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虚構(アニメ) is Dead?????

もう街はその意味も知らずに勝手に浮かれ出し、電飾のキラキラが街ゆく人の足取りを軽くさせてる 

クリスマス 

12/25 アドカレの最終ランナーを走るGaudiyの深見です

僕みたいにクリスマスに用事が特に無いそこのあなたに届けば良いなと思っています。 仲間だね 大丈夫だよ

突然ですが現実を生きてますか??

僕たちは現実に生きている。 
税金も締切もバグも、世界は容赦しない。

あなたは現実に生きてますか?? 生きれてますか?

「あんなこといいな」がなければ「できたらいいな」は産まれない

これは最近僕がよく言うワードだ
現実に生きてるが故に、僕たちはあんなこといいなを奪われ続けている
ドラえもんが提示したあんなこといいなという子供の夢は、ドラえもんをリファレンスしているであろうタコピーの原罪という作品で子供たちが辛い現実をなんとかする為の道具に変貌した 

そんな苦しい社会で僕はまだ虚構の力を信じている。
なぜなら虚構は、現実から逃げるための麻酔じゃない。
現実の見え方そのものを調律する道具だからだ。
漫画だって、アニメだって虚構のど真ん中だ

そして今、虚構は明確に現実に対して大敗している
少なくとも虚構の現実に対する「勝ち方」が変わってしまった。
作品の中身(虚構)より、作品を語る行為(現実)のほうが圧倒的に気持ちいい。

ポリコレやアテンション・エコノミーの狭間で、評価はしばしば「何を観たか」より「どう振る舞ったか」に寄っていく。

この状況はまさに「虚構の敗北」であると言える
僕はこの分析を、悲観としてではなく、これからのエンタメ社会実装の出発点として受け取りたいと思う。


そもそも人は現実世界に生きてない

まず前提。人は現実をそのまま見ていない。

外界から入ってくる情報は限られているのに、脳内で起きている計算処理はそれより圧倒的に大きい。
つまり人間は、現実を受信しているというより、脳内で世界を生成しているに近いのではないか? 

僕の理解ではこうだ。

  • 人間の脳内には「世界シミュレータ」がある

  • 外界インプットに応じて、そのシミュレータ世界が更新される

  • その結果として、人は「自分が生きている世界」を体感する

問題はここからで、世界シミュレータには実在しないものが大量に混ざる。
たとえば「お金」「実績」「世間」「正しさ」「空気」「炎上の恐怖」。
どれも現実の現象ではあるけど、触れる石ころとは違う属性のものだ。

で、多くの人の世界シミュレータは、自分の手で設計されていない。
外から編集されまくっている。

アルゴリズム、広告、同調圧力、コミュニティ規範、政治、流行。
MPの高い誰かが、他人の世界シミュレータに幻想を書き込むんだ

そいつらが何を書くか。だいたい決まってる。
その人がそいつらのために貢献するように、世界の見え方を誘導する。

ここまで来ると、自分の力で自分を幸せにするのが難しくなる。
だって「幸せ」の定義自体が、外部編集の産物になってしまうから。

だからこそ、今世界にとって必要なものをこう捉えたい。
人の世界シミュレータを「取り戻す」ための社会装置だと。


アニメ産業史は「現実の調律装置」の歴史でもある

虚構はずっと、現実をチューニングしてきた。
特に日本のアニメは、時代の欲望や人々の傷なんかを引き受けながら、集団の世界シミュレータを書き換えてきた。

アニメ産業史は、作品の歴史であると同時に「現実の調律装置」の歴史でもある。
テレビが生活を同期させ、劇場がファンを行動へ変え、玩具や工作がファンを共同制作者にし、事故が制度を更新し、インターネットは鑑賞を参加へ変換し、聖地巡礼は地理と経済に痕跡を残す。
虚構はずっと、現実のOSにパッチを当ててきた。

※これが正解ではないのですが、代表的な例を簡単にかいつまんで列挙してみる

1960s:テレビが生活を同期させた(『鉄腕アトム』)

