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PTL File.12 レチー『夜の都会(まち)』(1963)その一

 伝説のゲイ作家、ジョン・レチーの登場だ。ほぼ60年前に訳されたまま再刊されていない作品だが、多少の高値を我慢しても、探して読む価値のある本だと思う。

 あとになって、ぼくはいつも、アメリカを一つの大きな夜の都会まちと、東はニューヨークのタイムズ広場から西はハリウッド大通りへとはなやかにつづいている夜の都会と、考えるようになった──そこでは自動電蓄ジュークボックスがまばたき、ロックンロールがうめきつづける。夜のアメリカは、無数の暗い都会を一つにとかして、まぎれもない孤独の姿に変えている。
(中略)
 一夜の性と、煙草の煙と、孤独のひしめく部屋々々を……
 そしてぼくは、終夜の映画館からビヴァリー・ヒルの大邸宅にいたるまで、人々がその巨大な夜の都会の中で、黒々とした陰気な姿で生きのびているのを思い出すのだ。

『夜の都会まち』(高橋正雄訳、講談社)

 この長編は四部構成でそれぞれ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューオーリンズを舞台にしている。だが、物語の始まりはテキサスだ。
 開巻間もなく、主人公のエルパソ時代の思い出が語られる。レチーの自伝小説である本作は彼の生まれ故郷から始まる。エルパソ近郊の荒涼たるスモールタウンが、彼の最初の記憶なのだ。
 レチーが刊行20周年の1984年に付けた序文(未訳)によると、彼はトマス・ウルフの『天使よ故郷を見よ』(今では読まれなくなったがアメリカ文学の古典だ)を念頭に置いて放浪を描いている。その荒涼感は夜の都会の場面にも共通の雰囲気である。

 小説の主題である「天国から閉め出された人間=同性愛者」が、ここで示される。

 ところで、その夜の都会から都会への旅は、エル・パソで始まらねばならなかった。テキサス州のエル・パソで。そして、それは風の中で始まるのだ……まるではがねのドアが人間たちを天国から閉めだしてこの世にとじ込めでもするように、灰色の雲が空をおおった、ある日の南西の大風の中で。

同上

 まだ幼い彼は愛犬のウィニーの具合が悪いのを心配している。嵐のような風の吹く中、ウィニーは死んでしまう。彼は母親にウィニーは死んだらどうなるのか尋ねるのだ。

(前略)「──もしウィニーが死んでも、ぼくは泣かないよ。だって、ウィニーは天国へいくにきまってるから、天国でもう一度会えるもん」すると母が、「犬は天国へはいかないんだよ。犬には魂がないからね」といった。母の話しかたは残酷そうではなかった。母には冷たいところは少しもなく、あるのはただ、ぼくを息苦しくするようなやさしさだけで、それはやがて父の中に見出した憎しみと同じぐらい、力の強いものだった。「じゃあ、ウィニーはどうなるの?」とぼくはたずねた。「死んだら、それでおしまいさ」と母は答えた。「体はなくなり、土になるだけだよ」

同上

 論者の私も実はクリスチャンの家庭で育ち幼児受洗もされたものの、長じてゲイだという自覚を持つようになってからキリスト教との葛藤に苛まれた一人である。
 中学三年の頃、愛犬を亡くして悲しんでいた時、親しくしていた牧師からレチーと同じような話をされて衝撃を受けた。犬も猫も天国へ行けないんですよ、と優しくも非情な通告をされたのだ。「虹の橋」だなんだという綺麗で感傷的なお話はクリスチャンには通用しない。

 この場面が重要なのは、キリスト教においては、神の似姿に象られた人間と異なり動物は魂を持たない、ということと、同性愛者もまた天国に拒絶された存在だということだ。
 やがてウィニーの亡骸を埋めた墓が臭い始め、葬り直すことになる。少年は魂なき腐敗に侵された肉体と対峙する…

