悲劇をめぐって(三島由紀夫・シェイクスピア・志賀直哉) [2026.2.21改訂]占領下の抵抗(注xxxxi)
2026.1.24.版
本論で指摘したように、志賀直哉の幾つかの作品(「濁つた頭」「クローディアスの日記」など)に現れた悲劇と自衛隊駐屯地での自決という三島由紀夫の壮絶な死は底流で繋がっていると、私は考えている。
三島由紀夫は「日本文化の深淵について」の中でこう述べている
一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついてゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がそうであるやうに。・・・・・・日本はその足早な、無理な近代化の歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代化ほど、光と影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかった。私の四十年の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、失われた文化の全体性が、均衡をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんと狂的な事件が起こるのであった。
(*v)
そして、そのような
非合理な、ほとんと狂的な事件
の代表的な例として
近代的兵営へ、日本刀だけで切り込んだ
明治9(1876)年の神風連の乱を上げている。
後段で、三島は神風連について
そのような無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふこと知ってゐたのである。
と云っている。
これは自衛隊に決起を呼びかけた後に割腹自殺をした三島由紀夫の事件を彷彿とさせる。
しかしそれだけではない。日本のこのような事件と比する形で三島があげた
エリザベス朝時代の幾多の悲劇
には、メアリー・スチュアートの処刑(1587年)に象徴的される現実の悲劇と共に、エリザベス1世の治世晩年からジェームズ1世の治世初期に書かれたシェイクスピアの悲劇(「ハムレット」「オセロー」「リア王」「マクベス」)の事も同時に意味していると思われるからである。
まずは一般的な歴史的事実に基づき、ChatGPTの助けを借りながら、エリザベス朝と明治の政策と事件を、それぞれの時代の始まりを元年として、年号をふって並べてみた。
(エリザベス朝1558年 - 1603年、明治1868年-1912年)

多くの日本人には馴染みの薄いと思われる、エリザベス朝の事象の簡単な説明文をつけるとこのようになります。(説明文はChatGPTによる)
国王至上法・礼拝統一法(1559)
女王を教会の最高権威とし、国教会礼拝を全国に義務化。
北部諸侯の反乱(1569)
カトリック貴族による大規模反乱。
教皇による破門(1570)
女王が破門され、宗教対立が国際政治化。
カーライト失脚(1570頃)
長老制を主張した急進改革派が大学を追放され、国教会体制から排除される。
三十九箇条確定(1571)
イングランド国教会の公式な教義基準を確定。
分離派弾圧法(1593)
国教会からの分離や礼拝拒否を重罪化し、宗教的非同調を法的に抑圧。
エセックス伯の反乱(1601)
女王側近の有力貴族による反乱。
2つの時代を比較してみて、正確に一致するわけではもちろんないが、似ていると、私は思う。
どちらも宗教的なものが絡まった大きな政治的な改革の後、それに反発するもの達の反乱があり、それらの反乱を鎮圧して、国家の枠組みが出来上がっていく中で、最終的には、対外的な戦争の勝利を受けて、不穏な影を露呈しつつも、国家はある程度の強度をもった体制を確立していったと、そのように見える。
もちろんこのようなまとめ方は雑なものです。
先の表は、その事実や規模について議論が分かれるものはなるべく省いた簡略化されたものであるし、事実はもっと複雑であるだろう。しかし大きな枠組みの類似性は否定できないだろうと思う。今回の目的にはそれで十分である。
三島が先の文章で
エリザベス朝時代の幾多の悲劇が
と述べるだけに留まらず
ピューリタニズム
スペイン風
などという日本について語るのに似つかわしくない言葉をあえて使っているのは、こう云ったエリザベス朝と明治時代の類似性を喚起する為の仕掛けであるように、私には思われる。
