青森旅日記:太宰治の生家、斜陽館、津軽塗の文机
8月。中学から十年来の友人Kと、青森は津軽へ旅した際の日記を書きます。
目的地は斜陽館、旧津島家新座敷(太宰治疎開の家)。
小中高すべて図書委員長、中高は文芸部で大学も文芸サークルに所属した。根っから読書が趣味な自分だが、太宰治の文章には中高の時随分入れ込んだ。今でも好きで、旅の前に代表作をいくつか読み返してきた。
青森空港で車を借りて、Kが目的地まで飛ばしてくれる。
車窓を流れる林檎畑や彩度の高い青空をぼんやり眺めていたら、あっという間に着いた。道路を挟んで斜陽館の目の前のスーパーの駐車場に停車して降りると、『毎月第4土曜日メロスの日』という宣伝が掲げられていた。親友のために爆走する男が休憩に寄る店なのか。毎月第4土曜日。

中を覗くとりんごジュースの瓶をずらっと陳列する一角があり、ふじ、王林、ジョナゴールド……のように左が一番甘く、右は一番酸味があるとして13種類並べてある。圧巻。
近くのボードを眺めると、100種類の黄、緑、赤、深紅のりんごの写真と品種名が載せてある。地元の人はしっかり見分けられるらしい。感嘆する。青森だなあ。後で土産を買うことにして、まずは斜陽館へ。


金融業を営み貴族院議員でもあった太宰の父、津島源右衛門が建てた680坪の大豪邸。
太宰はこの家を「父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」と書いている。東京からのこのこやってきた観光者からしたら、建築は美しく、庭の緑は明るく、階段や廊下の磨かれた青森檜葉の艶が上品大変風情があった。


調度品のランプも、空間の造りも品が良い。昼に行ったが、襖で仕切ってある和室や、建物の奥の空間の隅にはとろんとした淡い闇があり、この空間の静謐さを一層引き立たせている。



二階は、陽光を取り入れやすい建築構造なので明るい。
洋間を見れば、天井と奥のソファーは当時のままの姿だと説明書きがある。小説『津軽』にて、太宰が青森中学時代寝そべってサイダーをがぶ飲みした、と記されているソファーが写真右奥のもの。

書斎(太宰の母の居室)を見れば、雪の結晶の形の欄間に壁の戸棚が洒落て手の込んだ造りだ。
太宰は七兄弟の六男。姉も四人いたので、母は十一人産んだということになる。
ただ、裕福だからというわけでもなく当時としては平均値だったらしい。書斎は子どもの勉強部屋兼遊び場。
部屋の襖には四つ漢詩が貼られており、右から三番目の漢詩の中には「斜陽」の文字がある。太宰が自作を『斜陽』と題した時、少なからずこの部屋は浮かんだろうと思う。


しかし、それにしても豪邸だ。貴族だ。大きすぎる。この家に生まれたらどうだろう。大広間の仏壇の煌びやかな飾り、蒔絵、緻密な金の彫物。家にあるものではなく、外に拝みに行くようなものだ。



芦野公園の登仙岬の太宰文学碑には、
“選ばれてあることの恍惚と不安と 二つわれにあり”
というヴェルレーヌの詩の一節が刻まれている。
これは太宰が生前、もっとも好んで口にしたといわれる一節らしい。
太宰にとって、これがもっとも貫かれ、もっとも寄り添いを感じた言葉だったのか。太宰の人生はどこまでも選ばれた側のものだ。生まれも、才能も、女も。
このような書き振りは太宰からしたら癪に障るかもしれない。
なにせ、芥川賞の選考委員に向けて受賞を懇願し「私に与へてください」「私を見殺しにしないでください」と文を送った男だ。
選ばれた側の、高い景色を知っている。だからこそ、選ばれない立場の焦燥感、渇望、プライドが無茶苦茶になる狂いを知っている。
頂点は気持ちがいい。背中をとんと押されれば奈落に落ちるとしても、高ければ高い程景色はいい。

入館代を支払った入口で、『津軽』の初版表紙を模したノートの土産を買った。りんごの花が中央に小さく描かれた、シンプルで可愛らしい表紙だ。
ノートを開くと、「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう、絶望するな。では、失敬。」と『津軽』の一文が頁下部に印刷してあった。
失敬、と思いながら涼しい館から炎天下へ出る。
斜陽館から徒歩5分程で、旧津島家新座敷(太宰治疎開の家)があるのでそこにも寄った。斜陽館と比べると小さいが、施設の方が付きっ切りで各部屋の説明をしてくださった。

