエルの想像力の宮殿なのだ。最終章でも病気の熱に浮かされたジョエルの脳裏にこの部屋が現れる。「ランディングの客間」に仮託されているが、そこでは実在人物も架空人物も入り混じってパーティを開いており、この世にいない者まで登場する。生死を超越した想像力の宴は、実はジョエルの葬儀である。
 小説のタイトルになっている「遠い部屋」とは、このジョエルの想像の封じ込められた部屋を指している。病床の夢想の中でジョエルは、毒蛇に噛まれて命を落とし、棺の中に横たわり天使のように美しく化粧を施されている。少年らしさ、男らしさ、マチズムから遠く隔たった自分を眺めているのである。この想像上の部屋が現実のものとなって、ジョエルをいつか拉し去るのが宿命なのだろう。

 「部屋」の顕現は、同性愛の芽生えと足並みを共にしている。妄想を塗り込めた想像力の殿堂。この時代、同性愛者が隠し果せなければならなかった本質が、「部屋」を生み出す。
 前回の『都市と柱』の記事で、男同士の性交の場面は、殺人の場面よりも忌避された、と記した。ほぼ同時期に書かれたカポーティの作品では、同性愛はあくまで匂わせとして登場するに過ぎない。
 ランドルフとボクサーのぺぺ、ランドルフとジョエル、アイダベルとミス・ウィステリア。
 華麗な文体を操るその裏で、カポーティは焦点をぼかしているのである。もちろん、匂わせであっても評論家たちはちゃんと読み取ってくれる。読み取った上で、不健全であると批判するか、勇気ある描写だと賞賛するかは、それぞれのスタンスである。
 この後、時代は悪夢の50年代に突入する。米ソ冷戦下で反共産主義ヒステリー(赤狩り)が起こり、古き良きアメリカの伝統を守れというスローガンのもと、同性愛者も非国民と誹謗される受難の時代が来る。「部屋」の創出は、そんな苛烈な時代の到来を見据えた自衛行為なのだ。「部屋」はやがて、「クローゼット」と呼ばれることになろう。

 内面に「部屋」を宿した主人公のジョエル少年は、一度はアイダベルに惹かれる。女の子らしい姉のフローラベルでなしに、男勝りのアイダベルのほうを選んでいる時点で、ジョエルの性向は決定づけられているのだが、ある時、小川のほとりで水浴びをして、二人は裸になっている。ジョエルは求愛するようにアイダベルの頬に口づけするが、彼女を怒らせてしまう。ジョエルのヘテロセクシュアル化は失敗、という訳だ。

 一方で、ようやく会わせてもらった父は、ベッドの上で意思の疎通もぎりぎりの、廃人状態だった。エイミーの介護で何とか生き継いでいる。息子を引き取りたいという手紙なんか書けるはずがない。
 ランドルフの昔話から、この屋敷に巣食うモノの正体が明かされる。ランドルフの部屋に飾られた一葉の写真をジョエルは目にする。

 さて、テーブルの中央には、馬鹿馬鹿しいほど丁寧な装飾つきの銀の額に収められた、小さな写真が置かれていた。写真自体は安っぽいもので、明らかにカーニヴァルか、あるいは遊園地で撮られている。当事者たち(三人の男と一人の女)が、寄り目の狒々と流し目のカンガルーというユーモラスな背景の前でポーズをとっている。ジョエルはその中の一人がランドルフであることをーーこの写真の中では今よりずっと痩せて、よりハンサムであるがーー簡単に見て取った。そしてもう一人の男にも見覚えがある……それはぼくの父さんだろうか? その顔は、廊下の向かい側にいる男を微かに思い起こさせるだけだったが。三番目の男は他の二人より長身で、はっとするほど風采がよかった。見るからに体格が良く、そのひどく色褪せた写真の中にあっても、肌ははっきりと浅黒く、ほとんど黒人と言ってもいいほどだ。目は細くて抜け目なく黒く、口髭みたいにもしゃもしゃした眉毛の下できらりと光り、唇はどんな女性の唇よりもふっくらしていた。写真の中の彼はいかにも陽気な笑みを浮かべていたが、それは頭にかぶった麦わら帽や、手にしたステッキの生み出す小粋な、どちらかといえば見世物っぽい効果をいっそう強調していた。彼は娘の身体に片手を回していたが、その貧血症っぽい、林野の妖精を思わせる娘は、心をまるごと奪われたかのように彼をうっとりと見上げていた。