そしてシェイクスピアの悲劇(「ハムレット」「オセロー」「リア王」「マクベス」)が45年続いたエリザベス1世の治世(1558年~1603年)と続くジェームズ1世の治世の境目に書かれたように、志賀直哉の一連の異様な作品(「濁つた頭」「クローディアスの日記」「范の犯罪」「児を盗む話」)もまた明治44(1911)年から大正3(1914)年という時代の狭間に出されたものであった。明治もまた45年間である。
志賀の一連の作品もシェイクスピアの悲劇も、国家体制がひとまず確立した新しい時代の始まりでありつつも、古い時代の軋轢の残滓が未だ淀んでいた時期に世に出されたのである。
志賀の一連の作品の一つ「クローディアスの日記」がシェイクスピアの「ハムレット」を元にしているのは、何とも象徴的であると云える。
シェイクスピアの悲劇がエリザベス朝の現実の悲劇と切り離せないように、三島が神風連の乱に象徴させた日本の悲劇と志賀の一連の作品もまた繋がるものもして捉えるべきだろう。
どちらも
失われた文化の全体性が、均衡をとりもどさうとするとき
の
非合理な、ほとんと狂的な
ものの現れであるのだから。
だとすれば、エリザベス朝とシェイクスピアの悲劇、および神風連の乱のような日本の悲劇の両方を意識していた三島由紀夫の自決が、志賀の一連の作品と通底しているのは、当然のことと云わねばならない。
追記:2026.2.1
上記の記事を書いた時、エリザベス朝と明治が45年なのと並んで三島由紀夫の生涯も45年であり、それが昭和の年号とぴったり一致するという事実を失念していた。よく知っていたにも関わらず、なぜか関連付けて考えることが出来なかった。
しかも柄谷行人が「一九七〇年=昭和四十五年-近代日本の言説空間」(1988年)の中で明治と昭和を並列で比較して、その類似性を
日本が近代国家の体制を確立し、経済的成長を遂げ、不平等条約を改正し、西洋列強に並ぶ国家になっていく過程においてである。
*2
と述べ、三島由紀夫の自決について
われわれは三島の行動に2・26事件の叛乱の"再現"を身がちであるが、むしろ明治四十五年における乃木将軍の殉死を想起すべきなのである。
*2
と書いているのである。
私はこれを読んでいたはずだし、細かい内容はともかく、柄谷行人が三島由紀夫の自決について、乃木将軍の殉死を想起すべきだと述べていたことを覚えていた。にも関わらず今回、これを自分の論に関連付ける事が何故か出来なかった。
しかし柄谷のこの指摘は重要で、無視できるものではない。
先にエリザベス朝と明治を並列で比較した表を示したが、柄谷の指摘を踏まえるならば、それと並んで2つの表を参照しなければならないだろう。
一つは明治と昭和を並列に並べたものである。

もう一つはエリザベス朝と昭和を並列に並べたものである。

エリザベス朝と明治を比較した時と同様に、これらの45年間には類似性がある。
おそらく三島由紀夫は先のものに加え、後にあげた2つをも意識していた事だろう。
特に明治と昭和の対照を強く意識していたのではないだろうか。
だとすれば、三島由紀夫の自決が神風連の乱や二・二六事件(1936年)よりも、乃木将軍の殉死(1912年)と似て見えてくるのは当然と云える。
それぞれ明治と昭和の始まりから45年後に起き、
どちらも
そのアナクロニズムによって、当時の人々を驚かせた。
*2
そして
おそらく三島自身がそのことを意識していたのだ。
*2
(*iv)
三島は1967(昭和42)年の「念頭の迷い」の中で
英雄たることをあきらめるか、それともライフ・ワークの完成をあきらめるか、その非常に難しい決断が、今年こそは来るのではないかという不安な予感
がすると語っている。しかし、乃木将軍の殉死が念頭にあった三島は、もはや英雄にはなれないことを知っていたはずである。
実際、三島事件(1970年)はすぐに遠藤賢司によって、諧謔的に扱われている。[「カレーライス」(1971年)、「満足できるかな」(1971年)]
「カレーライス」
遠藤賢司
「満足できるかな」
遠藤賢司
遠藤賢司のアルバム
「満足できるかな」1971年
前半の論で述べたように、三島がシェイクスピアの悲劇を意識していたのだとすれば、すぐれた戯曲家であった三島はなぜ
アナクロニズムによって、当時の人々を驚かせ
*2
る事になると分かりつつ行動に移すよりも
それを作品として残さなかったのだろうか?
