PTL File.2 ジュネ『花のノートルダム』(1944)その二
『花のノートルダム』の冒頭に、作者本人を思わせる囚人のモノローグがある。社会を震撼させた実在の死刑囚たちを祀る祭壇の件。
独房の壁の規則書の裏に、新聞から切り抜いた死刑囚たちの写真を口噛みしたパンの糊で留めた、美しく禍々しい男たちのピンナップ。それを拝跪し、その男たちに肉体を蹂躙される夢を貪る囚人の「私」。
逞しい殺人犯たちの幻の愛撫に悶えながら、「まだ会ったこともない恋人たちの助けを借りて、私は物語をひとつ書くことにする」。小説生成の宣言。「監獄作家」ジュネの伝説の始まりである。
「ディヴィーヌ」"Divine"とは「神聖なもの」を意味する形容詞"divin"の女性形なのだが、英語読みして「ディヴァイン」と言うと、悪趣味映画の帝王ジョン・ウォーターズ監督の一連の作品で怪演を繰り広げた、同名の巨体の女装俳優(1945〜1988)が有名。アメリカの◯ツコ・デラックス、などとも言われる人ね。
ニュアンスは一緒で、アタシは神々しいの、女神なの、と自他称するオカマということである。そんな「ディヴィーヌ」が物語のヒロインとなる。
開巻まもなく、ディヴィーヌの葬式が語られる。肺病で血を吐いて死んだのだ。彼女は墓地の見える屋根裏部屋に住んでいた。その窓の下の墓地に葬られることになり、お仲間の女装の男娼たちが盛装で送り出す場面から始まる。そこに、彼女を捨てた男がやってくる。物語はふたりの出逢いへと遡る…
ディヴィーヌはかつて「ミニョン」という美男の「ヒモ・女衒」とめぐり逢い、激しい愛欲に溺れ、この部屋でともに暮らした時があった。
ディヴィーヌの葬儀の部屋には、彼女の母親、エルネスティーヌが滞在している。ディヴィーヌは実はルイ・キュラフロワという本名の、田舎生まれの元少年である。
実は、このルイ・キュラフロワという名前、実在の人物のものだった。『ジュネ伝』を記したエドマンド・ホワイトは、ジュネが幼少期を過ごしたフランスの寒村アリニィ=アン=モルヴァンで、この人を探り当てる。ジュネの幼な友達のひとりであった。
ディヴィーヌに血を吐いて死ぬと言う運命を課した作者は、ミニョンのことは再三その容姿を魅力的に描く。彼はオナニズム的な作者自身の欲望の相方でもあるからだ。
「ミニョン」"Mignon"の名の由来は「可愛い坊や」。ちっとも可愛くないヒモ野郎である。作者は自分好みの男を登場させる時、必ず身長体重などの「スペック」を記している。まるでゲイの出会いサイトのよう。ミニョンのスペックはこうだ。
ミニョンの人相書。身長1メートル75、体重75キロ、卵形の顔、金髪に緑がかった青い目、さえない顔色、完璧な歯並び、まっすぐな鼻筋。
そして秘密出版の初版では、ガリマール社版全集では削除された「チン長」が、ご丁寧に付されている。「男性器官、勃起時の長さ24センチ、周囲11センチ」。あら、まあ!w
ミニョンがデカチンで男性的魅力に溢れる登場人物であることはわかったが、彼は「ヒモ」(河出文庫版、光文社古典新訳文庫版)、乃至、「女衒」(新潮社ジュネ全集版、新潮文庫版)と称されている。新潮社の堀口大學訳では「マック」とルビが振られていて、"mac"すなわち"macquereau"の短縮形、ファストフードのチェーンにあらず。
ならばディヴィーヌはなんと説明されているのか。訳は「おかま」(新潮社版)、「男娼」(河出文庫版、光文社古典新訳文庫版)であり、堀口訳には「タント」とルビがある。"tante"と綴る。
数年間ふたりは仲良く暮らしたが、ミニョンはやがて、ディヴィーヌの男娼仲間のミモザに乗り換えて出て行く。ジュネお得意の裏切り行為だ。
浮気は長くは続かなかったけれど、ミニョンはディヴィーヌの元に帰らず、外でミニョンが拾った男が、小説のタイトルである花のノートルダムだった。
ノートルダムのスペック(「身長1メートル71、体重71キロ、卵形の顔、金髪に青い目、さえない顔色、完璧な歯並び、まっすぐな鼻筋」)は、例の監獄の壁の祭壇の後に早々と記されているのに、かなり話が進んでから登場する。ノートルダムは、ディヴィーヌとミニョンの間に割って入ってくる存在となる。
ノートルダムの人相書とミニョンのそれが、全く同じ文章であることにお気づきだろうか。ノートルダムがやや小型なだけで、外見はそっくりだ。