前出

 ランドルフは、それは自分とジョエルの父エドと、ぺぺ・アルバレスと、少女はドロレスだと言う。「みんな無邪気そのものだ。その写真が撮られたたった二日後に、私たちのうちの一人が背中に銃弾をくらって、階段を転げ落ちることになるなんて、誰に想像できよう?」
 ヨーロッパでランドルフはドロレスと出逢い、恋に落ちた。あちこちを経巡って、ニューオーリンズに腰を落ち着け、カフェでプロボクサーと知り合いになった。それがぺぺだった。エドはぺぺのマネージャーだった。
 ランドルフは逞しく美しいぺぺを、一目で愛するようになった。ドロレスもまたぺぺに惹かれていた。ぺぺは彼らの気持ちを分かって、横暴に振る舞うようになった。それでも彼らは離れられなかった。
 マルティグラの季節が来て、ランドルフは伯爵夫人に扮した。緑の仮面をつけた伯爵夫人がランドルフと知らず、ぺぺはダンスを申し込んだ。ランドルフの生涯最高の日だった。
 翌年の春、ぺぺは愛の巣を出て行った。誰を伴って行ったのか分からない。残されてパニックに陥ったランドルフは、もう一人いる人物に対して銃を構えて、撃った…ぼろ人形のように階段を転げ落ちて行ったのは、エドだった。
 ランディングからエイミーを呼び寄せ、エドの看病をしたが、彼は今の廃人状態以上には回復せず、エイミーはエドとニューオーリンズで結婚した。彼女は誰かの看護婦になりたい献身願望の持ち主だった。
 ランドルフは世界のどこにいるのか分からないぺぺに宛てて、手紙を書き続けている。
 これが、スカリーズ・ランディングの館に隠された悲劇の正体だった。

 ランドルフはジョエルを「チャーミングな坊や、かわいいジョエル」と呼び、「ここで幸福になるように努めなさい。私のことを好きになるように少しは努めなさい。いいね?」と念を押す。ジョエルをこの館に縛り付けて置きたいのだ。ジョエルの中に、自分と同質のものを見出しているということだ。
 ランドルフの女装癖をエイミーは知っていて、見て見ぬふりをしている。ジョエルがランドルフの影響下に囚われていくのも、納得ずくだった。彼女は従兄弟と良く似た生気のない人物で、アッシャー家の兄妹のように館の囚われ人である。

 ジョエルはアイダベルから家出に誘われる。アイダベルは特に姉との関係が険悪で、彼女が可愛がる老犬を、病気持ちで汚らしいから殺してくれ、と姉が両親にせがむからだ。姉も両親も嫌っている。
 ランディングでは、ジーザスが寿命を全うし、ズーが憧れの雪を見るために、アコーディオンを抱えて去って行った。ジョエルは自分もその後に続け、と考えて、アイダベルと出て行くことにする。父に別れのキスを残し、館を後にする。

 ヌーン・シティーに移動カーニヴァルが来ている。彼らはそれにくっついて、漠然とカリフォルニアにでも行くつもりだった。カーニヴァルの闇の中で、黒人の若いカップルが裸で抱き合っているのに出くわした。この長編でただ一度きりの、幸福な性の場面である。
 そしてあろうことか、アイダベルは、カーニヴァルの見世物の小人の美少女ミス・ウィステリアに恋してしまう。
 ジョエルは同行者を失い、カーニヴァルの陰影の中、ランドルフらしき人影に追われて、すごすごとランディングに帰り着く。そのまま熱病に倒れてしまう。

 ここからが問題の最終章である。グロテスクなエピソードが満載で、改めて読み直して驚いた。かつての旧訳はオブラートに包んでいたので、村上春樹が原文に即して訳した新しい稿を読むと、なかなかヘヴィーだった。

 熱病から回復した後、ジョエルはアイダベルから葉書を受け取る。アイダベルはよその町の牧師の元に行かされたらしい。しかし、ジョエルは牧師なんかじゃなく、相手はミス・ウィステリアだと邪推する。葉書は火にくべてしまった。
 ある時、ジョエルはズーのアコーディオンの音を聞く。ズーがランディングに舞い戻っていたのを知る。病気の時も看病してくれたらしいが、ジョエルは覚えていなかった。
 彼女は、北部を目指してランディングを出た後、五人の男に輪姦され暴行を受けたのだった。「その男はあたしのおへそに葉巻を押しつけたんだよ。神様、あたしの中に火が生まれた。まるで子供が生まれるみたいに……」
 ジョエルには聞くに耐えない話だった。