1963年のTVシリーズ『鉄腕アトム』は、単にパイオニアの人気作というより、テレビが家庭の時間割を同期させる装置として機能した象徴だと思ってる。
週1回の連続放送に耐える制作手法が整い、アニメは「たまに観る特別な映像」から「毎週そこにある生活の部品」へ入っていった。
虚構が人々の日常のリズムを調律した最初期の例だ。

1970s:劇場がファンを行動する集団に変えた(『宇宙戦艦ヤマト』)

『宇宙戦艦ヤマト』は、テレビの視聴体験を劇場へ押し広げ、ファンを観客から行動する集団へ変えた代表例だ。
再放送や劇場版を通じて熱が増幅し、上映館に足を運ぶ、並ぶ、語り合う、ファン活動を作るといった現実の行動が、作品の価値をさらに押し上げる循環が生まれた。
虚構が「移動」「集合」「儀礼」を発生させた。

1979-:ガンダムとガンプラが「鑑賞」を「制作」に変換した

『機動戦士ガンダム』以降、ガンプラを中心に「虚構を手で組み立てる」回路が社会に初めて実装された。
鑑賞が受け身の受信で終わらず、組む、塗る、改造する、撮る、共有するという一連の制作行動へ変換され、ファンは受け手ではなく共同制作者になっていった。
虚構はここで、現実の身体と時間を占有し、世界の見え方を変えた。

1997:ポケモンショックが表現を安全設計と結びつけた

1997年のいわゆるポケモンショックは、虚構が現実に与える影響が気分や印象ではなく、制度やガイドラインとして回収された事件だった。
以後、点滅表現や強い光刺激への配慮など、表現はクリエイティブの自由だけでなく、安全設計とセットで語られるようになる。
虚構は「現実の健康・安全」に触れうることが、産業の前提として明確化された。

2000s:ネットが「受信」を「参加」に変えた(例:『涼宮ハルヒの憂鬱』)

2000年代、ネットは鑑賞体験を決定的に変えた!(僕はこの世代ど真ん中)
作品を観て終わりではなく、感想を書く、考察する、切り抜く、踊る、MADを作るなど、ファンの発信と模倣が作品体験の一部になっていった。
物語の受信的快楽が承認の快楽に圧倒され始めた時代でもあるが、同時に、参加が価値を増幅する回路が一般化した時代でもある。

2007-:聖地巡礼が「背景」を「目的地」に変えた(例:『らき☆すた』『ガルパン』『君の名は。』)

聖地巡礼は、虚構が現実の地理を編集する代表例
舞台は背景ではなく目的地になり、移動・消費・撮影・投稿が連鎖する。
その痕跡は、商店街の動きや観光の数字のような現実の統計として残る。
虚構が地理と経済とコミュニティ関係にまで介入することを、最も分かりやすく証明している。

2001:国際的な評価軸に接続した(例:『千と千尋の神隠し』)

『千と千尋の神隠し』の成功は、作品単体の勝利であると同時に、日本アニメが国際的な文化評価の軸へ接続された象徴でもある。
虚構が国境を越えると、それは「文化の信用残高」として現実側に積み上がる。
ここで初めて、虚構は国内の趣味を超えて、国際的な交渉力やブランドの一部になりうることが明確になった。

まとめ:虚構はずっと現実を動かしてきた。だから再び調律装置として実装する

こうして見ると、アニメは一貫して「現実を動かす装置」だった。
生活を同期させ、行動を発生させ、制作を日常化し、制度を更新し、地理と経済に痕跡を残し、国際的な信用へも接続する。

虚構が現実優位の時代に押し込まれているのだとしても、結論は撤退ではない。
むしろ、虚構が持っていた調律の力を、現代の条件に合わせて再実装する必要がある。
それが「虚構から現実をチューニングする」という、これから実装していきたい一つの僕たちが目指したい世界の1ファクターである



