PTL File.13 レチー『夜の都会(まち)』(1963)その二
この作品は、セックスワーカーの内面を描くという、時代を先取りしたものになっている。きっちりとしたリアリズムでそれを描いているのがミソで、ジュネのように文学的シュールレアリスティックな粉飾を施していないのが美点なのだ。
ジュネのテキストは汚穢の聖性という規範の転覆を試みているので、それはそれで価値があり余人には真似の出来ないものだ。しかし、アメリカの1960年代、これからLGBTの権利運動が勃興してくる矢先には、文学的な実験はあまり望ましくない。フラットなリアリズムが必要なのだ。
ただしレチー自身はアンチリアリズムとも言えるフォークナーを尊敬しており、その影響下にあった学生時代に"Pablo!"という長編を創作の課題として提出し、教授だった『大地』の作家パール・バックにリジェクトされている。これは2018年になって公刊された。
ストーンウォールの反乱に遡ること10年前、1959年にロサンゼルスで、「クーパー・ドーナツの暴動」と呼ばれるLGBTと警察の対立事件が起きている。レチーは当時、ロスでハスラーとして暮らしておりその暴動に関わって逮捕されそうになった。小説ではさらりと触れられているだけなのだが…
小説の主人公はその時、チャックというテキサス・カウボーイ・スタイルのハスラーと行動を共にしていた。
「だけど、おれは、男を相手に楽しめるやつを、別になんとも思っちゃあいねえぜ」とチャックはつづける。
彼はなにごとも非難しなかったし、どんなことでもそのまま受け入れた──お巡りにつかまったときでさえ、別にあわてなかった……
数週間前に、朝の二時過ぎに、チャックと一緒にフーパーのコーヒー店に坐っていたとき、二人のお巡りがはいってきて、わけもないのに、ぼくたちをしょっぴこうとした。そのとき、チャックはまるで哲学者みたいに平然としたままで、「いいかい、やつらに、なにかはっきりしたあてがあってつかまえたんでなけりゃ、二、三分もすれば帰してもらえるんだ。ウィークエンドの今ごろの時間にゃあ、留置場はすでに満員だろうからな……だから、ちょっくら警察までいってくりゃあ、おわりなのさ」といった。事実、彼のいう通りで、ぼくたちは警察へいき、いろいろ質問されたり、指紋をとられたりしたが、別に名前も記入されず、ほんのおどかしのために連行されただけだったのだ。
チャックは親しくなった「ぼく」に、実は自分はジョージア生まれで、西部劇映画を観てカウボーイに憧れたことを告白する。
主人公は自分の知っているテキサスが「都会であり、チャックが想像するような、サボテンの一面はえた砂漠ではなく、窓の向うにわずかにかたまったサボテンがあるだけであり、ぼくの知っているテキサスは、風と、砂ぼこりと、風に舞う草と、死んだ犬のウィニーの思い出につながるところ」であると回想する。
主人公はいずれ、放浪の末にそこに戻ってゆく。そして、そこから文学者としての再生の道を歩むのだ。これを読む私は、どんなに憎んでも帰れる場所があるうちは幸せなのだ、としみじみと思う。
「フーパーの店」と作中で記されるクーパー・ドーナツでの騒動は、その十年後に起こるストーンウォール事件の前哨戦に過ぎなかったが、エドマンド・ホワイトの『アメリカのゲイ社会を行く』(勁草書房)のロサンゼルスの項目を読む限りは、警察との関係は1980年代になってもまだまだ険悪な場面があったことがわかる。そのくせ警官のコスチュームはゲイにモテモテ。不思議なものだ。
変態、同性愛病患者、日陰者、犯罪者、精神異常、ソドミスト…そんな言葉がまだ全然生きていた時代。
石を投げられ警官に殴られ、時にはリンチに遭って殺される。PTLの連載の初めに各国で同性愛が合法化された時期を記したはずだ。アメリカはまだゲイを公に認めた国ではない。
そのような中『夜の都会』を出版する難業を成し遂げたレチーだからこそ今、多くの後進から慕われ尊敬されていることがよくわかる。
主人公=レチーの放浪は止まない。ニューヨークからロサンゼルスへ流れ着き、次はサンタ・モニカへ、サンフランシスコへ。
ゲイの解放区と言われたサンタ・モニカやサンフランシスコで、彼は何を思うのか。
ハスラーの日常は刹那的でうわべは楽しそうだが、孤独で寂しい。
