PTL File.07 ボウルズ『蜘蛛の家』(1955)その一
生後六週間の時、ポール・ボウルズは父親に殺されかけた。自伝『止まることなく』(1972)の第二章にある有名なエピソードた。
ロングアイランドの歯科医師だった父親クロードは、家に帰ってくるや否や、ベビーベッドの部屋の窓を開け放ち、寒風吹き荒ぶ中、赤ん坊を裸に剥いて放置した。母方の祖母がすぐに気付かなかったら、子供は凍死していた。
なぜクロードは一人息子を憎んだのか。妻リーナが生涯に一度きりのお産で後遺症が残り、命を危ぶまれたからかもしれない。長子がよく抱く次子への反感に似て、彼は息子を妻を奪う存在と思ったのだ。祖母がそうポールに語って聞かせている。
そして、お母さんが病弱になったのはお前のせいだ、と息子に事あるごとに罪悪感を植えつけた。恐るべき父親。ポールの心には、そんな父への怒りや憎悪が一生燻っていた。父性への反抗、相剋。アメリカ人らしくプラグマティックに生きる事への反逆。旅から旅に明け暮れた人生はこうして始まった。
長じてゲイになる人間の周りには、やはりゲイだったのではあるまいかと思われる人物が必ずいるもので、ポールの場合、母方の叔母エマの夫であるガイがその人物のようだ。
(前略)ガイおじさんは奇人で、日本の着物をはおり、多種多様なドラゴンの銅像や仏像に囲まれたなかで、香を延々と焚きつづけていた。
(中略)おじさんが私を特別扱いしたので、おじさんは「自分の味方」だと思うようになった。実際、おじさんは私の行動についてとやかくいわなかった。そのときまで、このような自由を享受した経験は一度もなかったので、ガイおじさんを友だちだと思うのもあたり前だった。そうした折、おじさんがパーティを開くことになった。会場はエマおばさんの部屋で、おじさんは数日かけて、パーティの計画を練った。土曜日の夕方になると、おじさんは私に早めに夕食をすませて寝るようにいった。まったく心外だった。
(中略)以来、このパーティの一件を、私もおじさんも、それから部屋を埋めつくしていた若い男たちも口にしなかったが、少なくとも十年後に思い出すまで、そのことを変だとも思わなかった。さらにいえば、この一件を記しているこの瞬間まで、私はだれにも口外していない。
父親が肺炎を悪化させて実家が療養所のようになった為、あちこち盥回しで結果的にエマ叔母さんとガイ叔父さんに預けられたのだが、映画に連れて行ってくれたり音楽を教えてくれたり、と、この叔父さんの薫陶を得てポールは小さな芸術愛好家に育った。最も、若者を多数呼んだちょっとしたご乱行は見せては貰えなかったのだが。
ポール・ボウルズはゲイ作家とは呼ばれない。同じく作家のジェインと結婚して共に旅したイメージが強いから。だが、彼らの結婚生活は蓋を開けてみればゲイとレズの友情結婚で、ある時期以降、それぞれに同性の恋人を持ち、付かず離れずで暮らしていた。
殊更それを暴き立ててボウルズをゲイ文学の陣地へ取り込もうと言う魂胆は無いが、やはり作家はその性向は隠しようもなく、ボウルズの文学には若い同性への興味が秘められている。
ポール・ボウルズは実はジャン・ジュネと生まれ年が同じである。1910年、ニューヨーク郊外のロングアイランドに生まれる。今まで取り上げて来たゴア・ヴィダル、トルーマン・カポーティ、これから登場するジェイムズ・ボールドウィンら、1920年代の半ば生まれとはひと世代以上離れている。
やはり今後取り上げるテネシー・ウィリアムズ(1911年生まれ)やPTL前回のウィリアム・S・バロウズ(1914年生まれ)の方が年代的に近いが、それでも歳下になる。