「現実優位」の時代に、虚構の価値はどこへ行くのか

現実が勝ってる。
少なくとも評価の主戦場はSNSという現実側に移った。
その結果、何が起きたかを覗いてみよう。

  • 作品の内実(虚構)より、語り方(現実)が強く報酬を生む

  • 「正しさ」を掲げることが承認を生み、炎上回避が最適戦略になる

  • 物語は、深く潜るものから、立ち回りの素材へ寄っていく

ここで多くの人は、虚構を諦めるか、虚構をサプリや安定剤として摂取するようになってくる。
でも僕はまだまだ逆をやりたいんだよね

虚構は、現実に負けたからこそ、現実を調律するために必要になる。

なぜなら、現実には現実だけでは処理できないものがある。
喪失、孤独、矛盾、後悔、怒り、許し、社会、赦し。
これらはデータで最適化しても溶けこまないし、僕の深く大きな悲しみとギャルのネイルが剥げた悲しみに強弱も上下もないんだから

虚構はそこに「別の見え方」を供給できるとまだまだ信じている。

虚構は、現実を否定するためっでも、現実に耐えるためでもない。
繰り返すようだが、現実の解像度を変えるためにあるのだと思っている。


2035年「ファン国家」はどうなっている?

ここから未来の話をしてみようかなと思う

僕たちGaudiyの最も大事にしているビジョンに「ファン国家をつくる」というものがある
言葉だけを聞くとファンによる巨大コミュニティとか、熱量の高いファンが作り出す経済圏みたいなイメージが先行するのだが、もっと想像の幅を広げてみたい

僕が見たいのはこういう未来だ

  • ファンが消費者ではなく市民になる

  • 規範と福祉と教育

  • 創作と二次創作と考察と応援が、きちんと価値循環する

  • オンラインの熱が、現実の行動に変換される(学ぶ、会う、作る、助ける)

ここで重要なのは、「虚構に浸る」ことがゴールじゃないこと。
虚構から得た勇気や規範や連帯が、現実の選択を変えるということ。
つまり「虚構から現実をチューニングする」が日常動作になる。

この循環が必要だと思っている

ヒッピームーブメントで終わらせたくない

比喩が効きすぎているので補足すると(興味のある人だけ読んでね)

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そもそも「ヒッピー」てのは1960年代後半のアメリカで生まれた思想で、伝統や制度といった古い概念にとらわれず、もっと正直に、人間本来のあるべき姿をとり戻すべきじゃないの? という主張と、やっぱり『旧体制=オトナや現代社会、への反抗』てのが根底にある。

なので彼らは定住地や仕事を持たず、旅を続けながら質素な生活を送り、同じように自由で新しい概念から生まれた音楽や文学を愛した。
伸ばしっぱなしの長い髪は、常識や文明社会への抵抗のメッセージだった。

その頃の社会情勢はというと、ベトナム戦争激化の一途、他の国でも同時多発的に革命運動なんかがぼんぼん起こってたもんだから、そういうのよくないです!という世界中の平和主義な若者はこぞってこの思想に共鳴、彼らが好む音楽や本、ファッションとともに一大ムーブメントとなる。

するとやっぱりアレとコレをカン違いして、「いやー、やっぱ仕事とかしてちゃダメっしょ。戦争とかやめてさ、歌おうよ。マジで」みたいな若者が大量発生するのは想像に難くない。

結果、へらへらとピースサインを繰り出しながら自然食品食ってるだけで戦争が終わると信じてた輩は成長とともに突きつけられる現実にほとんど敗北し、文明社会にすごすごと帰結する。

こうして第一次ヒッピームーブメントは終息したのだ。
世界が夢みた理想の、敗北であった。

ぼくは、上に書いたようなヒッピー思想に共感は覚えないけど、勝とうとする姿こそ人間のあるべき姿で、その勝利の歴史こそ文明だと思っている。

だけど美しいのは、無謀にもそれを信じた若者たちの、敗北の涙だ。

成長という残酷な現実と向き合った少年少女がみた、短い夢だ。

変わらない世界に絶望し、それでも生き続ける自分に失望する。
その敗北から、70年代アメリカン・ニューシネマの名作の数々が生まれることとなる。

しかし、夢は再び蘇える。
80年代後半に、今度はイギリスで。

戦争も途絶え、かわりにただただ続く平坦な日常の中で、新しい若者たちは今さら世界平和なんて望まなかった。
代わりに望んだのは、ずっと続く希望、ずっと続く興奮、そのための「終わりのこない」音楽、そして。