 1931年生まれのジョン・レチーの世代だとまだ暗黒の50年代に青春を過ごしている。当時同性愛者は社会を壊す一因として共産主義者と同じように非難され迫害を受けた。
 大学を出た後軍隊に行ったレチーは、除隊後小説の主人公と同じくハスラー稼業を始める。彼の自伝"About My Life and the Kept Woman"(2008、未訳)によると、Johnny Rioなる名前でタチ役の男娼をしていた。

 その自伝にはハスラー時代のポートレイトも収められていて、男性的魅力溢れる若き日の勇姿が見られる。

"About My Life and the Kept Woman" Grove Press

 主人公の追憶に必ず現れる、死せるウィニーと転がる草とテキサスの荒い風。そこから遥か遠く隔たった「夜の都会」で彼は色んな人物と出逢う。
 性に囚われ、性にすがり、性を拠り所として生きる夜の人々のポートレイトが八人分描かれている(講談社の訳は抄訳で、本来は十二人分のエピソードがある)。
 それ以外のテキストは全て「夜の都会」というタイトルで統一されているが、個性的なポートレイトを縫うように「夜の都会」のテキストが繋いでゆくのは、孤独の肖像だ。故郷を遠く離れて見知らぬ夜に生きる我々にとってもこの小説のひりひりとした焦燥感は、とても切実なのではないか。我々はダンテの神曲の主人公のように「ここ過ぎて滅びの街」にいるのだから。

 滅びの街=夜の都会(まち)。語り手の「ぼく」は「現実ばなれしたもの」であった軍隊生活の後、ニューヨークを目指す。田舎町では得られない自由を手にするために。そこで出逢うのがキングという男だ。
 人名を冠した章の一番最初が「ミスター・キングーー二つのライオン像のあいだでーー」。「ぼく」はYMCAで船員の男と出会い、彼に勧められてタイムズスクエアに立つ。白髪頭の中年男がぼくに「十ドル払う。よけりゃあおいでよ」と誘ってきた。彼がエド・キングだった。

 キングは、ぼくを買った。恥ずかしがるぼくに彼は名を名乗った。そして、急にぼくに説教を始めるのだ。

「あそこはよくないよ」ぼくは雨の音にまじって聞こえる彼の言葉を聞いている。男はぼくからはなれ、二、三フィートはなれた椅子に坐ってぼくを見つめる。「そうだ、よくない──どうして、あんな通りをぶらつく気になったんだい? 君はなかなかいい顔をしている。きれいっていうんじゃないが──そうだ──君なら──」
 そこで言葉がとぎれ、
「──だが、ちょっと性的魅力がある。君のようなタイプの好きなやつには──」
 また言葉がとぎれ、
「ちょっと、生すぎるかもしれないが──使いものになるよ」この最後の言葉をぼくにまともに投げつける。
 それからよく聞きとれないことをいい、
「──それなのに、なんだってあんな通りをうろつくんだい? 国に帰って、女の子と結婚でもしな──いい子がいるんだろうが? ──そして鼻たれ小僧をどっさりつくるんだ。いいかい、ニューヨークからは足を洗うんだよ──こうしたいかがわしい都会まちからはな──君はロサンゼルスからきたのかい? 違う? あそこにも近づかないほうがいい──君なら出来そうだ──ぼくは一度あそこにいったことがあるが──まったくひどいもんだ。あのパーシング広場ときたら、まるで気違い病院だよ! ……だけど、四十二番街は最低さ」男は煙草の吸いさしを灰皿の中でもみ消す。それはまるで白いうじ虫のようにぐにゃっとつぶれる。
「これでもまだ、君は十ドルかせぎたいかい?」