ボウルズは1944年に短編「蠍」を初めて《ヴュウ》に発表するが、その前年、妻のジェインは長編『二人の真面目な女性』を出版している。作家として先に認められたのはジェインの方だった。
ポールは幼年期より文学的創作に親しんではいたが、1929年に作曲家アーロン・コープランドに弟子入りして音楽を学び、後、コープランドの師ナディア・ブーランジェにも師事する。ブーランジェは大変優秀な音楽教師で、ボウルズは音楽家としては良い道筋を選んだと言える。1931年、ロンドンで作曲家としてデビューを飾り、1930年代半ば頃から舞台やバレエの音楽を作曲するようになる。
有名どころでは、先に名が出たテネシー・ウィリアムズの名作『ガラスの動物園』(1944)や、ウィリアム・サローヤンの『わが心草原に』(1939)の舞台音楽を作っている。
ポールは子供の頃からピアノのレッスンも断続的に受けており、音楽への興味は生涯持っていた。作家として認められた後も、細々と作曲活動を続け、モロッコの民族音楽をレコーディング蒐集している。音楽と文学が、彼の創造力の翼の二大支柱だったのだ。
何よりも音楽に絡んで言えるのは、ポールは耳が鋭くて、様々な言語を難無く習得出来たのは、生来の耳の良さから来るものだったのではないだろうか。アラビア語の中でも特殊なフェズの方言なども、作品の中でちゃんと英語表記にして記し残しているのである。
小説は1944年に初めて短編が掲載されているが、実は彼は詩作で早くから世に出ている。ロングアイランドのジャマイカと言う街に住み高校に通っていた時、彼は学校の文学協会長を努めていた。この頃知った、パリで発行されていた雑誌《トランジション》に、自動筆記を試みた詩を送り、掲載されている。
最も早い時期の詩作では、1928年3月に《トランジション》第12号に掲載された「尖塔歌」が、日本に紹介されている。
尖塔歌
Ⅰ
玉蜀黍ニ介マレテ
兜虫ガ熱ニ喘グ
遠クノ丘デ百姓ガオ昼ヲ食ベル。
僕等ハソレデモ待ツテヰル 玉蜀黍ノスグ側。
僕等ハソレデモ待ツテヰル 畑ノ縁ニ佇ンデ。
陽焼ケノ石塊ニ介マレテ
僕ノ真夏ノ旋律ガ響ク
昨年ノ収穫ノ余リ分 今デモ鼻ニ匂フカイ?
(中略)
Ⅴ
遠クノ丘ノ乾草
積ミアゲラレタ温カイ肉桂。
蜘蛛ノ子ガ恐ル恐ル登ツテクル。
星ノ光ガ砕ケ散リ降ル。
牛ノ長イ呼気。
庭ノ柊ハ高ク聳エル
夜ニ暗イ影トナル。
網戸ガ開イタ。
玄関ノ扉ハ軋マズニ
優シイ音ヲ廻ラシ開ク。
Ⅵ
夜ガ噴出スル。
草デ編ンダ棺ニ落チル露。
四方田犬彦訳
私も十代の頃現代詩にかぶれ盛んに投稿などしたりして身に覚えもあって、詩となると引用したくなるのだが、この詩はパリの文芸サロンの主だったガートルード・スタインに酷評されている。
ボウルズは1933年には"Two Poetry"と言う小詩集を出版しており、小説家に転身する前は作曲家兼詩人としてニューヨークやパリの知識人界隈で知られていた、と言う事である。
『シェルタリング・スカイ』の映画版の冒頭、タンジールの税関で職業を訊かれて、ボウルズ夫妻をモデルとした二人が、夫ポートは「作曲家」、妻キットは「小説家」と名乗り分けているのはそのような事なのだ(本来、ポールは伝記に拠れば、パスポートの職業欄には「作家」と記してある)。
ポールの旅の始まりは、コインの裏表で運命を決めた時だった。19歳の冬、25セント硬貨を投げて、裏が出れば睡眠薬をひと瓶飲んで人生に鳧を付ける。表なら、なるべく早くヨーロッパへ旅立つ。コインは表、ポールは家族に内緒でパリへ旅立った。
