日記:文豪の聖地巡りをした日。森茉莉の愛した喫茶店、萩原朔太郎が彷徨った猫町。
数年前の日記を読み返していたら、
「神童音楽家の頭髪は聖遺物として崇められるが、天才画家の頭髪にはそこまでの価値はない。」
と走り書きしてあった。
「画家の価値はあくまで絵にあるが、音楽は非物質なので、現実の物質で一番近い作者の肉体(あと楽譜)に信仰が宿るのかもしれない」、と横にメモしてある。へー。
自分の中から自然に出たとは思えない論調なので、なにかの論文、雑誌で読んだ内容をメモしたんだろうか。
大量に読み大量にメモするので、たまに出典を書き留め忘れる。けど、自分の文かどうかはなんとなく匂いで分かる。
十首の短歌の中に自作短歌が1つある状態で、親しい友人3人に自作を当ててもらう遊びをしたことがある。
結果はパーフェクト。
3人とも語彙や雰囲気から推測し、完璧に私の短歌を指さした。
漫画家を絵柄で見分けるのは当たり前のことだし、文体でそれができるのも不思議ではないが31文字で嗅ぎ取れるのはすごすぎる。びっくりした。
冒頭の記述は納得できる主張だ。
画家の頭髪にそこまで価値はない。
でも、画家の愛用パレット、生前付き合いがあった関係者の証言、実家から見える風景を知ることは作品理解のための価値がある。
作者の人生は全て、マスターピースに至るまでの制作過程だから。
著名な書家が、1分で書いた作品に数千万の値がついた時、制作時間は五十年と1分だということ。
単純な制作時間ではなく、芸に捧げた人生を加算しなくてはいけない。
作品と作者は切り離して理解すべきでもあるが、私をよく知る友人が私の短歌を当てたように、作品と作者は必ず深く重なり合ってしまうだろう。
と、ここまでが前置きで私は文豪ゆかりの地を巡るのが好きだ。小説の舞台となった場所でも、小説家が現実の人生で愛した場所でもいい。

森鴎外の娘である森茉莉がかつて贔屓にした喫茶で、彼女が原稿を書いていた席に座る。

「rêvasserie c'est ma vie 夢をみることが私の人生」
という言葉が添えてあった。痺れる。
仏語は大学で少しやった程度だが、rêveは睡眠時の夢で、rêvasserieは起きていながらの夢想を意味した、と思う。
現実を夢のように生きること。


さまざまな逸話を語ってくれた。
この紅茶は、茶葉も淹れ方も森茉莉が指定してきたのだと言う。
ある日訪れた彼女は出された紅茶を飲んで「なってない」と言い、次からはこの茶葉でこう淹れるようにと言いつけた。
その後行きつけになってからは、窓際の指定席で勝手に持ち込んだパンを食べながら原稿を書いていたという。
とんでもないな。喫茶店に入って文句をつけるばかりか、これからここに通うので私の望む紅茶を用意しておくように、とは。
森鴎外は彼女を膝の上にのせ、泥棒もお茉莉がすれば上等、と言ったほど溺愛したそうだ。しかしお茉莉の我儘はなんて魅力的なんだろう。自分至上主義。あの宝石のような作品たちの作者として満点の振る舞いである。永遠の少女、茉莉。
近くにの世田谷文学館へ移動する。

寺山修司展もよかったが、常設のからくり展示が思いがけずよかった。
暗い部屋で職員がねじをゆっくりと回すと、音楽とともに箱の中で人形が動き出す。
いくつかあったが、夏目漱石の『夢十夜』や中原中也の『サーカス』を題材としたものが気に入った。
箱の中に見入ると時間が圧縮されて、まっすぐ立っているのに傾いでいるような気になる。
耐えられない長さの演目だとも、呆気ない短さの演目だとも感じる。
・蜜を舐めたような泡を食ったような、重いか軽いか分からない不思議な時間の密度だ。
“この部屋で今見ている”という当事者の感覚が心地いい。
私は目撃者になったが、ねじが回る限り何度でも全く同じ物語が繰り返される。
殺人現場の洋館で、事件の夜が永遠に繰り返すような甘美と諦念がある。
公式HPで収蔵作品一覧がありyoutubeで一部映像も上がっていたが、カメラを通すと途端に夢が醒めてしまうようだ。ぜひ現地をおすすめする。
その日の上演はなかったが、世田谷文学館のコレクションの中には萩原朔太郎の『猫町』の箱もあるようです。
HPを眺めていたら、過去展覧会の中に「月に吠えよ、萩原朔太郎展」「コレクション展 下北沢猫町散歩」があった。
萩原朔太郎の終の住処は下北沢なので、普段散歩するときは意識していなかったが立派な聖地だ。喫茶邪宗門の常連客がくれた【下北沢周辺の文士旧居跡】というチラシを見れば、萩原朔太郎や坂口安吾、横光利一、森茉莉という錚々たる顔ぶれだ。
多分どの土地を歩いても偉大な誰かや何かのエピソードとかちあってしまうな。この日そう学んだ。毎日なにをしていようが学びは本当にそこらじゅうに転がっているのだと。あとは気づくだけだと。
限りある国土面積の中で、興して滅んで生まれて絶えてが繰り返されているのだから、そりゃそう。
聖地巡りと章題にしたが、そんなもの生きていれば無数に踏むので書ききれなさそうでもある。意図せず踏んでいこう、そして私もいつか死んで歴史の小さな小さな小さな欠片になる。