同上

 いるいるこういう奴。相手を買っておいて説教する奴。いや何も娼婦や男娼相手だけではない。自分だってハッテン場でヤった若い子に、この種の口を聞いていないとは言い切れない。  
 曰く、君は可愛いんだからこんな所に来るんじゃないよ、ここは悪い所だから、素敵な人を見つけて足を洗いな…さんざんヤることはヤっておいてどの口が言ってんのかと自己嫌悪になるようなことを、確かに言った覚えがある。
 つまり、キングは主人公に好意を抱いているのだ。まだすれていない未完成のハスラー候補に惚れかけている。だから、自分やその他の男たちが辿った苦悩と孤独の人生を味わわないようにと小言を垂れる。
 かつて己も言われたかもしれない言葉を、鸚鵡返しに我々は次の世代に投げかける。お節介、行為、お説教…小うるさい爺さんの繰り言。それはあざとい好意の裏返しだ。世間の荒波に散りゆく花を惜しんでいるのだ。でも花はどうせいつかは萎れる。少年はすれっからしになってゆく。

 ミスター・キングはかつては自分も君のような"fucking cocky"(男役、タチ)だったと言いながら、今は相手役になってしまったと自嘲する。ぼくにタチをやらせた後、身繕いをし約束する。「二つのライオン像のあいだで」また会おうと。
 何度か二人はそこで会うが、ある時、ぼくは、遠目で待ち合わせ場所をすがめ見て、キングがおめかしして自分を待ちぼうけているのを見かける。ぼくはそのまま自分のねぐらへ帰ってしまう。キングの切実な気持を知って、それを重く感じてしまったのだ。
 彼とはそれきりになり、別な日、彼が黒髪の少年を連れているのに出くわした。彼は急いで立ち去ってしまった…
 語り手がこの稼業に就いて初めての顧客と言えるキングとの顛末である。

 キングの長広舌の科白も随分と刈り込まれている。原文では「四十二番街は最低さ」の後にニューオーリンズのエピソードも盛り込まれているのだ。こうして各所、原文通りに翻訳が為されていないので、論じるに困ってしまう。
 でも、細かい部分を省略されていても、この作品の持つ寂寥感やハスラーの哀歓は味わうことが出来る、と私は信じてもいる。

 胸に迫る性愛のエピソードの羅列。これがこの小説の基調を成すものだ。ゲイなら身に覚えのあるちょっとした悲劇や喜劇を、レチーは淡々と描いてゆく。そしてハスラーの世界の絶対的孤独を浮き彫りにしてゆく。
 ジュネなら絶対に書かなかったであろう都市の寂しさは、レチーがハスラーという生き方を選んだことによる。ハスラーは人を愛してはならないのだ。男の中の男は、愛や恋やそんな情緒的なベタベタしたものに惑わされてはいけないのだと。

 ハスラーの世界を描いた映画がある。ブルース・ラ・ブルース監督の『ハスラー・ホワイト』(1996)。スーパーモデルのトニー・ウォードにハスラー役を当てがい、全裸撮影や過激なファック場面、マスターベーションを撮ったキワモノ的作品だ。
 そこでも、ハスラー役のウォードは、インタビュアーとして登場する監督のブルース自身になかなか心を開かない。心を開き相手を簡単に信用しては、ハスラーの名が折れるのだ。
 あるいは、日本の吉原遊郭を舞台にした某映画。花魁はおいそれと男に惚れたりしない。惚れたが最後、自分の身を憐れむしかなくなるからだ。

 ミスター・キングとのエピソードだけでこれだけ語ってしまうのもどうかと思うが、この長編はゲイの中でも特殊なハスラーという人種の生態を通して、死んで腐りゆく愛犬のように、天国への道を閉ざされたゲイの刹那的な生き方を訴えているのだ。
 まだ作品の鑑賞はとば口に立った所だが、文字数を費やし過ぎているかもしれない。この作品にはまだまだ、個性的で愛おしくも腹立たしいゲイたちが目白押しに登場する。
 もう少しだけ、本作を語る機会を与えて欲しいと切に願う。次回もまだ『夜の都会』を這いずり回る「ぼく」のピルグリム的遍歴だ。

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