煙草二本分の、


 Times:Midnight
 時雨秋人が慣れないものの話。



 自分でも思う、身軽な人生だったと。悩み事など持たず、飄々と流されるままに生きてきた。金がなければないで上手く立ち回り飯を食い、仕事がないならないで突発で芸を売り込んで日銭を稼ぐ。やがて評判ができれば呼んでくれる人間の元で仕事をしながら、なるべく深い関わりを他人と持つこともなくやり過ごす。もちろん身体を持て余せば、同じように餓えた目の人間を認めると一夜ばかりの夢をみる。気持ち良いことは良い事だ。相手が気持ち良くて自分も気持ち良いならそれでWin-Win。貸し借りはなし。後腐れがない。なにせこういう性格だから面倒事は嫌いだし、地に足をつけて縛られるより、面倒事、厄介事はぷかぷかとふかした煙にまいて生きていくほうが性に合っていた。
 つまるところ、アタシは無意識のうちに『執着』というものから正反対の座標で船を漕ぎながら広い海に浮かんでいるようなものだった。だった、のだ。
 お高そうなマンションの警備ロックを解除して、玄関へ。コンビニの袋を指に引っ掛けたままポケットの中から鍵を取り出し、手の中で弄ぶ。いつ見ても小綺麗なマンションだ。場違い過ぎて肩身が狭くなる思いだがそのままエレベーターに乗り込んで、目的の階のボタンを押す。最早、慣れた作業というか。頭上の階数表示の光が上に登っていくのをただ見つめる。カウントするみたいに、指折り数えて。正直なところ、アタシは『慣れ』を感じるほど一所に通い詰めた経験がない。慣れるか慣れないかの前に、必要とされているかされていないか、面倒か面倒じゃないかのフローチャートだけで生活してきたから、この『慣れ』には、若干慣れない。慣れないのに続けている。それはなぜか。 
 コンビニ袋の中には、酒の缶が何本かと期間限定フレーバーのアイス。それから、コーヒーが二つ。
 エレベーターが止まる。降りる。この階に住んでいるであろうスーツ姿の男がぎょっとした顔をしながらアタシとすれ違いで乗っていった。まあ見慣れない顔だろうしな。服装もこのマンションの人間ならしなさそうな服だし。場違いな女が乗ってて悪かったな。アンタ気付いてないみたいだけど社会の窓全開だぜ。そのまま出勤して電車内で痴漢扱いされろ。じゃあな、オッサン。
 目的の部屋の前。見慣れたドア。表札には整った綺麗な字で『小山内』と書いてある。指でなぞってみたけど、アタシにはこんな字は書けないなと思った。
 小山内硝子。この部屋の中にいるだろう女の名前を心の中で復唱した。硝子と書いて、しょうこと読むのだと聞き出したのはもう何ヶ月も前のことなのに、いつ呼びかけても綺麗な名前だと思う。硝子サン、今何してんだろ。扉を開ければすぐ分かるのに少しだけ鍵を挿し込むのに躊躇する。寝てるかな、起きてるならもう仕事してたりして。彼女の仕事は小説家だから、いつでも仕事をしているとも言える。だとしたらつまんねえな。構われたいし、構いたい。
「あら」
「うわっ」
 鍵を開ける前に開いたドア。ショートの髪がふわふわ揺れたのを永遠のような気持ちで見つめていた。
「おはよう、秋人」
「お、おう」
 少しも感情を表に出さない赤い瞳、なかなか緩まない白い頬。緩めに開いた襟元から覗くデコルテ。なにもかも見透かすような聡明な視線が自分の視線と交わって、どきりとする。まるでドアの前にいるのが分かっていたみたいに驚きもせず、静かな声で、今日は早いのねとだけ言った。
「…………暇だったから?」
 嘘だ。夜に遠方の仕事を終えて、化粧だけ直してそのまま急いで戻って来た。昨日は会えなかったから会いたかった。その髪に触りたかったし、手を握りたかった。
 それだけのことを言うのがなんだか気遅れするというか、言ったらなにもかも終わってしまいそうな気がして、アンタが好きそうなアイス、コンビニで見つけたから、とレジ袋を揺らして見せた。それで合点がいったのか、彼女は半透明のゴミ袋を携えたままドアを開きアタシを中へ招き入れた。
「あら、ありがとう。上がってて。すぐ戻るから」
 陽だまりに揺れるレースのカーテン、そんな印象の穏やかな声をしてる。数ヶ月前に会ったばかり、しかもストーカー紛いの行為で知り合ったのに彼女はアタシを家に入れることになんの懸念事項もないようだった。
「どこ行くの」
「ゴミを捨ててくるの」
 反射的に聞いてしまったが、ゴミ袋持ってんだからゴミ出しに決まってるだろアホかアタシ。右手に持ったゴミ袋をアタシがさっき見せたレジ袋のように揺らすと、すぐ済むからと砂糖ひとつまみ分の笑顔をみせた。もともと垂れ目な目尻を下げて、ドライフラワーのように軽やかに笑む。
「アタシも行こうかな。持つよ」
「大丈夫、プラスチックだから。それより、アイス早めに冷凍庫に入れてあげて。溶けちゃう」