ステージと客席の垣根を取り払うことだった。

アシッドハウスの誕生だ。

彼らはスポットライトをステージからダンスフロアに移し、自らが主役となった。
観客は参加者となって、「レイブ」という名の理想郷を出現させたのだ。

サマー・オブ・ラブと呼ばれた67年になぞらえて、この新しいムーブメントは「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれた。

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ちょっと話に熱が入っちゃったけど、極私的『ヒッピー論』でした。
あくまで私的な観点からなので、ちゃんと知りたい方はそういった文献にあたっていただくことをオススメします。
まちがっても卒論にコピペしたりしないよう!

結局ファン国家ははヒッピー的理想論なのかもしれない

でも、勝とうとする姿を社会や経済や技術と接続しながら模索していきたい


じゃあ今、何を仕込むのか

未来がそうなら、今は何をやるべきか。
ここからは綺麗事じゃなく、設計の話にうつっていく

原則1:ファンの主権を守る〜世界シミュレータを奪い返す〜

ファン国家の敵は、冷笑や皮肉でも炎上でもない。
他人が書いた幻術で動かされる状態そのものだ。

  • 自分の好きが、誰かの利益のための操り糸にならない

  • 意見表明が、承認ゲームの最適化だけにならない

  • 参加が、自己破壊に繋がらない

このために必要なのは、機能より先にプロトコルだと思う。
安全、尊厳、透明性、異論の扱い、退出の自由。
国っぽい話をするなら、ここが一番国っぽいよね。

原則2:熱量を行動に変換できる導線を作る

SNSは語ることの気持ちよさを最大化した。
なら僕らは、語ることを否定せずに、その先の行動へ橋を架けたい。

  • 作る(創作・二次創作・翻訳・まとめ)

  • 支える(レビュー、通報、モデレーション、初心者導線)

  • 集める(アーカイブ、年表、辞典、設定整理)

  • 会う(イベント、聖地、上映会、部活動)

  • 学ぶ(制作技術、歴史、批評、リテラシー)

行動の設計は、作品の寿命を伸ばす。コミュニティの寿命も伸ばす。
そのために、人類に新しいパラメータを社会のコンテキストに合わせたり合わせなかったりして実装していくことが重要だと思っている

原則3:参加と信用

フォロワー数は信用じゃない。
これは本当にノイズが多すぎる。
ファン国家が作るべきは、参加の積み重ねが報われる設計

  • 継続参加

  • 他者への貢献

  • 作品理解の深さ

  • コミュニティ規範への寄与

ここが国家の骨格になる。
何を持っているかより、どう振る舞ってきたか。

「いやー、やっぱ仕事とかしてちゃダメっしょ。戦争とかやめてさ、歌おうよ。マジで」というフリーライダーを産むわけにはいかないもんね

原則4:創作者とファンのリレーションを「気持ちよく」成立させる

正しさより気持ちよさ。
搾取ではなく、循環の気持ちよさが大事だと思う

  • クリエイターに還元される

  • ファンの貢献が正しく見える

  • 透明性がある

  • 継続できる

この気持ちよさは、プロダクトのUXだけじゃなく、規約・運営・文化の全部で決まってくる


最後に

僕たちは現実に生きている。そして生きていかなければならない。
それでも、虚構の力を信じている。

虚構が大敗したこの時代に、虚構から現実をチューニングすることにまだ挑戦したい
それが、これからGaudiyのファン国家構想の一構成要素なのかもしれないと思う
時代の気分や社会のコンテキストが目まぐるしく変わるので、逆のことを言ってる未来もあるのかもしれない

だから今、当たり前のことを当たり前にやりきり、特別なことを大胆にやる

僕たちは現実に生き、リアルなアセットを摂取しそして、虚構で調律して、現実にちゃんと勝つ。

そんな「ファン国家」というビジョンに挑戦し、日々不確実性を未来にマージしながらも信じて走る そんなスタートアップ
大人ができる唯一の青春

そんなGaudiyのアドカレの締めを担当させていただきました! 

興味がある方は是非!

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