太宰の父は金融業という職業柄、小作争議に備えて
斜陽館にレンガ塀をめぐらし、役場・郵便局・警察署・銀行の中心に建てたらしい。
人々から搾取を繰り返す「資本家階級」に生まれたことは
太宰にコンプレックスを抱かせたのだという。彼の屈折した文に想いを馳せながら頷く。
そして、この旧津島家新座敷ではなんと太宰が実際に執筆した文机の前に座らせていただけた!うれしすぎる。いそいそと座る。机には、原稿とゴールデンバット(煙草)のレプリカ、遺品ではないペンが置いてあった。雰囲気を出すためのものらしく、写真を勧められたので照れながら友人に撮ってもらう。
施設の方に、「太宰はゴールデンバットの銘柄が好きだったと聞きますね」と話しかけると、「ああ、煙草ならなんでも吸ったようです」と返された。Wikipediに載っているような分かりやすいプロフィールとしての愛用銘柄ではなく、生の生きざまを聞けて嬉しい。
原稿から顔をあげると緑が見える。


文机はまだらの漆で、落ち着いた黒茶を地として、暗い赤や緑がちらちら流れていた。
変わっているなと思ったが、その後の旅中の土産屋や宿で何度もこのまだらを見て、津軽塗特有の模様と知る。
地元の方である施設長さんにとっては当たり前すぎたのか、わざわざ津軽塗だと説明されなかったので後から合点がいった。
太宰の机を、指の腹でなぞる。目立つ斑点だが、凸凹で引っかかるところはなく水平ですべらかだ。何層にも重なった漆の深い艶は優美だが、美術品の扱いをせずとも耐久性に優れており実用の利がある。
浅学にて人生で初めて津軽塗を認識したが(中学受験の地理で伝統工芸品の暗記をしたかもしれないが私の中には残らなかった)、太宰の机として出会ってよかった、と思う。
このような知り方をしてよかった。知識欲や好奇心が強く、図書館にいると何もかも知り尽くしたいとよく思うが、この日まで知らないままでいてこの日に知ってよかった、とこころから思った。
畳を指さされ、「弟子の方が訪ねてきて、ここの畳を指して、ここで太宰と語らった、と言いました」と教えられる。太宰治の没後約80年。
当時の太宰を訪ねた弟子の方が後年再度この家を訪ね、その記憶を施設の方が今私に話して下さり、その記憶を私はこの先何度か友人らに語るだろう。
この家は斜陽館と比べると暮らしの息を感じられ、寄木の廊下や、星模様の硝子に囲われた天井のランプがしんとして美しかった。


施設の方に丁寧に見送られ、外へ。
冒頭に触れたスーパーの『産直メロス』で土産をいくつか買った後、車に乗り込む。この後はいくつか観光地を巡った後、十和田の湖畔の宿に泊る予定だ。
次の目的地に向け車を走らせる途中、道の駅で綺麗な旬の桜桃(さくらんぼ)が売っていて、美食家のKが、良い品種なのに随分安いからぜひ買いたい、と言った。
なんの意図もなく、いいね、と賛同して車中のおやつに買ったのだが、後から桜桃忌に重なるとはっとした。この日は特になんとも思っていなくて、一晩寝て気づいた。
太宰の命日(正確には入水後遺体が発見された日)を“桜桃忌”と呼ぶ。この日は太宰の満39歳の誕生日でもあった。
死の直前の短編小説のタイトルが『桜桃』なのにも拠るし、6月19日が桜桃の時期であること、鮮紅色が太宰の鮮烈な生涯、小さな果実が珠玉の短編を思わせること、などで定着した名前だ。命日の当日でないとはいえ、太宰治の生家を見に行った後ふらっと買ったのが桜桃は出来過ぎている。
味は、Kが言った通り上等で、人生で食べた桜桃のなかで一番良かった。紅秀峰、という品種らしい。覚えておこう。来年の夏も食べよう。車中だけでなく、宿で冷やして夜のおやつにもした。
津軽塗も、紅秀峰も、東京駅のアンテナショップや近所のスーパーで出会っても目が滑って素通りしていたと思う。
出会いは適切なタイミングで鮮烈に降ってくるから無理に知ろうと焦らなくていいし、機が熟して、不意の鮮やかな出会いで受け止めたことは決して忘れ得ない。
太宰の生家を後にした後、車中から流れる景色を眺めながら摘んだ際に伝ったぬるく甘い果汁。その日の夜に宿で寝転がりながら冷えた果実を口に含んだ際の果皮の張り。この先人生を重ねるごとに、遠い記憶のなかで、多分果てしなく美しくなってしまうだろう。