これは作者が未熟で書き分けが出来ていないと言うよりは、双方が相似形であることに意味があるのだと思う。ミニョンとノートルダムのまぐわいは、作者曰く「近親相姦的」。
ミニョンとノートルダムは、ふたりしてホテル暮らしで散財して文無しになり、ディヴィーヌの屋根裏部屋に転がり込み、彼女は両人の面倒を見る羽目になる。しかし、ディヴィーヌの中に新たな感覚が湧いてくる。
これまでのところ、ディヴィーヌは自分より強く、ほんの少しだけ年上で、自分より筋骨たくましい男しか愛さなかった。だが、体も心も花のようなたちな花のノートルダムがやって来て、ディヴィーヌは夢中になった。何か新しいもの、ある種の力強さの感情がディヴィーヌの中に生まれた(植物学の用語でいえば「発芽した」ということだ)。彼女は、自分が男らしくなったように思えた。狂った望みが、彼女を強く、頑丈にし、精力をあふれさせた。筋肉が発達し、ミケランジェロの奴隷のかたちに彫られた岩から自分自身が抜けだすのを感じた。
ディヴィーヌはノートルダムに対して歳上らしく(タチらしく?)振舞うようになった。ディヴィーヌは女装のオカマなのだが、ノートルダムのほうは異性装なしの魅力的な美青年、タントの理想形なのかもしれない。
のちに登場する黒人ゴルギとのパーティ場面で、ノートルダムはディヴィーヌに導かれて美しいドレスをまとい、女に変容する。ノートルダムはディヴィーヌを凌駕する。
もともとディヴィーヌとミニョンの間にも、不可思議な関係が存在する。ふたりが相愛だった時期、ミサに行った後の一文を引用するが、これも全集版からは削除された場面である。光文社古典新訳文庫版の訳者が、親切にも解説の中で訳してくれているのだ。
ディヴィーヌは仰向けに横たわり、自分の口にミニョンがさおを押しこむままにさせる。ミニョンがディヴィーヌの上でリズミックな動きを繰りかえすあいだ、彼の腹が彼女の顔にこすれ、彼の隠毛が彼女の目に入る。ディヴィーヌは片手で自分をしごきながら、もう片方の手でミニョンの尻を愛撫する。彼女は自分の男がいく正確な瞬間を予想する方法をしっかりと学んでいたので、同じ瞬間に自分もいくように自分自身の手の動きを調節する。精液がミニョンの陰茎のなかをせり上がり、自分の唇のすぐ下に来るのが分かる。精液が口にあふれると同時に、喘ぐミニョンの毛深い脚にディヴィーヌも精液をほとばしらせる。それから二人は煙草を吸い、永遠のお茶を飲む。かつては、ディヴィーヌの男性の部分にミニョンは尻ごみしたが、いまは、その硬さを下腹部に感じることが好きになっていた。ミニョンは鏡のなかに入るように、ディヴィーヌのなかに入りこむ。ミニョンははっきりと意識していたわけではないが、ディヴィーヌのなよなよした体から、かつて死んだもうひとりのミニョンへのノスタルジーを感じていた。そのミニョンは立派に埋葬されたが、彼の死を嘆く者は誰ひとりいなかった。ディヴィーヌは生温かいお茶をひと口飲み、それを一瞬、口のなかにとどめ、自分の口をミニョンの口に合わせて、お茶を口移しした。その行為をミニョンは受けいれた。こうして、同じことが繰り返される。
ディヴィーヌの口に挿入する時、ミニョンは鏡の中へ入って行く感覚に捉われる。ディヴィーヌの男性性を、ミニョンが己のように感じたと言うことなのだろうか。
そうすると、ミニョンもおそらく、作者の鏡像のひとつではないか、と思われる。ディヴィーヌとミニョン、ノートルダムとミニョンは、それぞれ相似形であり、したがって、三人は三幅対である。キリスト教の三位一体に準えているという見方もある(『ジャン・ジュネの世界』リチャード・コー他)。
作者の分身の三つ巴。ややこしいけどこんな事態は、自足的なポルノグラフィではよくあることだ。
ミニョンがいち抜けした物語の後半では、セック・ゴルギという黒人のマックが現れる。この男は、全集版で削除された人相書が示す通り、並外れたマックである。
セック・ゴルギの人相書。身長1メートル77、体重88キロ、卵形の顔、黒い縮れっ毛、黒い目、黒い肌、完璧な歯並び、ただし大臼歯は金歯、低い鼻、勃起時の男性器官、長さ28センチ、周囲14センチ。