三島は悲劇的な内容を持つ戯曲を幾つも書いている。
「十日の菊」(1959年)、「サド侯爵夫人」(1965年)「わが友ヒットラー」(1968年)などである。
しかしそれらはどれもどこかユーモラスでもある。三島の資質は悲劇とその登場人物をただ悲劇的には描かせない。どうしても相対化し、はぐらかし、宙吊りにしてしまう。
それでも三島は悲劇を書くことを試みはした。「朱雀家の滅亡」(1967年)「癩王のテラス」(1969年)がそれである。しかしこれらは先の諸作品と比べると、生気に欠けている。
赤塚不二夫の「もーれつア太郎(1967〜70年)」と水木しげるの「宇宙虫」(1965年)を好んだ(1970.2「劇画における若者論」) 三島の真骨頂は、息苦しい直線的な悲劇や静的な小説[「仮面の告白」(1949年)、「金閣寺」(1956年)]よりも戯曲[「只ほど高いものはない」(1952年)、「若人よ蘇れ」(1954年)、「鹿鳴館」(1956年)、「喜びの琴」(1964年)]のような動的なドタバタ劇にこそあった。
「朱雀家の滅亡」や「癩王のテラス」は三島の他の戯曲よりも、三島の小説の延長線上にあるように思われる。
それは法学士らしく、論理的に組み立てられたものである。
ところが言葉といふものは自家中毒を起こす。私は次第に言葉を以って言葉を守るという方法上の矛盾に気づきはじめ、戦前の文士が最初に陥った陥穽はこれではないかと感じたのである。
といった言葉に対する懐疑は、そのような「小説」に対する懐疑だったのだと思う。(*iii)
深沢七郎のような三島の想像を超える
不快な傑作
を書く作家や石原慎太郎・大江健三郎・野坂昭如のような新しい世代の作家を評価し、自身も新たなスタイルを模索しつつも、そのような懐疑からは逃れようがなかったものと思われる。
その後、時代を画する作品は演劇・映画・漫画・アニメといったジャンルにおいて開花した。(漫画・特撮ドラマ「仮面ライダー」(1971年)石ノ森章太郎、映画「書を捨てて街へ出よう」(1971年)・「田園に死す」(1974年)寺山修司、漫画「おろち」(1969〜70年)楳図かずお、など)(*i)(*ii)
三島は手塚治虫の「火の鳥」(1967〜86年)を嫌ったが[1970.2「劇画における若者論」)] 、三島の最後の作品四巻に及ぶ「豊饒の海」(1965〜71年)は前段に上げた作品達よりも、三島が嫌った「火の鳥」にどこか似ている。
どちらも長大な作品であると共に、三島の死後、「火の鳥」が「豊穣の海」のテーマである生まれ変わり・輪廻を扱っていくようになるのが、それを象徴している。
三島は自分の行動が敗北する事も、アナクロニズムと捉えられることも、演劇的に見える事も心得ていたと思われる。
柄谷行人が述べているように
三島の
行動は、徹底的にアイロニカルなもので
*2
あろう。
三島は、ある意味で、自分の生涯とともに「昭和」を終わらせたのだ。
*2
柄谷行人は言う
一九七〇年が一つの分水嶺をなすのは、むろんたんに三島由紀夫の華々しい死によってではない。たとえば、七〇年代の初めには「連合赤軍事件」が象徴するように「新左翼」運動が崩壊したし、また為替相場やオイル・ショックにあらわれているように、戦後の世界体制が構造的に揺らぎはじめたのである。そのなかで、まさに戦後の米ソ二元構造に依存しそれを一方的に利用しながら成長した日本は、八〇年代において経済的な強国として出現した。だがその意識においては、まったく内面的に閉じられたままであった。外からあらゆる情報が伝えられ消費されるが、「外部」は存在しなかったのだ。
*2
「冬の旅 死者との対話」(1971年)の中で三島由紀夫の幽霊を静かに登場させた円地文子は
「連合赤軍事件」が象徴するように「新左翼」運動が崩壊
*2
した後で、それを題材に、日本ではおよそありそうにない設定を設けた上で小説「食卓のない家」(1979年)を書いた。
円地文子にこの作品を書かせたのは、連合赤軍事件(1971年〜72年)をはじめとする新左翼の起こした事件と共に三島由紀夫の自決ではないかと思う。
それは
「外部」
*2
を持たず
まったく内面的に閉じられた
*2
日本社会への挑戦であった。三島の残した爪痕はこうしたところにこそ見るべきだろう。
ソビエト連邦とバブル経済が崩壊(1991年)した後にも残った、一見開かれているようでいて