 やがてランドルフが、ラバのジョン・ブラウンに乗って森の奥のクラウド・ホテルを探しに、ピクニックに行こうとジョエルを誘った。そこには、ランドルフの唯一心を許した友、黒人の隠者リトル・サンシャインが暮らしているはず。
 実は、この時、ジョエルのその後を心配した叔母のエレンが館を訪ねて来る予定になっていた。ランドルフはジョエルを奪われたくないのだ。今までジョエル宛の手紙もおそらく握り潰してきたのだろう。

 廃墟クラウド・ホテルでリトル・サンシャインと一夜を過ごし、ジョエルは、この年老いた隠者の記憶こそ、「遠い声、遠い部屋」なのだと知る。怒りと屈辱と過去の栄光。そんなものの蓄積の中に、自分が探して来たものがあることを知る。

(彼は火をのぞき込んでいた。彼らの顔まで目にしたいものだと切に願いつつ。そして炎が胎児を噴出した。細かい筋のある、ゆらゆら揺れ動くかたち、その顔立ちがゆっくりと形成されていく。でもしっかりかたちを定めたときにも、それは目映い光に包まれている。そちらに視線を寄せると、彼の両目はかつまと熱く燃えた。ねえ、ねえ、教えてくれ、きみはいったい誰なの? ぼくの知っている人なの? きみは死んでいるの? きみはぼくの友だちなの? ぼくのことを愛しているの? しかしその肉体を持たぬ彩られた頭部は、仮面の奥で生まれ落ちぬままに終わり、手がかりを与えてはくれなかった。きみはぼくが探し求めていた相手なの、と彼は問うた。それが誰を意味するのかはわからなかったけれど。しかし自分にも誰かそういう相手がいるはずだ。誰にだってそういう相手はちゃんといるんだもの。年鑑を手にしたランドルフ、懐中電灯の光で捜し物をするミス・ウィステリア、ここにはない遠い声、遠い部屋を記憶しているリトル・サンシャイン。彼らはみんな記憶を持つか、さもなければ何も知らずに生きてきたのだ。そしてジョエルは身を引いた。彼が炎の中にあるもののかたちを見定めたとして、その代わりに自分は何を見つければいいのか? そんなこと知らない方が気が楽だ。手の中に天国を収めている方がいい。実際には存在もしない蝶々のように)

前出

 十三歳の少年の悟った境地にしては、余りにも諦念が深い認識。求不得苦の世界。
 この後がグロテスクの極みとなる。いつの間にかホテルのバルコニーに上がったラバは、救いの手に驚いて手すりを突き破った。

 ジョエルは衝突音を覚悟して身構えたが、音は聞こえなかった。彼が再び目を開くと、ラバは手綱のロープを首のまわりに巻き付けて梁からぶら下がり、ゆらゆらと宙に揺れていた。想像を絶した死の顔があり、そのランプのような大きな目は、松明に照らされて黄金色に輝いていた。炎の中に見えた姿だ。

前出

 朝が訪れ、ランディングへの道を戻る。ラバに乗ってきた往きと異なり、太って頼りないランドルフは意識も朦朧である。そんな災厄の中、ジョエルは、自分が誰を支えて行かなければならないのかを、劃然と知る。「ぼくは、ぼくだよ」と彼は叫ぶ。「ぼくはジョエルだよ。ぼくらは一人の同じ人間だよ」

 色彩に溢れる最後の場面は、どうか、ご自分で読んで味わってもらいたい。迂闊に引用しては瀆してしまう。十月の太陽(ミスタ・サンソムに喩えられるそれは、ジョエルが決別すべき父性というものの象徴だ)が沈み行き、ランドルフの窓にあり得ない雪が降る。雪は凍りついた愛の象徴だ。背後に残して来た少年の姿を思いながら、ジョエルは大人の階梯を登る。

 詳細に粗筋を語り、執拗に引用することはつまり、小説のハイライトを示唆すると共に、おざなりに読んでいては見落としがちな描写にも、細部に宿る文学の神を見出すための手法である。
 この小説を読み終えた時、読者のあなたは何を心に残すだろうか。
 同性愛という悪徳に捉われた少年への傷ましさだろうか。
 僕はこうやって生きて来たんだ! という作者が主人公に託した叫びだろうか。