ぼくはサンタ・モニカで、デーヴという青年と出逢う。彼はイタリア人の友人と部屋をシェアしていて、主人公はそこに別な男にくっついてやって来た。3Pの始まる前に、デーヴは消えていた。
デーヴはハスラーではなく、夜学に通う工員で、ぼくに、「いろんな男と、それも毎晩ちがった男と、床にはいるやつの気が知れないんだよ。ぼくのいうのは、変態であろうとなんであろうと、だれか一人を決めるべきだっていうことさ」と言う。主人公は彼のことが好きになってしまう。
最初の晩以来デーヴは性行為を求めなかったが、主人公はなるべく客を取らないようにして、デーヴの友情に応えた。
だが、やがて、デーヴが主人公に体を求めてくる日があった。
ぼくは、なんだか裏切られたような気がして、彼を拒絶し跳ね除けて彼の元を去ってしまった。
ハスラーの孤独は続く。
海岸で主人公は、「ある男」と出逢う。他の連中のように浮かれた水着にもならず、じっと眺めている。ぼくは彼のことが気になっていた。やがてぼくは男とコンタクトを取り、彼が妻子ある既婚者で、妻とは関係が思わしくなく、しばらくこのビーチにいると分かる。
彼は今まで二度ばかり男と関係しようとしたが、どちらもうまくいかなかったらしい。
彼は「君はぼくの休暇のあいだ、ずっと一緒にいてくれますか? 金はたっぷりある。つまり、友だちとして……」と申し出た。金は、の科白が何とも泣かせる。
彼のホテルについてゆき、そして、二人は服を脱ぎベッドに…
男はビーチにいるゲイたちを「海岸のあのおかしな連中」と言う。彼らを避けて行動を共にする。だが、彼はふと「カーニバル・バー」に行ってみたいと言い出した。ぼくの心を不安がよぎる。そこは、LGBTの解放区だった。様々な客が集い、様々な出し物がある。
それでもご所望だから、カーニバル・バーの扉を開ける。
入口に既に、体の大きな男装のレズビアンが酒場のガードマンよろしく陣取っている。
情緒的なジャズではなく神経をすりへらすような野蛮な音楽が鳴り響いている。
フロアに一人の浅黒いクイーンが踊り出した。毒々しい衣装で体をくねらせ、女の絶頂を真似た声で喘ぎながら倒れる。自分が女になったことを人に認めさせようとする踊りだった。
やがてクイーンは起き直り、帽子を取って人々の前に差し出した。みな、金をそこに入れて、彼女が「彼女」であることを認める。
一通り回って、ぼくたちの前にやって来た。
彼はじっと動かない。女として認めることをはっきりと拒絶している。
クイーンと彼の睨み合いが始まる。
お互いに憤激の様子を見せながら、沈黙劇が続く。
たまりかねてぼくは、ポケットの小銭を帽子の中に落とした。
クイーンはうめき声を上げながら、挑発的に体を回して去っていった。
男は店を出た後、「今夜うちに帰ろうと思う」と言い、車からぼくを下ろして脱兎のごとく去っていった。
一人残された主人公は何も語らないが、風が吹くばかり。
ゲイのゲイフォビアは今も昔も多い。ハスラーを生業とする者自身、女とヤれることを自慢して、売笑の免罪符に思っていたりする。
サンフランシスコを経て、やがて、ぼくはニューオーリンズへと至る。「ざんげ火曜日」の日が近い。
仮面舞踏会。仮装行列。仮装した熱狂者たちは、万華鏡のようだ。しかしハスラーはたいてい普段通りの格好で、さりげなくシャツの衿を開き、上着をひっかけ、Gパンかカーキ色のズボンを穿く。なぜならそれがハスラーの仮装だからだ。
仮面が街に溢れる。
二人連れの客とバーを出ようとした時、ぼくは発作的に喋り出した。
「ぼくはあなたたちが考えているような男じゃあないんです。あなたたちの望んでいるような、なに一つ気にしない、ずぶとい人間じゃあないんだ。うわべはそんな振りを装っているが、事実は全然そうじゃないんだ」
「そうなんです。ぼくはよそ目にはどう見えようと、決してそう言う人間じゃあないんだ。あなたたちや、ほかの人たちと同じように、ぼくはしょっちゅうびくびくしている臆病者なんだ」
客たちは嘲笑って去っていった。酒と麻薬でぼんやりとして、ぼくは誰かに声をかけられて、ついて行き、思い切り射精をした。
目が覚めた時、そこにいた男が、ジェレミーだった。彼はあのバーでぼくが例の二人連れに話していたことを聞いていたのだった。
前から君が孤独そうにしているのを見かけていた、と彼は言う。彼はこんな場合にそぐわないくらいちゃんと名を名乗り、ぼくを求めた。