まるで家出のような旅だが、ポールは自由を謳歌した。自伝では、初めての性体験はパリで出逢ったポーランド人の娘だったと記している。だが、性体験を貴重な題材にしたりはしないのがこの作家の特徴で、性を主題にする作家詩人、D・H・ロレンスやホイットマンに対しては嫌悪感を示している(PTLの記事的には難敵w)。
親族でヨーロッパ通のデザイナーに確保され、結局アメリカに帰るのだが、この行動がもたらしたのは、放浪者である性質に自覚を持てた事だろう。「止まることなく」旅を続ける人生が存在すると、気付いたのだ。
帰国した後、作曲家コープランドに紹介され、弟子入りを認められた。コープランドがパリに行くのでポールもそれに付いて、今度は堂々と渡欧出来た。各所を渡り歩き、様々な有名無名の人達と知り合いになる。その人物リストはここには敢えて記さないが、生涯ポールの誇った広い人脈はこれより培われた。
コープランドがヴァカンスを過ごすのでそれにくっ付いて、ポールは1931年8月、初めてアフリカの地を踏んだ。
(前略)船旅二日目の空が白みはじめたころ、甲板に出た私の眼に、進路の先のごつごつとしたアルジェリアの山並みが映った。即座に私は大きな興奮を覚えた。とても興奮し、近づいてくる陸地を目にしたことによって、内部の機械が作動しはじめたかのようだった。この感覚を言葉でいい表せなかったが、自分がこの世界に存在しているのは、地球上のある地域に、他の場所よりも魔力的な場所があるという根拠のない信念がひとつには、あるからだった。魔力とはどういう意味かとたずねられたならば、おそらく、自然界と人間の意識とのひそかな繋がり、隠れてはいるが理性に迂回せず直接通じる回路だと、定義しただろう。(中略)ロマン派の人々のように、一生のあいだにいつかは魔法の場所に足を踏み入れ、その場所の秘密を解けば知慧と恍惚と──おそらくは死までも得られるかもしれぬと、私はいつも漠然と思い込んでいた。そして今、向かう先の山並みを前に風のなかで立っていると、内部のエンジンが動き出すのが感じられた。それはまるで、まだ出されていない問題の解答に近づいてしまっているかのようだった。徐々に輪郭がはっきりとしてくるそびえ立つ山々を見るにつけ、私は信じがたいほど幸せな気分になり、幸せな気分に身を任せ、何の疑問も発しなかった。
このフラットな調子で書かれた長大な自伝で、一番テンションの高い一節かもしれない。確かに彼は「魔法の場所」をそこに発見した。半世紀に亘りそこを住処と定め、最終的に「死を得られ」たのだから。
コープランドはモロッコをあまりお気に召さなかったが、ポールはひどく魅了された。この年以降、モロッコをはじめ、北アフリカへの渡航が毎年のようになる。ポールは生来病弱だったので、ベルリンやパリよりも温暖なスペインやモロッコを好んだ。
師匠と言ってもコープランドは10歳年上で、ボウルズとの関係は自伝を読む限り、親友に近い印象を受ける。仲良く作曲に励んだ仲間、と言うイメージが湧いてしまうのだ。
ポール・ボウルズの人生の最大の出来事と言えば、伴侶となるジェイン・アウアーとの出逢いだろう。その辺の馴れ初めは、自伝では割と素っ気無い書き方である。『止まることなく』が1972年の出版で、ジェインのスペイン・マラガにおける死が1973年5月4日なので、失明し半ば廃人状態とは言え、妻に対する配慮があった故のものだろうか。
