お嬢様と執事山本の不条理な日常:第三話「待宵月と、進みすぎた時計」
銀色の光が、屋敷の重厚な窓枠を縁取っていた。
お嬢様は、ベルベットのカーテンの隙間から夜空を仰ぎ、うっとりと溜息をついた。
「見て、山本。今夜はなんて綺麗な満月かしら。わたくしの美しさを祝福しているようですわ」
山本は、影のように背後に立ち、静かに夜空を一瞥した。
「恐れ入ります、お嬢様。しかしながら、今夜の月はまだ十四夜。正確には『待宵月(まつよいづき)』と呼ばれる、満月の一歩手前の月でございます。明日こそが、真の満月かと」
山本の声には、一点の曇りもない知識の響きがあった。
その瞬間、お嬢様の顔は耳の付け根まで真っ赤に染まった。
「……黙りなさい、山本! 誰があなたの、そんなカビの生えたような『うんちく』を聞きたいと言いましたの?」
「事実を申し上げたまでで……」
「わたくしの瞳が『満月』と言えば、それは満月なのよ! 宇宙の理(ことわり)がわたくしに合わせるべきだと思わないの?」
お嬢様が激昂した瞬間、その頭頂部から一本の毛が、ピョコンと威勢よく跳ね上がった。
(……お嬢様のアホ毛が逆立っている。これは本気だ)
山本はそれを見て、彼女の羞恥心が限界を超え、もはや物理法則を捻じ曲げる以外に収まりがつかなくなっていることを悟った。
お嬢様はバッと振り返り、壁の古時計を指差した。
「そんなに暦が大事なら、今すぐ家中の時計の針を一時間ほど進めなさい! そうすれば、日付が変わって満月の日になるでしょう? さあ、早く行きなさい!」
逆立ったアホ毛は、お嬢様の剣幕に合わせて小刻みに、かつ誇らしげに震えている。
(……日付を変えたところで、月の満ち欠けが変わるはずもない。この方は、天体にすら自分の命令が届くと思っておいでか)
しかし、山本は深く頭を下げた。
「承知いたしました。では、屋敷中の時計をすべて、お嬢様の『ご都合』に合わせて進めてまいります。……なお、明日の朝食の時間が一時間早まることになりますが、よろしいですね?」
「……えっ。それは困るわ、眠いですもの」
「では、針は戻しておきましょうか」
お嬢様のアホ毛が、一瞬で力なくシナ垂れた。
「……黙りなさい、山本!!」