「外部」
*2
を持たず
まったく内面的に閉じられた
*2
ものたちへの挑戦と思える幾原邦彦監督のアニメ『少女革命ウテナ』(1997年)と『輪るピングドラム』(2011年)の2作品を観た時、私が思い起こしたのは、円地文子の「食卓のない家」での孤独な闘いであった。
この記事は志賀直哉のエッセイ「国語問題」についての論考に付した注です。
志賀直哉のエッセイ「国語問題」についての論考
本文中の番号からこの記事に来ることができます。
引用・参考文献
◯ 引用文献:
✳︎1 「日本文化の深淵について」
『決定版 三島由紀夫全集』663-666頁
著者: 三島由紀夫
発行者:株式会社新潮社 2003.10.10
引用には二刷2011.8.15を使用
✳︎2 「一九七〇年=昭和四十五年-近代日本の言説空間」
『終焉をめぐって』8-51頁
著者: 柄谷行人
発行者: 株式会社講談社 1995.6.10.
引用には第2刷1996.1.23.を使用
*3 「念頭の迷い」及び「"国を守る"とは何か」
『蘭陵王 - 三島由紀夫1967.1〜1970.11」
著者: 三島由紀夫
発行所: 株式会社新潮社 1971.5.
それぞれ13-16頁と261-266頁
*4 「小説とは何か」
『決定版 三島由紀夫全集34』
著者: 三島由紀夫
発行所: 株式会社新潮社 2003.9
683-758頁
引用は二刷2012.10.5.735頁より
◯ 参考文献
✳︎「冬の旅 死者との対話」
『旅の小説集 円地文子紀行文集 第三巻』
著者: 円地文子
発行所: 株式会社平凡社1984.9.14.
165-199頁
✳︎「食卓のない家」
著者: 円地文子
発行所: 新潮社 1979.4.
文庫版1982.4
電子書籍版2004.12.
✳︎ 「ピューリタン」
著者: 大木英夫
発行所: 中央公論社 1968年
注
[2026.2.16.(i)を追加、同年2.21.(iii)を追加、2026.5.5.(iv)を追加、
2026.5.6.(v)を追加]
◯
*i
1970年前後には、その時代を代表する優れた漫画・アニメ作品が沢山ある。
「あしたのジョー」梶原一騎・ちばてつや(1967-73)、 「タイガーマスク」梶原一騎・辻なおき(1968-)、「漂流教室」楳図かずお(1972-74)、「デビルマン」永井豪(1972-73)などである。
しかしこれらを取り上げなかったのは、これらの作品には明白な終わりがあり、それが一つの解放をもたらすように思ったからです。
「漂流教室」の終わりが未来への希望であり、解放であることは明らかですが、それ以外の死や滅亡で終わる他の作品についてもそれは云える。
それは希望の裏返しであり、一つの解放であると思う。しかし、私がここで取り上げた作品達には終わりのない抜け出せない悪夢のようなところがある。それは「おろち」ではより明確であるが、一見収束へと向かう「仮面ライダー」でも、改造人間であるという事実には終わりがない。
その不気味さは、志賀直哉の一連の作品の不穏な感触を思い起こさせるものがあり、比較の対象としてよりふさわしいものと思われた。
それらにあるのは、常に繰り返されるが、輪廻のような大きな物語には回収しようのないリアルな惨さである。
*ii
水野しずは猫舌SHOWROOM豪の部屋で仮面ライダーについて
実際に本当に今仮面ライダーを放送しても「仮面ライダー本郷猛は改造人間である」って言ってた言葉の度肝を抜かれるようなおぞましいニュアンスって伝わらないと思う
いいですよ、改造人間て。よくそんな凄い言葉、思いつくと思う。シンプルな単語の組み合わせなのに、なんか、凄い大変なところに何か、侵入しちゃってる感じがするし、うぁーはって感じがして、それを始まってすぐ言うっていう、子供達に向けて宣言しているっていう、改造人間である...それであの手術台の光がパーっと明るい感じとかで、本当に取り返しのつかないところに行ってしまったんだ。
と述べ
と人造人間の取り返しのつかなさ、おぞましさについて率直に語っている。
そして
あとあれを放送してた時代背景だと、なんかちょっとあり得るんじゃないか、もう少し、なんかその、世の中に見えない部分とか、なんかネットで繋がってないから、隠された部分とかが多かったから、もしかしたらこういうことになってしまうんじゃないか...