もはや驚きはしないが、伝説のゲイビ男優ジェフ・ストライカー超え(ジェフは25センチ)である。こんなん相手したら、オケツ壊れちゃいませんかね。舞い戻ってきたノートルダムと、彼らは3Pに興ずることもある。パーティの夜を境にディヴィーヌはノートルダムを憎むようになる。若さへの嫉妬。自己の鏡像への憎しみ。
ゴルギとノートルダムの仲に嫉妬して醜くなってゆくディヴィーヌは策略を立てて、例の宿敵にして親友のミモザにノートルダムを譲り渡してしまう。
粗筋を追うだけでは能がない。花のノートルダムは最終的に殺人罪を自白して逮捕され、裁判にかけられる。裁判の誰何の場面で、ノートルダムの本名や生年月日が明かされるが、その日付は「1920年12月19日」である。ジャン・ジュネ自身の誕生は1910年の同日である。
美しき殺人犯・ノートルダムは、ジュネの憧憬の化身であることは間違いない。
病が重くなったディヴィーヌがエルネスティーヌに支えられて出廷する他、錚々たるオカマの面々が証人として呼ばれるノートルダムの法廷の場面が、クライマックスである。コクトーもここが一番美しく印象的だったと日記に記している。
かわいい坊やのノートルダムは死刑を宣告され、断頭台の露と消える。かくてジュネの祭壇の一員となるのだろう。
最後に、ミニョンはケチな罪で監獄にぶち込まれ、娑婆としばしの別れとなる。
ジュネという作家の魅力をちゃんと語っておきたい。ここの記事だけだと、自己アピールの強い稀代のほら吹きと思われてしまう。
彼の小説を現代に読む同時代性とはなんだろう? それは、ポルノ的なディテールでもない、犯罪者の自己憐憫でもない、神学的な聖性でもない。泥海のような世界で、いかにして男が美しく在るかを追究し続けて見届けたこと、ではないだろうか。
常識的なモラルを持たず、向上もなく進歩もない輩だが、堕ちれば堕ちるほど輝く肉体。人物たちの栄光と汚辱の変容。
ゲイ文学のコンテクストとしては、そこを、一番評価して欲しいのだ。
自然界ではオスのほうが、体色や羽根の色も鳴き声も周囲の目を惹き優美であることが多い。ミソジニーを表明するつもりはないが、人間のみなぜか、装う美しさはたいていメスの属性となる。それにジュネは、ノン!を突きつける。
女の格好をし滑稽なようでいて悲哀を湛えたヒロインとしてのオカマたちと、原石を磨くが如き男の美しさを備えた小悪党のヒモたち。
彼らが本能のまま交わり、裏切ったり裏切られたりするダイナミズム。ジュネの五作の長編はそれぞれ性質を異にするが、『花のノートルダム』という作品に関しては、味わうべきはこの一点だろう。
素直にポルノグラフィと思ってもらって差し支えない。扇情的でない理知のみの小説というものも、この世にあるにはあるが、ジュネはそこを目指していないのだから。
汚辱に塗れた美しい男たちの堕落に喜びを見出すことは、さながら、矢に篦深く貫かれた肉体に欲望を抱く、三島由紀夫の仮面の話者のようである。これで上手くまとまったのかな?
そんなふうにおいそれと、まとめさせてなんかくれねえよ、ジュネは!w
テクストについて蛇足を。
この長編は邦訳が3種類ある。
◯堀口大學訳 新潮社版(後に全集、文庫) 1959年
◯鈴木創士訳 河出文庫版 2008年
◯中条省平訳 光文社古典新訳文庫版 2010年
訳文を比較して論評することも考えたが、ただでさえ長い記事になっているので、それぞれの訳者の特徴だけここに記しておく。
堀口訳は「ですます調」の語り口で、御伽噺や神話化を図っている。半世紀以上前の訳文なので、古色は否めないが、かつてはこれしか翻訳がなく、多くの人に愛読されてきたものである。
鈴木訳は訳註を本文に織り込んだ、読みやすさを優先したもの。註釈が最低限しかないので、そこは要注意です。今は便利な世の中だから、何か引っ掛かる語があれば、自分で調べられたし。
中条訳は今回、主なテクストに使用したが、いい具合に註釈が施されて、地口やスラングを愛好したジュネの文体の理解に手を尽くしている。解説文に、ガリマール社版全集で削除された文章が、一部訳載されているのも嬉しい。
新潮文庫と河出文庫は品切れだが、入手は比較的簡単だろう。
※ジュネに関してはもう一回、読者ガイドを付すつもり。同時に掲載する。これからも、私の鍾愛の作家には、ガイドをちゃんと付けます。さほど好きでもないとか、あまり日本では紹介されてない(資料が少ない)作家には付けませんので、あしからず。