ジェレミーは、これが終わったらニューヨークへ帰る。一緒に来ないか、とぼくを誘う。君の力になろう、と言ってくれる。
ぼくは、彼の言葉に心揺さぶられるのが怖かった。
彼は「君はきっとぼくを愛することができるようになる」と言う。
鏡の中のぼくは、まだ若かった。
表の通りでは、カーニバルの騒ぎがつづいている。そしてこの部屋の中では、世界がその最も恐ろしい神話を、ぼくの眼の前にちらつかせている……愛の神話を……そもそも初めから、なかばあきらめとして姿を現わし、おそらくそれにふれようとする試みの思い出しか与えてくれない愛の神話を……それは、いつわりであることがわかっているのに、この男が人から人へとそれをさがしまわっているように、なん度となく求められている神話なのだ……
(中略)
そうだ、とぼくは突然思う。この男にもう一度体をまかせよう、そうしたら、彼のさぐり求める言葉も、その言葉によって受けたぼくの心の動揺も、すべて消えることだろう。
ぼくはテーブルの上に置かれた金を手に取ると、床の上のズボンのポケットにいれた。それから彼のわきに寝た。ぼくはもう一度彼の手をとり、自分の体の上におく。こん度も、彼の手はとても冷たかった……
彼の手は動かない。ぼくはその手を自分の手で押した。彼が体を動かし、ぼくの方を向くと、ぼくたちの体はぴったりふれあう……一瞬ぼくは動かなかった。それから急に、体をはなした。そして、うしろにのけぞるようにすると、彼の手が動いた。
「これが返事なのかね?」とジェレミーが妙な笑いを浮べてきいた。
「ええ」とぼくは答える。
彼が腹這いになった。ぼくは体を彼の体に押しつけ、その中にはいっていく……
間もなく終った。興奮の一瞬がすぎたあと、ぼくたちはふたたび他人になった。二人のあいだにかわされたすべての言葉が、消えていた。
(中略)
だが、本当にぼくたちは他人同士なのだろうか? それとも、ぼくたちはあまりにも親しく、相手を知りすぎてしまったのか? ぼくたちはあまりにも一心に相手をさぐりあい、そのために、相手の中におぞましいものを、あまりにも多く見つけてしまったのだろうか?
彼はぼくを見ながらにやっと笑う。たぶんぼくを、また自分を、そしてこの部屋で語られたり、起こったりしたすべてのことを、笑っているのかも知れなかった。
その意地わるそうな笑いは、この世の中に対して下した一つの結論のようにも思えた。
ぼくはジェレミーの方に身を乗りだすと、その唇に接吻した。
そして、そうだ、たぶんあなたのいう通りかも知れない。たぶんぼくはあなたを愛することができるだろう。だがぼくはそうしたくないのだ、と思いつづける。
がやがやとわめいている街がぼくを待っていたのだった。
愛を自ら拒絶し、愛を恐れ、孤独と喧騒の中へ帰ってゆく主人公の姿は痛々しく悲しい。だが、ハスラーの誇りにも充ちている。この章の幕切れは、私にはことのほか悲しい。
マーディ・グラの狂乱の中、人ごみの真ん中で立ったまま行為に及ぶ。あちらでもこちらでも同じようなことが始まる。ぼくの意識は朦朧としてくる。
突然、ドカン! ドカン! ドカン! と、世界が崩れた。幻が滅する衝撃。ぼくは床に倒れた。
懺悔火曜日は明け、聖灰水曜日となる。ぼくはまだ街をさまよい、映画館で見知らぬ男に腰を開く。だが、眠りは来ない。
ぼくは公衆電話から教会に電話をかけた。
ぼくはあの唯一の死を、象徴的な魂の死を、経験するのだった。それは肉体ではなく、魂の死であり──それこそが亡霊をつくるのだ。とその瞬間、ぼくは自分が亡霊になったような感じがし、世界全体の死の宣告のもとで耐えられるなにかの救いを手にいれようとして乗りだしたこの旅の意義が、すべて消えうせる思いだった。
そしてぼくは、神は現在も、過去にも、未来にも、存在しないけれど、自分がなによりもあこがれているのはあの無垢の心だと思い、白痴のような無知の状態に戻れるなら、これまで身につけたすべての知識を投げすててもいい、と思う。
ぼくはもう一度教会に電話をした。聖ヴァンサン・ド・ポールに。
するととても若そうな牧師が電話に出た。彼は電話を切らなかったので、ぼくはなんとかしてこの人をつかまえようとした。牧師はぼくに話したが、ぼくは彼がいった一つの言葉しか覚えていない。そのとき自分が聞きたかったのは、子供時代に風の中で聞いた一つの声だけだったので、ほかの言葉はどうでもよかった……牧師の言葉でぼくの覚えているのは、これだけなのだ。