と当時の時代背景において、人造人間という言葉が持っていたリアリティについて示唆している。
とても腑に落ちる話である。
水野しず(豪の部屋)
仮面ライダーについて(52:42)
水野しずのnote
*iii
柄谷行人は「価値について」(1977.10)の中で
私は三島由紀夫の小説を読みかえしたいと思わないが、彼の「戯曲全集」をときどきひもとくのを愉しみにしている。それはまことに稀有な才能であって、むしろ私は三島が小説を価値とする社会に生まれた不幸に同情するのである。実際、彼は一つも小説を書きはしなかったのであり、小説らしきものを書くふりをしただけなのである。戦後社会に対する彼の違和は、もっと具体的に創作活動に即していえば、彼が小説家にならねばならなかったことにあるといってよいかもしれない。
と述べている。
「価値について」
『反文学論』1979.4
81-91頁
著者: 柄谷行人
発行所: 冬樹社
引用は1984.2第四刷より
*iv
三島由紀夫は「革命哲学としての陽明学」(1970年)の中で2度、乃木希典についてふれている。
1つは冒頭近くで
乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかった。
と述べている。
もう一つは中盤で
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に致つて、日本の表面から消えていつたやうに思はれる。
と述べ
その後、陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティの基本を形づくることになつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかのめざましい事例がみられるのである。
としている。
三島が自身の行動をこのような日本的陽明学の系譜に連なるものと考えていたことは明らかであるように私には思われるし、乃木大将の殉死と自身の自決とを重ねていた事も疑いえぬように思う。
三島は「二・二六事件と私」(1966年)の中でこう述べている。
たしかに二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。当時十一歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、二十歳の多感な年齢に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、どこかで密接につながっているらしいのを感じた。
三島の自決はこのような「死」への殉死であるのかもしれない。
それは夢の中での英国製の服を着た天皇・皇后の殺害を描いた深沢七郎の「風流夢譚」(1960年)を私に連想させる。
「風流夢譚」の語り手は目を覚ます前に
私も腹一文字にかき切って(死んでしまおう)と、私は辞世の歌を作ったのだ。
と言っているからだ。
そしてそれは更に天皇の歩んだ長い歴史について触れつつ、明治以降の天皇制を絶対君主制やボナパルチズムという概念を使って批判的に考察した神山茂夫の思想へと私を誘う。
こういった連想は恣意的な飛躍に思われるかもしれないが、多彩な三島の思想と行動はこういった多様なものとの関連の中でこそ見るべきであると私には思われる。そのヒントを乃木大将の殉死が与えてくれる。そのような連関は乃木希典と三島由紀の歩んだ道のりや抱えた苦悩の比較などよりも重要であるように、私には思う。
三島の死を殉死と捉えると先にこちら↓
で論じた三島の独特な高度な天皇制への考察と、天皇から時計をもらったことを強調する純朴さとの矛盾も矛盾とは感じずに理解できる。
「問題提起」(1970年)の中で三島はこう述べている
微笑、友愛、やはらかな好意、・・・・・さういうものなら、戦後天皇制が国民からもつとも歓迎するものであり、この歓迎に応へる装置もさまざまに作られたが、「忠誠」だけは有難迷惑な贈物であり、これを拒絶する装置も隠密周到にさまざまに作られた。
三島は戦後死体となった国体=天皇制が嫌う「忠誠」を敢えて示しているのである。これは辛辣な批判であるといえる。
三島にとって憲法の改正の主眼もあくまで天皇について書かれた第一条で、第九条ではなかった。
現状のままで
現憲法の部分改正によつて、第九条だけが改正されるならば、日本は楽々と米軍事体制の好餌となり、自立はさらに失われ、日本の歴史・伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであろう。
とさえ言っているのである。
では国体については何と述べているであろうか?「二・二六事件と私」の中で三島は
そして国体とは?私は当時の国体論のいくつかに目をとおしたが、曖昧模糊としてつかみがたく、北一輝の国体論否定にもそれなりの理由があると知りつつ、一方、「国体」そのものは、誰の心にも、明々白々炳乎として在った、という逆説的現象に興味を抱いた。思うに、一億国民の心の一つ一つに国体があり、国体は1億種あるのである。軍人には軍人の国体があり、それが軍人精神と呼ばれ、二・二六事件蹶起将校の「国体」とは、この軍人精神の純粋培養されたものであった。そして、万世一系の天皇は同時に八百万の神を兼ねさせたまい、上御一人のお姿は一億人の相ことなるお姿を現じ、一にして多、多にして一、しかも誰の目にも明々白々のものだったのである。
このような国体とは何であろうか?三島はこのような国体に殉じたのであろうか?