 溶けちゃう、って。彼女の口にした言葉がとろけるように耳の中に流れ落ちていった。脳までその声が届くと、記憶がまざまざと呼び返される。先週末の夜の記憶。多分憶えてないな、そのために酔わせたからそれでいいんだけど。彼女が白いシーツの上でうわ言みたいに零していた言葉が今、はっきりと耳元で囁かれたような感覚だった。とけちゃう。嬌声の代わりに、そう小さく呟いていた白い喉を幻視する。
 じゃあ行ってくるから、とアタシの前を彼女が通り過ぎて行く。その瞬間、嗅ぎ慣れたシャンプーの甘さが香った。その匂いにも喉元が焼けるような思いをして、咄嗟に細い手首を掴んで引き止めた。なんの反応もなく捕まって、ほとんど自然のようにアタシを見上げる。何も言わないのをいい事に、手を掴んだまま腰を引き寄せた。ほとんど抵抗もなく抱き寄せられる身体。風呂上がりなのか、しっとりとあつい。しかし、ほんとに内臓入ってんのかこの人。あんまり軽やかだと誰にでも攫われてしまうんじゃなかろうか。
「秋人?」
 硝子サンは目をぱちりとさせた。どことなく潤んだような、とろけたような瞳で見るのをやめてくれ。トリガーを引かれかけた銃みたいにキリキリする。
「今日の予定は?」
「十時頃に林さんが来るから、それまで作業」
 とろとろとした声が、自分のものではない予定の話をする。それ、アタシの名前に置き換えできない?もう来ちゃったけどさ、なんて、他の女に言うのは簡単だったのに、彼女の前では審判を待つ罪人みたいな気持ちになってしまう。
「それ以降は?」
「お酒なら、今日は飲めないけど」
「なんで」
 ちょっとだけおかしそうにとろりと笑いながら先手を打たれてしまって、つい噛みつくように返す。
「風邪気味でちょっと熱っぽいから、悪酔いしそう」
 身体が火照ってるのはそのせいだったのか。ああ、もう。悪酔いさせたい。記憶もなくなるくらい飲ませたら、いくら好きだと言っても憶えてないだろうから。そうすればこの奇妙な関係のまま、またアタシを部屋に入れてくれるだろうに。
 キリキリと引かれかけたトリガーが緩んでいく。風邪気味なのは、よくない。嫌われたくないし、拒まれたくない。なんなら近くにいたいし、必要とされたい。曖昧なままなら踏み込んでしまっても誤魔化せる。そうするかどうかは、別かもしれないけど。
「分かったよ。じゃあ、部屋にいて。ゴミ捨ててくるからよ」
 開いたままのドアの中に硝子サンを押し込んで、アタシのレジ袋とゴミ袋を取り替えた。なにか言いたげな顔をしているが、ぼんやりと熱っぽい顔をしているからそのまま部屋を出る。
「それ冷やしといて。コーヒーも入ってるから飲んでていい。一個アンタのだから」
 それから、と付け足す。こっちの方が重要なんだ。
「その代わり、先約が済んだらその後の時間はアタシにくれよな」
 ぽかんとした顔は珍しいなと思った。言い逃げのようにドアを閉めようとしたのに、秋人、と名前を呼ばれて咄嗟に振り返る。
「等価交換なんて、あなた、やっぱり良い子ね」
 雪融けのようにへにょりと笑う、彼女。誰にも見せたくなくて思い切りドアを閉めた。勢いのまま、さっきまで乗っていたエレベーターに取って返す。乗り込んで、玄関までのボタンを押した。片手にはさっきまでの小さなレジ袋じゃなく、膨れ上がったゴミ袋。
 なんだよ、ゴミ出しの代わりって。いっそ拒まれれば、嫌われれば、今までのようにオサラバできるのに。受け入れてくれるから困るのだ。今まで自分が他人にしてきたことを彼女にされたくないというのは、とんでもない我儘だけど。物盗りと疑われたアタシを見て、あなた悪い人じゃなさそうだものと微笑んで周りの誤解を解いてくれたあの人に、必要とされたい。硝子サンという透明な人の前では、何もかもが欲しくてたまらない。これを、今まで避けて煙に巻いてきた『執着』と言わず、なにを『執着』と呼ぶのだろう。
 そうだ、煙草を吸ってから戻ろう。酷い口寂しさを覚えながら、来たときと同じように階数表示の光を追った。そうして玄関に着いたエレベーターを降りて、重くはないけど軽くもないゴミ袋を引き摺っていく。半透明の袋の中で、先週末に二人で食べたアイスの蓋に書いてあった『期間限定』の文字が見え隠れしていた。アタシは、期間限定と言いつつ、なかなかなくならないこのフレーバーのアイスが好きだ。
 決して今は身軽ではない。悩みも多くなった。ぷかぷか浮かんでるだけだとするりと誰かに盗られてしまいそうだから、舵を切る。まずは、煙草の臭いを染みつかせて部屋に戻ろう。いつの間にか迷い込んだ執着の座標の中。アタシの代わり、透明なあの人の身体に、半透明のアタシの臭いを纏わせるために。



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