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ももこと牛

緑と土の匂いがじわじわと濃くなり始めるこの季節。私は決まってある人を思い出す。

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大学一年生の五月のことだった。
その日私は、友人から楽単(楽に単位が取れる)と聞いて選択した午前中の二コマで無事眠気に勝ち越し、混雑のピークを避けて入った学食で、タレだけが日々変わる日替わりのとり天定食を呑気に頬張っていた。

次の授業のチャイムが鳴る。が、私には関係ない。ほんの数十分前に休講の連絡が入るという棚ぼた的な展開により、私は一足お先に休日の空気に脳みそを溶かしはじめていた。

入学と同時にインストールしたInstagramには、絶えず同級生たちの煌びやかなキャンパスライフが流れてくる。小さなスクリーンに映る染めたての鮮やかな髪と、大人への入り口の先にありそうなカラフルなドリンクが、私の心に羨望のスタンプを押していく。

彼女たちは一体どうやって、これほど華やかなコミュニティを発掘しているのだろう。いや、それよりもそこで日々を謳歌するための資金をどこで手に入れているのだろう。

考えを巡らせるまでもなく、頭の中の電球がちかりと光る。答えはバイトだ。

そうと分かれば、一刻も早く稼ぎ口を見つけなければならない。私は残っていた豚汁をダイソン並みの吸引力で飲み干し、最後の一口だったとり天を口に放り込んだ。
さあ、これを呑みこんだらすぐさまここを出よう。そして図書館のWi-Fiと電力にタダ乗りをしながら、体力仕事とは無縁のゆったりと時間が過ぎていくようなバイトを見つけ出そう。そう意気込んだときだった。

目の前の空いた席に、東南アジアからの留学生と見まがうほど派手な女子が座ってきた。家庭科の授業で頭につけるバンダナ以外で見たことのない、赤いペイズリー柄のワンピースに、麻素材のサンダル。手首にはオリーブの実を繋ぎ合わせたようなブレスレットが巻かれている。

私の知り合いにこれほど変わった風貌の者は一人しかいなかった。同じ文学部のクラスメイト、ももこだった。

ももことの関係性はひとことで言うと、「付かず離れず」であった。教室内で視線が交われば挨拶プラスアルファの言葉は交わすし、体育の授業で四人組を作れと言われれば、互いが連れ立ってくる友人を合わせてチームを作る。けれど、わざわざ約束を交わしてまで同じ授業を取ろうとするわけでもなければ、LINEでメッセージを送り合うこともなかった。

しかし実のことを言うと、私はそんなももこに対して密かに憧れを抱いていた。ももこの一風変わった服の系統は、私が憧れていた服装そのものだったのである。

高校生の頃、私はショッピングセンターに行くたびに「チャイハネ」というアジアン雑貨屋に目を引かれていた。
染料をたっぷりと含んだ筆を、真っ白な生地めがけて勢いよく振り落としたような服に、南国を飛び回る巨大な鳥から拝借したような羽を突き刺した帽子。私はそれらが持つ野性味と、他とは一線を画した個性につくづく心を奪われていた。
けれどそこそこ値段もするうえに、母親はこの服の魅力を分かってくれない。どれだけ頼み込んでも買ってもらえなかった私は、「大学生になった暁には、ここで買ったワンピースを着てキャンパス内を闊歩しよう」と決めたのだった。

それだというのに、今の私の服装といったら無難に無難を極めたクリーム色のブラウスにネイビーのジーンズ。あの頃の決意はどこへやら。結局、私のエスニックに対する憧れはその程度でしかなかったのだ。

けれど、私の目の前にいるももこは違った。彼女の放つ独特な空気感と、アジアンな服の雰囲気が、互いに互いを引き立て合っている。そんなももこは私にとって、神よりも崇めるに値する存在であった。

そんなももこが、何やら面白いこと思いついたと言わんばかりの輝かしい表情でこちらを見つめている。「どうしたの?」と尋ねると、ももこは興奮の冷め止まぬ口調でこう言った。

「ねえねえ、今度牛を見に行こうよ」

牛? 牛ならここから数分も歩けば出会えるというのに。何を隠そう、私の大学はとてつもなく辺鄙なところにあったのだ。大学周辺に住居を構えている学生たちはみな口を揃えてこう言っていた。
「家畜臭がひどくて洗濯物が干せないんだけど!」

牛が見たければ遠くに行かずとも、そのあたりで飼われているものを眺めれば十分だろう。それをそのままももこに告げると、彼女は急に真顔になった。
「だから、その牛を見に行くんだよ」

なるほど。と頷きそうになるが、私の頭は思ったよりも頑固である。口では「なるほどね~」なんて言いながら、頭の中では相変わらず消極的な主張を続けていた。

(牛なんか見てどうするのだ。しかもこの辺りに生息している牛は「エサやり放題!」みたいなレジャーを意識した飼われ方ではない。そんなものを見に行ったって、柵の外から仁王立ちで眺め続けるだけじゃないか)