三島由紀夫の述べたことは多様で、三島について論ずるのにはいつでも困難が伴う。一筋縄では行かない。ここで述べた事もほんの端緒に触れただけに過ぎないであろう。
引用文献:
1. 「革命哲学としての陽明学」及び「問題提起」
『決定版 三島由紀夫全集 36』
著者:三島由紀夫 、発行所:株式会社新潮社
発行: 2003.11.10
それぞれ118-137頁と277-310頁
引用は第二刷2011.2.5.より
2. 「二・二六事件と私」
『英霊の聲』、著者: 三島由紀夫
発行所: 株式会社河出書房新社
発行: 2005.10.20.
243-261頁、引用は第九刷2020.4.30.より
3. 『風流夢譚』
著者: 深沢七郎、発行所: 株式会社志木電子書籍
発行:2011.11
参考文献・映画
1. 『天皇制に関する理論的諸問題』
著者: 神山茂夫、発行所: 有限会社こぶし書房
発行: 2003.6.25.(初版は1947.4.民主評論社)
2. 監督 豊島圭介, 『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』, 1969.5.13.東京駒場キャンパスでの三島由紀夫と全共闘学生の討論会のドキュメンタリー, 2020.3.20.公開
3. 『美と共同体と東大紛争』
三島由紀夫・東大全共闘
発行: 2000.7.25
(1969.6.新潮社発行『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘 ー 美と共同体と東大紛争』を文庫化したもの)
*v
足早な、無理な近代化
を歩んだのは日本だけではない。日本の急激な近代化は、決して特殊な事例ではない。三島の認識は、近代化に伴う普遍的な軋轢と反動の構造を指し示してもいるのである。
例えばトルコでケマル・アタテュルクが行った改革は早急なものであった。
『イスラームから見た「世界史」』でタミム・アンサーリーはアタテュルクの構想について
トルコにおけるウラマーの権威を粉砕し、イスラームを社会の調停者の座から引きずり下ろし、世俗的な手法で社会を管理・運営する公的な制度を確立することだった。
と書いている。
アタテュルクは
女性に公的領域を開放
し
一夫多妻制を禁止し
結婚にまつわる伝統的な慣習に難色を示し、クルーアンでもハディースでもなくスイスの民法典に基づく離婚制度の制定を後押しした
また
国が新たに定めた服装規定の一環として、ヴェールやスカーフの着用を禁止した。この規定は女性のみならず男性にも適用され、たとえばフェスと呼ばれたトルコ帽〔説明は略〕の着用も禁止された。ターバンも顎髭も激しく非難されたが、山高帽や野球帽やベレー帽はよしとされた。アタテュルク自身はスーツとネクタイを身につけ、同胞のトルコ人に彼を見習うように強く促した。
のだという
そして
アタテュルクはその後半世紀間にわたってムスリムの指導者の模範となった。
という
イランではパラヴィー朝の初代国王レザー・シャー・パラヴィーは
アタテュルクが行ったのと同様の内政改革を断行し、とりわけ服務規定を厳重に適用した。スカーフ、ヴェール、ターバン、顎髭 - 一般庶民はこれらすべてを禁じられた。
アフガニスタンでも1919年に
国王が暗殺され、その息子アマーノッラーが王位を継承
すると
性急に上からの改革を進めた。アマーノッラーは〔国民の自由と平等を保障する〕リベラルな憲法を発布し、女性の解放を宣言し、(略)世俗的な初等学校制度を設立した。
そして
お決まりの服務規定も定めたのだ
と。
このような服装規定は明治初頭の散髪脱刀令を私に思い起こさせる。
そしてタミム・アンサーリーは先の記述に続けてこう書いている。
私がこうした服務規定に関して興味深く思うのは、急進的なイスラーム主義者が半世紀以上のちにイランとアフガニスタンで権力を奪取したときに、同様の政策を推進したということだ。ただし、規定の内容は正反対だった。突如として、女性たちはスカーフを被ることを強制され、顎髭わ生やしていない男性は人前に出ると鞭で打たれるようになった。とはいえ、服装や髭の有無を理由に鞭打ったり投獄したりという原則は - どちらの陣営も採用したのだ。
