お嬢様と執事山本の不条理な日常:第164話「指人形のピクニックと、小さな背中」
「お嬢様、森の動物たちで遊びましょう」
それは、まだお屋敷の空気に馴染みきっていない、高校1年生の執事見習い――山本の声だった。
「わぁーっ! クマさん、こちらはうさぎさん。これはトラさん。こっちにはリスさんもいますわ」
まだ小学生だったお嬢様は、山本の大きな手がせっせと針を動かして作ったフェルトの指人形を小さな指にはめ、大層喜んでそれを揺らした。
「一緒に遊びましょう。お嬢様はどの動物が良いですか?」
「わたくし、リスさんがいいですわ!」
お嬢様が嬉しそうに声を弾ませると、山本は「では」と、お嬢様の小さな人差し指にちょこんとリスの指人形を被せた。
「私はトラにしましょう」
「トラ……? 怖いわ、山本。わたくしのこと、食べないでね?」
本気で少し怯えたようにお嬢様がアホ毛をきゅっと縮めると、山本はふっと目元を和らげて言った。
「この森の動物たちは、みんなとても仲良しでございます。ご心配なさらず」
「そお? ……トラさん、ご機嫌いかが?」
お嬢様は恐るおそる、山本の指のトラに話しかけた。山本は即座に声を低くして、トラの声を演じる。
「ガオーッ。お腹が減ってペコペコだ。リスさんや、ケーキを持ってきてくれませんか?」
「ケーキね! 待ってて!」
お嬢様は小さなお手てをいそいそと動かし、おもちゃ箱の中からプラスチック製のミニチュアのケーキを取り出すと、トラさんの前に丁寧に置いた。
「おお? これは美味しそうだ。いただきます。むしゃむしゃ……うん、甘くてとっても美味しい。リスさんも一緒にいかがですか?」
「わたくしもいただきますわ。ぱくぱく……うーん! とっても美味しいですわ!」
そんな二人の微笑ましいおままごとを、部屋の入り口から温かく見守る二人の影があった。
老執事・石田と、お抱え運転手の瀬名である。
石田は小さく顎を引き、隣の瀬名に静かに声をかけた。
「瀬名や。山本をどう見る?」
瀬名は、普段の険しい表情をすっかり綻ばせながら答えた。
「私はお嬢様と上手に遊ぶことができませんからね……。山本はお屋敷に来てまだ半年ですが、あの堅苦しかった少年が、まさかここまで柔らかくなるとは」
「ふふ、旦那様の目に狂いはなかったということかのう」
石田は細めた目の端を優しく緩め、白髪の髭をそっと撫でた。
「儂らはお嬢様に対して常に『完璧』であろうとしてきた。だが、それ故に、旦那様と奥様が不在のいま、お嬢様の寂しい心を本当に癒やすことは難しかったのかもしれん。そう考えると、山本の存在はお嬢様にとって、まるで太陽の温もりのようじゃな」
「左様で。私のような車バカには、指人形を自ら作っておままごとをするなどという発想すら浮かびませんよ。あの少年、私には『子供は嫌いだ』なんて生意気を言っていましたが……お嬢様のことは、相当気に入っているようです」
ベテラン二人が、小学生のお嬢様と高校1年生の山本の絆を深く噛み締めていた、その時だった。
おままごとに熱中していたはずのお嬢様が、クルリと振り返り、二人を指差して唐突な命令を下した。
「石田! 瀬名! あなた達もどうぶつごっこに加わりなさい!」
「は……?」
「はい!?」
まさかの指名に、お屋敷を支えるレジェンド二人が同時に素っ頓狂な声をあげた。
「石田はライオンさんで、瀬名はゾウさんね!」
「お、お嬢様、それは……」
あまりの不条理な無茶振りに、百戦錬磨の老執事と最速の元レーサーが、顔を見合わせて激しく狼狽する。しかし、主の命令は絶対である。
「ほら、二人とも山本に挨拶なさい」
お嬢様に促され、石田は意を決したように居住まいを正すと、拳を小さく握って胸の前に掲げた。
「が、がおー……。こんにちは、トラさん」
日本一の気品を誇る老執事が、恥ずかしそうに放った渾身の猛獣の咆哮。
山本のトラさんが、嬉しそうにそれに応じる。
「ガオーッ! 石田ライオン様、こんにちは!」
「瀬名!あなたも挨拶なさい!」
石田以上に顔を真っ赤にして、完全に借りてきた猫状態になっている瀬名が、助けを求めるようにお嬢様を見た。
「あの……お嬢様、私は一体どうしたらよろしいので?」
「ゾウさんといえば、ぱおーんでしょう。そんなことも知らないの? だめな瀬名ね」
「くっ……!」
瀬名は覚悟を決めた。視線を斜め下に落とし、蚊の鳴くような声で絞り出す。
「ぱ、ぱおーん……。こんにちは、トラさん……」
「よろしい!」
お嬢様は満足そうにアホ毛をうねらせた。しかし、ここで山本のトラさんが、悪戯っぽい光を瞳に宿して余計な燃料を投下する。
「瀬名さん。ゾウさんはもっと高い声で『ぱおーん!』と呼ばなくては、森の仲間には届きませんよ?」
(このガキ……ッ!!)
瀬名は山本に向けて猛烈に歯ぎしりをした。が、お嬢様の目の前で愛弟子の指摘を無視するわけにはいかない。瀬名は限界まで肺に空気を吸い込み、お屋敷の天井を仰いだ。
「ぱ、ぱおーんっっ!!!」
その瞬間、後ろで控えていたメイドたちが、普段は死ぬほど渋い瀬名の情けない絶叫に耐えきれず、「くすくす」と影で吹き出した。
「か、勘弁してください、お嬢様……!」
顔をゆでダコのように真っ赤にした瀬名が半泣きで訴えるが、お嬢様はピシャリと言い放った。
「だめよ。みんなでピクニックに行きましょう!」
お嬢様を先頭に、すぐ後ろを山本。そして石田、最後尾に瀬名が並ぶ。
成人男性3人と小学生の少女が縦一列になり、指にはめたフェルトの指人形を天井に向かってピンと突き立てながら、お屋敷の長い廊下を「てくてく」と練り歩いていく。
「ぱおーん」と「がおー」が微かにエコーする不条理な隊列のなかで、山本少年は静かに前を見つめていた。
旦那様からスカウトされたあの日、投げかけられた言葉。
『お前は、人の心を知ろうとしたことはあるか?』
(人の心、か……)
自分の作った不格好な指人形で、世界一嬉しそうに笑って前を歩くお嬢様の小さな背中を見つめながら、山本少年は、一歩一歩、その足跡の後をてくてくとついていくのだった。
(つづく)