 この長編の献辞は「ニュートン・アーヴィンに」とある。1946年6月、カポーティは滞在中の「ヤドゥー」でアーヴィンと出逢った。
 ヤドゥーとはニューヨーク州のサラトガ・スプリングスに開設されていた、作家芸術家のためのコミューンで、カポーティは親しかったカーソン・マッカラーズ(『心は孤独な狩人』『結婚式のメンバー』)の推挙でここに滞在していた。

 アーヴィンは1900年生まれの、名門スミス女子大学の英文学科教授で、ヤドゥーの理事でもあった。かつては自分の性向を否定するべく結婚もしていたが、1940年には離婚、以降は同性愛を病気と見做す風潮に苦悩し自殺未遂を起こしたり、悶々とした日々を送っていた。
 トルーマンとアーヴィンは、親子ほども歳が離れていたが、ひと目で恋に落ちた。

『カポーティ』(ジェラルド・クラーク、文藝春秋)より

 若いトルーマンにとって、父親のようなアーヴィンは恋人であり師匠だった。『遠い声』のランドルフの直截的なモデルとは言えまいが、年若い者を何らかの世界に導くメンターという役割を考えれば、影響が全くなかったとは断定出来ない。
 しかし、ナイトライフ好きで社交家のトルーマンと風采の上がらぬ孤独者のアーヴィンでは関係は長続きせず、『遠い声』の出版の翌年、二人は別れてしまった。アーヴィンの浮気が原因だったようだが、1963年のアーヴィンの死まで交流は続いた。

 カポーティの書く同性愛の描写は、とても慎み深い。時代が時代ということもあるが、リアルな描写には興味がなかったのだ。後には露悪的な表現も使うようになるが(『カメレオンのための音楽』や『叶えられた祈り』)、ジュネの如く猥褻を聖性に転倒しようとは考えなかった。
 カポーティは美しいものを愛した審美的な作家だった。美しい文体、美しい描写、美しいセンテンス。それを刻むことに腐心した。
 文学におけるリアリズムとの交流が『冷血』によって極まったからには、もはや唯美を目指した世界は描きようがなくなってしまう。そのことで、作家生命を自ら絶ってしまったのかも知れない。

 最後に、旧訳と新訳の比較を。
 河野一郎の旧訳『遠い声 遠い部屋』は、1955年に新潮社から刊行された。70年前の翻訳が、今でも本屋に並んでいる。固有名詞の訳し方や、アメリカ人の生活習慣への理解度を鑑みると、そろそろ賞味期限が近付いている感はある。
 しかし、癖のある文体を見事に訳し、時には読者の理解を助けるような意訳を加えているのは、強ち悪いことと決めつけることは出来ない。むしろ親しみを感じる。もちろん、自分が30年以上親しんでいるからである。

 却って、2023年に新潮社から刊行された村上春樹の新訳『遠い声、遠い部屋』は、なかなかな逐語訳である。原文に忠実に訳そうと言う気概が伝わって来るが、これはレイモンド・チャンドラーの翻訳でも指摘されていたことだが、詩的法悦感に乏しい。小説家の自我を出さないようにしてくれているのは有り難いが。
 春樹訳がより新しい「読み」に基づいた訳となっているのは、先程、ジョエルの想像力の殿堂である「部屋」について指摘した通り。

 どちらが良いか悪いか断定してしまうのは避けたいのだが、春樹訳が文庫化された暁には、河野訳はお役御免となるのだ。

私の蔵書は平成初期に改版された時のもの。
現在は、このような表紙になっている。

 カポーティは1984年8月25日、ロサンゼルスで亡くなった。

 ーーいまは何に生まれ変りたいと思っていますか?
 ノスリという鳥だ。
 ーーなぜノスリに?
 ノスリの生活は快適で自由だからだ。ノスリの好きな人間なんていないし、ノスリのすることを気にかける人間もいない。ノスリになったら友人や敵のことを気にする必要もない。ただ外に出て、空を飛び、楽しみ、エサを探すだけでいいんだ。

『カポーティとの対話』
第11章「ドラッグ、酒、憂鬱、そして死」
(ローレンス・グローベル、文藝春秋)

 彼はお望み通り、誰も気に留めない小さな猛禽類になれたのだろうか。

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