けれどももこがスマホのカメラロールを見せてきた途端、私の心は一瞬にして感化された。ももこのスマホの中には、数十匹を超える牛が生息していたのである。牛界のセンターとも言える白黒のホルスタイン種に、涼やかな表情をした茶色のジャージー種。そのほか何種類もの牛が、ももこのスマホの中で草を貪ったり、呑気に眠りこけたりしていた。

つまり、ももこにとって牛を見るという行為は単なる気まぐれではなく、れっきとした趣味なである。そう思ったら、途端に「牛を見に行く」という行為が意義深いものに思えてきた。

密かに憧れを抱いているももこの趣味。これは彼女の生き方や考え方に間近で触れることのできるチャンスかもしれない。もしくはそこまで高尚なことでなくとも、大学の同期であるももことの距離を縮める良い機会かもしれない。

気づけば私たちは、互いに空いている日を教え合っていた。ももこがスマホのカレンダーに牛の顔文字を入力する。その様子を横目で見ながら、私も一週間後のマスにぽんと一頭の牛を産み落とした。

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約束のカゥウォッチングの日は、絶好の天気だった。雲一つない青空に、前髪をそよがせる乾いた風が心地良い。大学が聳え立つ坂の麓で私たちは落ち合った。
ももこは相変わらず溶かした絵具のような色合いの服を纏っており、私は相変わらず無難な白いTシャツを着ていた。

私はももこについていくような形で小道に入り、早速本日一頭目の牛を見つけた。体全体が艶のある毛に覆われた真っ黒な牛だった。ももこの口元が緩いカーブを描く。
柵があるとはいえ、驚かせて暴れられては困る。私はそろりそろりと牛に近づいた。

牛は私たちに見向きもせず、モシャモシャと草をむしり食べていた。咀嚼のリズムに合わせて耳がヒクヒクと動く。

「なんか意外とかわいいね」
言葉を零した瞬間だった。

「ムオォォォォォ~~~」

鳴いた。
それも鳴き主は牛ではなく、ももこだった。
牛は相変わらず、私たちを気にするそぶりもなく黙々と雑草を頬張っている。

「ほら、なちちゃんも言ってみなよ。楽しいよ」
しかも私にまで求めてくるではないか。念のため周りを見渡したが、誰もいない。それなら私もいっちょ鳴いてみるか。

「モオォォォォォ~~~」
「ムオォォォォォ~~~」
「ンオォォォォォ~~~」

見事なアンサンブルだった。私の鳴き声に、ももこと目の前の牛が重なってきたのである。

しばらく鳴いていると奥の小屋の前に野次馬ならぬ野次牛ができ、彼らを招いて最終的には二人と三頭で合唱に興じることとなった。

牛たちと生み出すハーモニーにひと通り満足した私たちは、三頭の牛に別れを告げて昼食を食べに行くことにした。

行き先は吉野家。
いらぬ想像をしてしまうから別の店へ行こうと言ったのだが、午後の授業も迫っている金なし大学生の私たちにとって、安い・早い・うまいに勝るものはなかった。

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この日を境にももこと親友になる。
牛を見に行く前に抱いたそんな期待は、単なる私の妄想に過ぎなかった。

ダイソーでのバイトを始めた私はレジ打ちの楽しさに心を奪われ、ももこは落語研究会の活動に勤しんだ。夏休みにはいささか暇な時間はできたものの、牛を見に行くこと以外にももこと楽しめる遊びが思いつかず、一度も誘い出すことはなかった。

気づけば三年生も後半に差し掛かり、早期選考だとか内定だとかいう言葉に敏感になりはじめていた。インターンや面接で東京へ足を運ぶたびに、ふと東京出身だと言っていたももこのことを思い出しもしたが、連絡をするには至らなかった。

そんなある日のことだった。

「はじめまして」

私は数少ない男友達の一人から友人を紹介された。色素の薄い肌に、青い金属縁の眼鏡。まっすぐに切りそろえられた襟足。真面目そう。その言葉以外何も思いつかないほど、ただただ真面目そうな人だった。

「研究室はどちらですか?」
私のありきたりな質問に、彼は「イン哲です」と短く答えた。

「イン哲」とは「インド哲学研究室」の略で、私の属する文学部の中では最も人気のない研究室だった。いや、本当にそうだったのかは分からない。ただ「単位ヤバい」と嘆けば「イン哲まっしぐらじゃん」と返される。そんな少々哀れなポジションの研究室だった。

私はしばらく、その噂のイン哲がどんな研究をするのか、卒論ではどんなテーマを扱うのかについて話を聞いた。彼は第一印象には似合わず饒舌な口調でイン哲について語った。彼は世にも珍しい、自ら希望してイン哲を選んだ人間だったのだ。