ポールの自伝ではジェインとの出逢いは、全18章の第10章と半分を過ぎた頃にようやく描かれる。「蠍」で作家としてデビューするのは第13章に至っての事である。作曲家として過ごした時間の方が長く割かれている。作家としての自伝を読みたい読者にとっては、これはとんでもないジレンマだ。作家としてのポールの伝記を読みたい向きは、ブリアットの『ポール・ボウルズ伝』を読むべきだ。
だが、ポールの自己形成の道程を辿る点では、やはり『止まることなく』の、若き作曲家としての放浪の日々は欠かせない。そこに露悪的な性愛の暴露を幾ら求めても無駄な努力としか…
1937年2月、ニューヨークのプラザ・ホテルのロビーで、ポールはジェインと初めて顔を合わせた。ポールは友人のジョン・ラトゥーシュの招待でハーレムのパーティに向かう途中だった。数日後、画家のトニー夫妻とポールがメキシコ旅行の計画を立てている時、ジェインも衝動的に旅に共する気になった。それは大失敗に終わり、バスでメキシコ国境を越えるや否や、ジェインは赤痢に罹りカルチャーショックでパニックとなり、メキシコシティに着くなり国に逃げ帰ってしまう。
そんな出逢いだったにも関わらず、二人はやがてニューヨークで再会、意気投合し、結婚を決める。自伝では余りにもあっさりと書かれているので、うっかりすると読み飛ばしてしまいそうだ。
ポールが自伝を執筆していた当時、ジェインはマラガの病院で最期の病床に就いていた。こんな時こそ若い頃の楽しい記憶を思い出したりしないものだろうか? いや、それも辛かったのか。
この二人の作家の夫婦の間に、そもそも夫婦としての夜の語らいがあったのかどうか、未だに人々の噂は口性無い。ジェインは新婚の時期からパリのレズビアンのコミュニティに入り浸っては、ポールに失意を抱かせていた。
ポールのサイドで同性愛関連で大きな動きがあるのは、公的には主にアハメッド・ヤクービとの数年だけである。ポールは自分の同性愛については巧妙に口を噤んで語らず、ただジェインの奔放さのみ喧伝して来た嫌いがある。こう言うところがポールは少々いけ好かない。
「あんたはあたしじゃない」と言うレズビアンを題材にした短編を読むにつけ、ポールには「おすす」の面があったのではないかと思わされる。
昔、ゲイが「おかま(釜)」、レズが「おなべ(鍋)」と呼ばれていた時期があり、オカマに親しもうとする女たちを「おこげ(焦)」、オナベに近づこうとする男たちを「おすす(煤)」と言う言葉で定義しようとしていたのである。無論、このような無理無体な言葉は流行る事も無く、うたかたに消えて行ったが、レズビアンを友としたがる男がいるのは紛れも無い事実。
ポールは、ジェインがレズビアンであるが故に愛して結婚に至ったのでは無いか。ポールはもともと両刀遣いなので、レズのジェインを精神的に肉体的に愛したとしても、何ら不思議はないだろう。
ボウルズの自伝は、ほとんどゲイ文学的な描写は無いのだが、所々に、おや?、と思わされる要素が埋め込まれている。例えば第12章に登場するメキシコ原住民出身の若い画家アントニオ・アルバレス。同時期、ジェインはヘルヴェティア・パーキンスと言う中年婦人に入れ上げており、ポールも対抗する為に若い画家を家に呼び込んだのか?、と勘繰りたくなる。
ボウルズが、現地の若い男が好みだと言う事は明らかだが、自伝にしろ生前の伝記にしろ、その辺はお茶を濁してしまっている。
やがて、ボウルズはモロッコの古都フェズで、ヤクービを見出すのだ。
『蜘蛛の家』の前史に頁を割き過ぎた。ボウルズ最愛の男だったと思われるヤクービをモデルとした主人公を配し、独立前夜のモロッコに命からがら止まり続けたボウルズが、その騒動をヴィヴィッドに描いた最長作品である。
