ゲイ読み赤江瀑181 「風の艶声」
◯ 「風の艶声」 《小説NON》 1987年9月号
みんな大好き、赤江瀑の単行本未収録短編だよ〜(もういいって)。
前回の「粘土の家」はうっかり種明かしも出来ないショートショートだったが、今回は長めの短編。しかも祥伝社の《小説NON》という初座敷。
祥伝社は小学館&集英社の一ツ橋グループの出版社で1970年から歴史がある。〈ノンブック〉という新書版で創業当時からベストセラーを出し、五島勉『ノストラダムスの大予言』、梶山季之『ポルノ聖談』、竹村健一『世界珍行漫行』、陳舜臣『日本語と中国語』などが初期のベストセラー。
新書版の〈ノンノベル〉、文庫版の〈ノンポシェット〉(現在は祥伝社文庫に改名)というレーベルを持っている。私にとっても馴染みの深い出版社だ。
1986年に《小説NON》創刊。赤江は比較的早い執筆者だが、同誌次作「華燭の舟」は1993年掲載。もしかしたら、その期間に埋もれた作品があるかもしれない。私の調べた限りでは見つからなかったが。
赤江はこの年、前年の3作を下回る2作しか発表していない。「蘭灯の招き」とこれだ。〈惑星たちの舞曲〉連作を書き上げた反動か、「オイディプスの刃」映画化で原作文庫も売れたからか、翌年の初エッセイ集『オルフェの水鏡』の編纂に時間を取られたか。
まあ、モチベーションの穿鑿は別にしても、さて、埋もれていた本作の出来はいかに?
浜辺の魔のテーマと、ドッペルゲンガーのテーマのハイブリッド作品である。怪談としては底が見え見えだが、悪くない出来だと思う。埋もれたのは、雑誌に単発でぽんと載ったのが災いしたのだろう。
光征は今年もこの浜辺を訪れた。大学生になった今もダイビングや釣りを楽しみにして、土地の少年・ヒロシとも仲良くなっていた。
浜には浜昼顔が咲き残り、これから浜薊の季節だった。これらの花は時期が違うのだ。
浜辺に奇妙な人影がいるのを、光征は発見した。
波が打ちあげた海藻か魚網のかたまりと見えた異様のものは、近づくにしたがって、人間とわかってからも、どことはなしにふしぎな眺めがあり、男とも、女とも、判じかねた。
顔は麦わら帽子で隠れ、躰はすっぽりとポンチョ風のごわついた衣類におおわれて、その砂地にひろがった布裾のあたりから、ときどき絵筆を持った手首だけが出てきて、イーゼルの方へのび、キャンバスに絵の具を塗っていた。
光征は、十メートルくらい手前で、足をとめた。
少年も、光征の視線に気づき、急に呑み込み顔になって、つとそばへ寄り、声を低めて光征に囁いた。
「変な女だろ」
「女? 女なのかい?」
「男に見える?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ……」
「いっつも、あれ、おんなじ絵、かいてるんだよ」
「絵かき?」
少年は、ぷっと吹き出して、
「おんなじ絵だよ。いつ見ても、あの絵を、あそこで、かいてるんだ。昨年もそうだったし、その前の年もそうだった。そんなのろまな絵かきって、いる?」
「へえ」
「話しかけちゃあだめだよ。凄い眼でにらまれるだけだから。なに、そっとしときゃいいんだ。そっとして、知らん顔してりゃあ。もっとも、話しかけたって、口をきくような女じゃないから、誰も寄りつきゃしないけどね。たださァ、シイッ、シイッと、猫が犬でも追っぱらうみたいに、歯をむいて、シイシイ言うの。あれだけは、頭にくるけどさ」
「へえ。変わってるんだな」
「そう。変わった女」
「土地の人間かい?」
「ちがう、ちがう。あんな変なの、このあたりにゃあいやしないよ」
「じゃ、よそからやってくるのかい?」
「そう。やってくるんだ。毎年、夏になると、あそこに」
そう言って、少年は、その一帯の砂浜をなだらかな起伏を見せて弓形状にとりかこむ丘陵部の頂上を、指さした。
その丘の頂きには、木立ちの蔭に青い瓦と白壁の瀟洒な西洋風の建物の一部分が望まれた。
少年はその別荘が、大女優の高村銀子のものであると教えた。二人はその謎の女を遠巻きに過ぎようとしたが、光征は気が変わり、女の描く絵を覗き込んだ。
そこには別荘の建つ丘の光景が描かれて、手前の浜には浜昼顔の薄紅色の花が、丘陵部は浜薊の濃紅色で埋め尽くされていた。その上に青屋根瓦と白壁の別荘。
花の時期のずれる種同士、あり得ない風景だった。
