ゲイ読み赤江瀑210 「階段の下の暗がり」
◯ 「階段の下の暗がり」 《問題小説》 1993年2月号
酒場ばかりの雑居ビルにまつわる話。場末感溢れる舞台設定に少しげんなりするが、赤江は、最近はそういうテイストの作も多いのだ。
どこかの地方都市の盛り場にある酒場ビル。そこで華子は店を出しているが、閑古鳥が鳴いている。三階に酒場『華子』はあるが、エレベーターもない。毎日えっちらおっちら買い物袋を下げてご出勤である。
ところが、突然、隣の酒場『胡桃』のママが闖入してきた。ビルの古株の『金子』のママが、それを制止しようとして巻き込まれる形で登場する。『胡桃』ママは、最近華子の隣に店を出した新参者である。
胡桃は大変な形相だ。自分の店で客に、新しい店なのに景気が悪いのは、隣の店で幽霊を飼っているからだ、と焚き付けられてきたのだ。最初は古手の金子で事情を尋ねていたが、憤懣やる方なく押しかけてきたって訳。
幽霊を飼っていると言うのはどういうことか?、と胡桃が詰め寄ってくる。華子と金子は顔を見合わせる。そして…
「幽霊? 出るわよ。今だって、そこに、いるわよ。あんたの後ろ」
「そんなに驚くことないでしょ。あんたの所にもいるんだから」
「霊の逃げ場よ。逃げ場が、ここにはないんですって。そりゃそうよ。このビル全体が、あなた、墓場の上に建ってるんだから」
最初の剣幕もどこへやら、まだ若い胡桃のママは蒼ざめる。
隣のテナントの先代のママは、まともに霊障を受けて心を病んで店を畳んでしまった、と華子は喋り続ける。
盛り場の街の目立たない一角。
そうなのだ。このエレベーターもないようなボロいビルは、墓場を潰して建っているのだった。他の縁起のいい場所で店を持てない連中が寄り集まって、ここで店を開いているが、客の入りはてんでばらばら、どこも霊障に悩まされているのは事実だ…
なんだか、赤江らしからぬキャットファイトで幕を開け(「朝の廊下」を思い出す)、都市伝説のような酒場の怪談話が始まるのだ。都市伝説テーマは確か、単行本未収録作の「陽炎の家」があったくらいだ。
ちょっと下世話で面白いけど、先がどうなるんだろうと心配になる。
土俗的フォークロアでなくて、都会の都市伝説がテーマというのは、先程も言ったように赤江には珍しい。
ただ、地縛霊的ナニカは、前作「月迷宮」を引きずっていると思う。複数の作品で共通のテーマやモチーフが跡を引くのは、どの作家でもよくあることだ。
思いがけない幽霊話に怖気を振るって、胡桃は退散した。華子と金子は安堵の顔で…
「騒ぎたかったの、わたしの方かも知んない。パアッと。酔いどれて。飲んだくれて」
「やめてよ、ママ。それだけは。隣のママの二の舞だけは」
「ほんとね。みんな討ち死にしちゃっちゃあね……」
つと、華子は目を泳がせた。
「こいつらが、のさばるだけだもんね」
「じゃあね」
『金子』はボックスから立ちあがった。
はずみに、涼しい音色がした。
「……なに?」
「ああ。これ」
と、言って、ゆるい帯の間から小さい柄つきの振鈴をとり出して、彼女は見せた。
「お大師さんでね、もらってきたの」
「金剛鈴?」
「うん。じゃママ、おやすみ」
「おやすみなさい」
『金子』が出て行った後も、華子はしばらくその場に立って、動かなかった。
眉間に深い皺を寄せて。
(いったい幾つ、魔除けを持ったら、あのひとの気は済むんだろう……)
眉間の皺は、もっと深く刻み込まれていた。
ゆっくりと、彼女は振り返った。
壁に吊した飾り鏡のなかを、よぎって行くものがあった。
低い忍び笑いの気配が、そしてした。なにかのささめきのようなものが。
聞こえる筈のないものに耳を貸してはならないのだと、華子は、思った。
いつも思うことだった。
やはり、このビルには、霊がいる…
やがて、時は流れ、別の場所で華子はおでん屋を開いていた。そこに開店早々、女客がひとり訪ねてきた。地味ななりの中年女だが、華子の記憶の奥底にある名前を名乗った。
私はほんの短い間だけ、胡桃のママだった、と。
結局、あの夜から間もなく、隣は店仕舞いした。それから、胡桃は不幸続きの人生を送ったのだと言う。あの「寿ビル」(そういうイカにもな名前だったのねw)から同居人を連れてきてしまったらしい、と。
母の葬式でこの町に舞い戻り、かつて「寿ビル」を知っていた人から聞いて、ここを訪ねてきたのだと。
寿ビルは、ゲイバーのマスターが痴情沙汰で出した失火で全焼し、幸い人死には出すことなく、今は駐車場である。
しおらしい口調で、その後の半生を語る胡桃ママ。
そこへ裏口から、買い物のビニール袋を下げた老婦が入ってきた。
華子は、胡桃に、金子ママよ、と改めて紹介した。
金子の懐で、金剛鈴が密かに鳴った。
酒場の幽霊譚を、赤江の、手練れのしみじみとした筆致で語られると、たいした話でもないのに、こちらまで懐旧の念に襲われる。
今は酒を医者から禁じられている私も、若い頃あちらこちらで飲み歩いて、ひとときの縁を結んだものだ。そんな昔の顔知り人たちは今どこでどうしているのだろう?
もうみんな、幽霊になっちまってるかもしれないね。ふふ。桑原桑原。どっかでお呼びがかかってるかもしれないよ? こっちおいでって。楽しいよって。そうね、あっちのが楽しいかもしんないねえ。
『月迷宮』 1993.8. 徳間書店
『魔軍跳梁 赤江瀑アラベスク2』 2021.4. 創元推理文庫