「わかります」と牧師はいった。「わかりますとも」
そして、ぼくはエル・パソへ帰ってきた。
(中略)
そういえば、今ここでは風が吹いている。
どんなにぴったり窓を閉めようと、あるいはカーテンをおろそうと、そしてなんとかして風からのがれようとしても、風は吹きつづけるのだ。風から逃れることは不可能なのだ。どうしても、風の叫びは耳に聞こえる。そして、風が表で待っているのを、忘れることはできないのだ。
そしてぼくには、風が辛抱強くぼくのことを待っているのが、ぼくが必ずもう一度この町を出ていくときを待っているのが、わかっていた。
(中略)
だが、その激しい風は、ぼくに、つらかった子供時代を、窓から外をのぞいているおびえた一人の少年の姿を、思い出させる。ぼくは、家の外で死んでいるぼくの犬の上に、灰色のテキサスのほこりがだんだんつもっていくのを思い出し、「不公平だ! どうして犬は天国へいかれないんだろう?」と考える。
魂の死を経て、彼は再生したのだろうか。神無き原野=夜の都会に一人佇むハスラー。欲望に身を任せ、天国を約束されず、腐りゆく己の肉体を眺めている。
この書は、彼にさまざまな影響を残した人々の記録であり、束の間夢見た愛の記憶でもある。
狂乱の日々を一度リセットした後、彼はおそらく小説を再び書き始めるのだろう。やがて来る、LGBT権利闘争の未来を予感して。
本当は、訳書で省略されてしまった、名前のついた章を、もっと詳しく紹介したかったのだが、私自身の読解力の拙さと、意外と手強いレチーの文体に降伏した次第。ここに、訳されなかった章のタイトルのみ記して、後世を待ちたいと思う(講談社版の章題に似せて)。
第一部…「教授 天使の飛行」
第二部…「スキッパー とても美しい少年」
第三部…「ランス エスメラルダ・ドレイク3世の亡霊」
第四部…「チ・チ やあ、世界!」
訳された8人と併せて1ダースの、夜の都会の住人たちのエピソードが描かれる。その合間に「夜の都会」というスケッチが挟まれているのだが…なんか、訳書と原書では段落の順番が入れ替わっていて、どうなっているんだろう?
最初1963年に出版されたのが翻訳されたバージョンで、レチーが後に書き足した可能性も捨て切れないが、原書のイントロダクション(25周年記念で執筆)に加筆したという事実は書かれていない。
やはり翻訳書は今も昔も売るのが大変なので、章を削って本の厚さを軽減したと考えるのが妥当だろう。いつかちゃんと全訳がお目見えして欲しいものだ。というか、このゲイ文学の古典は、ちゃんと陽の目を浴びるべきだ。
ジョン・レチーにはもう一冊、訳書がある。白夜書房から1993年に刊行された『ラッシュ』である。原書は1979年刊、つまり、ストーンウォール後エイズ禍以前の開放的なセックスが描かれる。
マッチョ・レザー・バー「ラッシュ」を舞台にした、四人の男の欲望と精液と汗に塗れた駆け引きの物語。こちらの方がよほど現在のゲイ・シーンにおいて需要がありそうな気がするのだが、さて。
95歳で存命の、レチーのビブリオグラフィーをここに載せて、記事を終えよう。
◎ City of Night (1963) 『夜の都会』講談社、高橋正雄訳
◎ Numbers (1967)
◎ This Day's Death (1969)
◎ The Vampires (1971)
◎ The Fourth Angel (1972)
◎ The Sexual Outlow (1977) ※ノンフィクション
◎ Rushes (1979) 『ラッシュ』白夜書房、柳下毅一郎訳
◎ Bodies and Souls (1983)
◎ Marilyn's Daughter (1988)
◎ The Miraculous Days of Amaria Gomez (1991)
◎ Our Lady of Babylon (1996)
◎ The Coming of the Night (1999)
◎ The Life and Adventures of Lyle Clemens (2003)
◎ Beneath the Skin (2004) ※ノンフィクション
◎ About My Life and the Kept Woman (2008) ※自伝
◎ After the Blue Hour (2017)
◎ Pablo! (2018)