その女の素性は別荘の家政婦だと、少年が言った。顔を見たことあるのか、と訊くと、「あるよ。言っただろ。歯をむいて、おれたち、追っ払うんだもん。むいた歯から、ヒューッて、つばきがとぶんだぜ」と答えた。
章が変わると、その女の視点になっている。豊子はキャンバスに、二種類の花の色を競演させていた。本当ならどんなに素敵な眺めだろう、と。
遠い昔、はじめてこの入浜の陽射しの中に立ち、浜昼顔の絨毯の上を転げ回ったこと。風の芯まで紅色に染まるような浜薊。ここに、住みたい。一生、ここで暮らしたい。きっとここに住んでみせる、と誓ったあの頃。
竹野豊子は青瓦と白壁の家を見上げた。
光征は実はこの浜に来るのは三年ぶりだった。ヒロシからの手紙を受け取ったからで、そこには、この浜で不審な水死人が三人も出たことが記されていた。
三年前、彼がこの海に近づくまい、と思った時も、同じように水死人が連発した。その時、光征は事故のことを必死で調べ回って、時には駐在や漁師とトラブルになることもあった。
彼はさらに三年前の六年前、この浜で、友人が溺死する事件に遭遇していたのだ。そのことを調べに浜に通っていたが、埒が明かなくて一旦諦めたのだ。
黄昏の浜で起こった束の間の出来事は、幾度思い返してみても、夢魔の手で描き出された幻のフィルムの中の情景かなんぞのようで、焼け切れたフィルムの画像をとつ追いつ捲き返して見ているような、どこかで夢の気配を引きずっていた。
光征は、砂浜に寝転んでいた。
友人は、一声だけ、光征の名を呼んだ。
振り返ると、彼は、波打ちぎわを這っていた。
海の方へ臀を向け、ちょうど水から今這いあがってきたところだと見れば、おかしくない姿勢だった。光征も、そう思った。
友人は、その姿勢のまま、しかしずるずると海の中へ逆行し、見る間に水に呑まれて消えた。
光征は、はっきりと見た。その友人の背の上にあったものの、物影を。
あの薄暗さは、黄昏の浜の残光のせいであったか。正確に表現すれば、それは、薄暗い影のかたまり、影色をしたものの嵩ばり、とでも言うほかはない。
そんなものが、友人の背にあった。おおいかぶさるような物影だった。
光征は、友人が海藻の束を背に置いて、なにかふざけて見せているのだと、思った。そして、そのまま、また寝転んだのだった。
すぐ出てくるはずの友人は、それっきり、水の中から出てこなかった。
気がついて動転したが、後の祭であった。人を呼び、船も出し、探索には手を尽くした。友人の死体は、翌日の昼間、浜からは一岬まわった裏手の海の底から引き揚げられた。単なる溺死以外の損傷や異常な点は、どこにもなかった。
その頃、別荘では豊子がキャンバスに向かって北叟笑んでいた。執拗に絵に手を加え続ける。そこへ銀子の声が聞こえてきた。
「たかが絵の具の家じゃないの。かいたところで、消したところで、どっちにしたって絵の中の家。屁の突っ張りにもなりゃあしないわ」
「あなたには、わからないわ」と、豊子も言い返す。
豊子は掴んでいた絵筆をぶるぶると震わせると、
「この別荘は、わたしが、ここに、建てたいと思ってたものなのよ」
「だったら、建てたらいいじゃないの」
「どうして建てられるのよ。あなたが先に建てちゃったのに」
豊子は自分の建てたかった夢の別荘を、銀子に奪われたと思っている。
「そりゃあ、あなたは大女優。もっとも、昔の話だけど。引き替え、わたしは、ごらんの通り。この絵筆が捨てかねて、こうして握っちゃいるけども、いまだに名無しの、芽も葉も出ない、三文絵かきのなり損ない。『ばかな女』『ばかな女』と、あなたに言われつめてるような女ですよ。でもねえ、放っておいていただきたいわ。あなたに奪られた住み場所を、奪り戻せるのは、このキャンバスの中だけなんだから」
銀子はやがて冷たく告げる。
「そのキャンバスを持って、どこへなりと行けるじゃないの。それさえあれば、好きな所で、好きなように、暮らせるでしょ」
その夜、別荘は火に包まれた。
焼け跡から、高村銀子の死体が発見された…
新聞の記事で、光征たちは、銀子の本名が「竹野豊子」であることを知った。あの浜辺で絵を描いていた女は確かに「TOYOKO」と署名していた。彼女がまさか銀子自身だったなんて。
別荘も売りに出ていたのだった。
黄昏の波打ち際、ヒロシの愛犬が急に鳴いた。そこにもつれた魚網のようなものが見えた…
最後は見事に怪談に着地するが、赤江が書く女たちは、家に執着する向きが多い。三界に家無し、と言われる彼女たちの精一杯の抵抗なんだろう。そう思えば、物悲しい。
※収録本なし。