親族間の大戦争を描いた文学『マハーバーラタ』に、復讐と正義の物語『ラーマーヤナ』。全くの畑違いである言語学を専攻していた私にとって、彼の話はどれも真新しかった。

けれど、しばらく話を聞いているうちに心の隅っこがざわざわと落ち着きなく騒ぎ立て始めた。アルバイトまで時間がない。私が彼に聞きたいのは、イン哲の話なんかじゃなかった。数日間にふと耳にした、ももこに関するとある噂の真偽を確かめたかったのだ。

「イン哲なら、一人知り合いいるよ」
私はそれとなく話の区切りを見つけて、ももこの話を持ち出した。
「ももこはどんな感じ?」
元気にやってるよ。ただそんな言葉が聞ければよかった。けれど彼は眼鏡の奥の黒い瞳に翳りを見せた後、言いにくそうに告げた。

「もうずいぶん長いこと学校で見かけてないよ」

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私は、どうにかももこの留年を阻止する方法はないだろうかと考えを巡らせた。

けれどそんな矢先、イン哲の友人を紹介してくれた男友達に恋人ができたと知った。私は彼に恋をしていた。恋愛が相手ならミキサー並みに感情をかき回されてしまう私は、ももこのことはひとまず置いておき、就活以外の時間は冬眠するかのように布団の中で丸まって過ごした。

数か月後。ようやく吹っ切れたころに、私は無事内定をもらった。けれどその頃から、あの世界を震撼させた新型ウイルスの存在がまことしやかに囁かれ始めた。そして、それから一か月も経つことなく、私たちは閉塞感の漂う慣れない生活へと押し込められた。

結局、私がももこに連絡することはなかった。

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卒業式の日、絶対に寝坊するまいと着付け屋の向かいにあるネットカフェに泊っていたはずなのに、私は思い切り寝坊した。同じ番号の並ぶ着信履歴に青ざめながら店に駆け込んだ私は、予約時間を二時間も過ぎていたのにもかかわらず、店の厚意によって着付けとヘアセットをしてもらえることになった。

卒業式の開会は九時。
着付け開始時点で七時を過ぎていた私が式に間に合うはずもないが、卒業証書を受け取る研究室の集まりにはなんとか顔を出せそうだ。ひよこの尾のようにツンと上がった袴を着せてもらい、学校まで向かうバスに乗った。

ゆったりと走るバスの車窓をのどかな田園風景が流れていく。長いようで短かった大学四年間。たとえこの県へ旅行に来ることがあっても、こんな田舎町まで来ることはないだろう。そんなことを考えながら、私はひとり淋しさに身を委ねていた。

遠くで、今まさに卒業式が執り行われているだろう大学の講堂が顔を出す。降りる停留所まであと二駅。そろそろ降りる準備をし始めよう。
そう思ったときだった。

四年前に牛を見た場所にひとりの女性が立っていた。牛を見つめる寂しそうな背中。まぎれもなくももこだった。

私は急いで降車ボタンを押した。バスが停まるのと同時に駆け下り、重苦しい着物の裾を乱雑に捌きながらももこのいる場所へ走った。

ももこは私を見るなり「綺麗だね」と言った。
ももこは四年前よりは少し落ち着いた色合いの、けれどどこか森や山を彷彿とさせるようなやはり少し風変わりな服を着ていた。

「わたし、卒業できなかったんだ」
ももこは静かに言った。
「学校サボっちゃって、気づいたら単位足りなくなってた」

私はあたかも今初めて知ったような、驚きと心配が混ざったような表情を貼り付けて「そっか」と呟いた。
そうしなければ、泣いてしまいそうだった。

大学生なんだから、単位だとか就活だとか自分の将来なんてものはすべて自分で管理しなくちゃいけない。そんなことはわかっていた。だけどそのうえで。

もしもあのとき、たった一文字でもももこにメッセージを送っていたら、今ごろ私とももこは互いに袴姿で笑い合っていたのだろうか。そんな想像が後を絶たなかった。

ももこに何があったのかは分からない。けれど自分ひとりで立てなくなったとき、そんな状況から救い出せるのは他人しかいないのだ。私がももこを救う未来は本当になかったのだろうか。

私は体の中でバチバチと弾ける後悔を身に受けながら、水の膜が破れないように目に力を込めた。

「ももこなら大丈夫だよ」
なんとか絞り出した言葉に、
「来年こそは頑張る」
ももこは笑いながらそう告げると、
「そろそろ行った方がいいんじゃない?」とその場で私を見送った。

***

ももこは今どこで何をしているのだろう。あれから六年が経ってしまった私にそれを知る術はない。だけど少なくとも、元気でやっていることは知っている。

数日に一度、他愛のない呟きが流れる鍵のかかっていないX。そこをひっそりと訪れながら、私はふたりと三頭のアンサンブルに耳を澄ませている。

(おわり)

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