このような
急進的なイスラーム主義者
の政策に急激な近代化への反動という側面がある事は想像に難くない。
これらの事例を踏まえれば、三島の論じた内容は、日本固有の問題にとどまらないことは明らかだろう。
しかし、だからといって外側から眺めて、西洋民主主義的な観点から
急進的なイスラーム主義者
の政策を
非合理な、ほとんど狂的な
ものと規定したとしても、意味がない。そのような外から貼りつける評価は傲慢で無礼なものにしかならない。
そのような言葉の使い方は、自身が日本人である三島が日本人に向けた
非合理な、ほとんど狂的な
という言葉の持つ誠実さを失ってしまうだろう。
他国に目を向け、日本で起きた急激な近代化は、決して特殊な事例ではない事が分かったならば、もう一度三島の認識を、現代の日本に向けてみるべきであるように思う。
陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまったくうかがい知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。
と三島は言っている。
表面的には三島の生きた時代よりも更に西欧民主主義的な価値観は日本に定着したように見える。
しかし今の日本に
抑圧されたものは何ら突破口を見出さな
いというような状況はないのだろうか?かたちをかえたり、隠れたりしているだけなのではないか?
非合理な、ほとんど狂的な事件が
再び起こらないと断言できるほどの質的な変化が、日本に果たして起きたのだろうか?
一見変化して、それが自分らの一部だと自然に感じられるようになった時こそが、実は
文化の全体性を
犠牲に供してきた時代
の成れの果てで、そんな時ほど知らぬ間に、
均衡をとりもどさうとする
欲動が動き出そうと待機しているのではないか?
私は日本で再び
非合理な、ほとんど狂的な事件が
起こることを恐れる。しかし例え事件というかたちで起こらなかったとしても、その潜在する力は何らかの形で、影響を及ぼしているのではないか?私にはそう思えてならない。もしかしたら既に断続的なかたちで、現れているとも言えるのかもしれない。
本文で引用した三島の論を改めて載せておきます。
一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついてゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がそうであるやうに。・・・・・・日本はその足早な、無理な近代化の歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代化ほど、光と影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかった。私の四十年の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、失われた文化の全体性が、均衡をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんと狂的な事件が起こるのであった。
1.「日本文化の深淵について」
『決定版 三島由紀夫全集』663-666頁
著者: 三島由紀夫
発行者:株式会社新潮社 2003.10.10
引用には二刷2011.8.15を使用
2.『イスラームから見た「世界史」』
著者: タミム・アンサーリー
訳者: 小沢千重子
発行所: 株式会社 紀伊國屋書店 2011.9.7.
引用は第10刷 2018.1.11.より
原書は2009年発行
3.「革命哲学としての陽明学」
『決定版 三島由紀夫全集 36』
著者:三島由紀夫 、発行所:株式会社新潮社
発行: 2003.11.10
それぞれ118-137頁、引用は第二刷2011.2.5.より
以前、円地文子の
「食卓のない家」について書いた記事
映画「田園に死す」寺山修司について書いた記事
